一章 ~体育祭 持久走~
そんなこんなで、今日は体育祭当日。私は体操着に着替え、グラウンドに作られたクラス席にいた。今は待機中だけど、もうすぐ出番が―――持久走が始まる。
「牧野さん?」
私の緊張を感じ取ったのか、隣にいた中田君が声を掛けてくる。いつものように無表情だったけど、どこか心配そうな口調に思えた。
「ううん、大丈夫」
だから私は、彼を心配させまいと思って、なるべく自然に笑顔を作って、そう答える。
「そうですか……」
まだ中田君は心配そうだったけど、私の意志を尊重してか、とりあえず引っ込んでくれた。―――さあ、体育祭はこれからだ。
数分後、私の出番である持久走が始まった。所定の位置について順番を待っていると、緊張で呼吸が荒くなっていく。……ううん、駄目だ。この前、あやめさんに相談したとき言われたこと―――「緊張なんかせず気楽にやれば、大抵のことはうまくいく」を忘れてはいけない。緊張してしまえば、本来の半分程度も力を発揮できなくなるのだから。
「次、二年生女子」
担当の先生がそう言って、私たちをスタートラインへと促してくる。そして、同級生でも特に運動の出来る子達が並ぶ中、一人場違いな私はひたすら深呼吸を繰り返していた。
「位置について、よーい」
スタート位置の先生がピストルを掲げ、私を含めた選手たちが構えを取る。
「どんっ!」
破裂音が鳴り響き、競技開始が告げられて、選手たちが一斉に走り出した。
「はっ……はっ……はっ……」
開始早々、私は他の選手から大きく離されてしまった。逸る気持ちを抑えながら、私はペースを維持することに努める。ここで平常心を欠けば、体力配分を間違えて、後に響いてしまう。……なるほど確かに、気楽なくらいが丁度いいのかもしれない。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
それでも、半分くらい走った辺りで呼吸が苦しくなってくる。普段なら後ちょっとだけど、今回はまだ中盤。ペースはちゃんと考えたつもりだったけど、やっぱりきつかったみたい……。
「桜さーん! がんばー!」
幾重にも飛び交う声援の中で、私の耳に入り込んできたのは、そんな甲高い声。これは……あやめさん? 確か、クラス違うよね……?
「ぶっ飛ばせー! ごぼう抜きー!」
ちょっと素が出てるけど、応援してくれるのは純粋に嬉しい。……ごぼう抜きは無理だけど。
気がつけば、もう後一週というところまで来ていた。他の子達との距離も縮まっていて、うまくやれば最下位脱出も出来るかもしれない。そう思って、ここでラストスパートをかけることにした。
「はぁっ……、はぁっ……、はぁっ……」
正直、もう肺が限界に達していて、呼吸すら辛い状態だった。けれど、何故か足取りは軽い。あやめさんに励まされたからなのかな……?
「はぁっ……、はぁっ……、はぁっ……」
ゴールは目前。もう何人かはゴールしているけど、私と並んで走っている子もまだいる。このままっ―――
「はぁっ……!」
最後にもうひと踏ん張りして、どうにかゴール。死にそうなくらいに苦しいけど、その甲斐あってか、六人中四位でゴールできた。
「はぁ~……、ふぅ~……、はぁ~……」
競技が終わって退場してからも、息切れが止まらない。ここまで走ったのは多分、人生で初めてだと思う。
「大丈夫ですか?」
掛けられた声に顔を上げると、中田君がそこには中田君がいた。やけに心配そうな表情をしていると思ったら、瞳の色が空色ではなく、プライベートで見せる蒼色になっていた。道理で、表情が分かりやすいわけだ。
「はい、これ飲んで、休んで下さい」
労いながら、ペットボトルを手渡してくる中田君。見れば、それはスポーツドリンクだった。もしかして、私のために態々……?
「いい走りでしたから、その分補給もしっかりと、です」
見ていてくれたんだ……なんか、すっごく嬉しい。貰ったドリンクは少し温かったけど、甘さが体に染み渡るようで、とてもおいしかった。
「んっぐ……ふぅ~」
半分くらい一気に飲み干して一息吐くと、小さな疑問が頭を過ぎった。
「……ねぇ、スポーツドリンクって、学校に持ってきてよかったの?」
確か、体育祭のときでも、持って来ていいのはお茶だけだった気がする。
「いいんです。ちょっと甘いほうが疲れが取れやすいですし、そもそもそんな決まりには意味がないですから」
笑顔で答える中田君。学校の決まりを「意味がない」と一蹴するなんて……やっぱり、さすがだと思う。
「どうします? もう少し休むなら、教室か更衣室の鍵を開けますけど」
「確か、体育祭の間は鍵掛かってるよね……?」
体育祭の間、校舎は施錠されている。出入り口だけでなく、教室や更衣室なども個別に。保健室だけは例外的に空いているけど、それは負傷者を受け入れ治療するためであって、休憩には使えないはずだし……。
「あら、私に掛かれば、鍵なんてないも同然ですよ?」
中田君は、悪戯っぽく笑いながらそんなことを言う。そういえば、中田君は魔女なんだから、鍵開けくらい余裕で出来るのだろう。
「う、ううん、遠慮しておくね……」
折角の厚意だけど、鍵開けなんて、犯罪に近い行いだ。そこまでして室内で休みたいわけじゃない。だから、心苦しいけど、彼の申し出は断った。
「そうですか……」
すると、中田君は残念そうに眉を顰める。うぅ……ちょっと悪いことしちゃったかな?
「折角、先生から鍵を借りてきたんですが……それなら、ちゃんと気をつけて休んで下さいね。この季節でも熱中症は起こりますから」
え……鍵開けじゃなくて、鍵を借りてきただけだったの? 態々そこまでしてもらった上に、身を案じてもらって。それなのに私ときたら、あろうことか、とんでもない勘違いを……。
今もなお続く体育祭の喧騒が、胸に残った罪悪感を、チクチクと刺激していく。そんな後味の悪さを残して、体育祭は無事に終了したのだった。




