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 私たちはしばらく影燕と戯れて、笑い声を交わしていた。すると、カナタが視線を落として口を開く。


『莉愛、レースの途中から落ち着いてたね。……よかった』


 安心を滲ませる声音に、胸が少し高鳴る。私を気遣ってくれることが、どうしてこんなに心に沁みるんだろう。


「うんっ、そうなのっ。話せるくらい落ち着けたから話しかけちゃったけど……邪魔じゃなかった?」


 恐る恐る尋ねると、カナタは直ぐに首を振った。


『レース中ってさ……実は少し怖いんだ。一人だし、迷路なんかは狭くて圧迫感があるし、薄暗いからね』


 言葉と一緒に、カナタの睫毛が微かに伏せられる。あの迷路の中を走る時の息苦しさや孤独が、カナタの記憶の奥にまだ残っているんだと思う。


『……でも、そんな時に操導者の魔法とか声が聞こえると、安心できるよ。……一人じゃないって思えるから』


 顔を上げて、私を真っ直ぐに見て告げた機械混じりの声は、金属の冷たさの奥に不思議な温度を宿していた。


 その言葉が胸の真ん中にストンと落ちて、思わず息を呑む。きっとカナタの中には、走っている最中に支えられた記憶が、鮮やかに残っているんだ。


 拓斗の声に背中を押され、孤独なコースの中でも「一人じゃない」と思えた時間。ふたりが声ひとつで繋がれるほどに信じ合っている証。


 その事実が——どうしようもなく嬉しかった。


(……上手くいってるんだな)


 自然とそんな言葉が胸に浮かぶ。


「……そうなんだ。それなら、よかったっ」


 胸の奥に小さな灯りがともったようで、頬が自然に緩む。無意識に笑みが溢れてしまうのを止められなかった。長く張りつめていた心の糸が、やっと一筋ほぐれた気がする。


 カナタはふと壁の時計へ視線を向ける。


『そろそろ六時間目が終わる時間だね。僕は創駆を戻してくるよ』


「分かったっ! 私はここを片付けて戻るねっ……今日は、本当にありがとう」


 ありがとう——言葉にした途端、心の奥で波紋のようにその感謝が広がっていく。口に出せてよかった、と安堵する。


 カナタは黙って頷いた。その目元は、いつもと変わらず穏やかで優しい。だけど、どこか見守るような温かさが宿っていて——その眼差しに包まれると、胸の奥にも温かいものが広がる。


 私は軽く手を振ってから階段を登った。操導者の部屋の扉に手をかけた時、低く唸るようなエンジン音が耳に届いた。カナタのバイクのエンジン音だ——そう気付いた瞬間、その音は加速し、走り去る響きへと変わっていく。


 部屋に入ると、私は真っ先に窓際へと歩み寄り、ガラス越しにカナタを見送った。創駆の搬入口から飛び出すカナタの姿を、背中が見えなくなるまで目を凝らして最後まで追いかける。


 ようやく、片付けに手を伸ばす。と言っても大げさなことはなく、机の上に散らばった迷路の紙を揃え、机の上を整えるくらい。


 だけど、その小さな作業のひとつひとつに、さっきまでの時間の余韻がまとわりついて、心がふわふわしている。


 最後に忘れ物がないか部屋を見回す。空っぽになった机と静かな空間に、ほんの少し寂しさを覚えながら、私は部屋を出た。



* * *



 ——数日後。


 あの日のモヤモヤは、気付けば少しずつ小さくなっていた。カナタと練習したあの時間のお陰で、苦手だったことが「できるかもしれない」に変わっていた。


 巨大迷路の前に立つと、ちょっとドキドキするけど、それ以上に楽しみな気持ちが大きかった。


 いつも一緒に挑戦している詩乃ちゃんの顔を見るだけで、何だか安心する。


「……よしっ! 詩乃ちゃんっ、新しいやり方でやってみようっ!」


 自分でも驚くくらい声が弾んでいた。前よりもずっと、自分の気持ちをそのまま言葉にできる。


「新しいやり方っ? うんっ、分かったっ!」


 体操着姿の詩乃ちゃんは笑顔で創駆を抱え、スタート地点に小走りで向かう。その軽やかな後ろ姿を見ながら、私も操導者の部屋へと入る。


 窓の向こうには巨大迷路。カナタと練習した時とは違う形だけど、怖さはない。寧ろワクワクする。


 今の私には、隣で一緒に挑んでくれる仲間がいるから。


 机に向かい、義手を軽く鳴らしてプレートに置く。魔械歯車(マギアギア)の回転する音が静かに響く。


「詩乃ちゃん、聞こえる?」


「聞こえるよ〜!」


 元気な声がスピーカーから返ってくると、自然に口元が緩む。


 よし、やってみよう——私は目を瞑り、胸の中で小さく拳を握る。


「新しいやり方なんだけど……取り敢えず、着いてきて欲しいんだっ」


「うんっ、分かったよっ!」


 詩乃ちゃんの即答に、胸の奥で小さな高鳴りを感じる。あの日の私なら、こんなふうに前向きになれなかった。だけど今は、迷路を攻略するのがちょっと楽しみなくらいだった。


「よし……それじゃあ、行くよっ!」


 ——ピッ…ピッ…ピッ…ピー!


 タイマーの音が鳴り響くと、私は視覚魔法を展開する。影が私のなぞったルートに沿って、道標のように線を描き出す。


「っ!」


 スピーカー越しに詩乃ちゃんの息を呑む音が届く。詩乃ちゃんは勢いよく創駆に乗り、スタートを切った。


 カナタとやった時よりも速いスピード。だけど、怖くない。寧ろ、影の線が途切れることなく迷路に伸びると、詩乃ちゃんはさらにスピードを上げる。角を曲がる度に微妙に体を傾ける姿を見て、創駆を手足のように操らているのが分かる。


「詩乃ちゃん、大丈夫? もう少しゆっくり進む?」


「ううんっ! もっと早くてもいいよっ!」


 その言葉に、胸がギュッと熱くなる。私を信じてくれている——その信頼が、手に伝わるような感覚だった。


(すごい……っ!)


 右へ左へ、私の作る影を信じてスピードを落とさずに着いてきてくれる詩乃ちゃん。


 ゴールまであと少し。その時、カナタの言葉を思い出した。




 ——レース中は、実は少し怖い。そんな時に操導者の魔法とか声が聞こえると、安心できる——




 私は、詩乃ちゃんに声を届ける。「一人じゃないよ」って伝えるために。


「もう少しでゴールだよっ!」


「うんっ!」


 曲がり角を抜け、真っ直ぐ伸びる道の先にゴールが見える。視界の端で創駆の影が揺れ、詩乃ちゃんが線に沿って進んでくるのが分かる。


 そして——


 ピ———ッ!


 創駆の前輪がゴールラインを越えた瞬間、部屋全体にゴールを知らせるサイレンが鳴った。


 胸が弾けるように熱くなった。影はふわりと散り、迷路の床の影に戻っていく。詩乃ちゃんはそのまま創駆に乗りながら、迷路の外側を周り階段まで戻って来た。


 私は急いで部屋を出て階段を降りると、詩乃ちゃんが私を見るその目は、輝きに満ちていた。


「すごいっ! すごいよ莉愛ちゃんっ!」


 詩乃ちゃんのその声が耳に届いた瞬間、胸の奥がギュッと熱くなる。私の作った影を信じて、迷路の最後まで走り抜けてくれた——その喜びが、言葉にならないほど心を満たした。


「詩乃ちゃんも、すごかったっ! スピードも動きも、カッコよかったっ!」


 胸がいっぱいで、出てくるのは簡単な言葉ばかり。それでも、詩乃ちゃんも同じくらい嬉しそうに顔を輝かせているのが分かる。二人で共有したこの達成感が、私たちの間に小さな誇りと安心感を生んでいた。


「ねぇねぇっ! もう一回やろっ!」


 詩乃ちゃんは興奮気味にせがむ。目がキラキラして、口元に笑みが弾んでいる。もしかしたら、詩乃ちゃん自身も新しい「できること」を見つけたのかもしれない——そんな予感に、私も胸が弾む。


「うんっ!」


 その瞬間、私はただの補助者じゃなく、詩乃ちゃんの「できる」を一緒に育てる存在だと改めて感じた。階段を駆け上がる足取りも軽く、私たちは迷路のスタートと操作席を交互に行き来し、何度も形を変えて練習した。

 気付くと、一時間以上も夢中で練習していたらしい。私も詩乃ちゃんもヘトヘトで、体中が少し痛いくらい。


 だけど、できなかったことができるようになった瞬間の高揚感が、疲れを忘れさせてくれる。


「き、今日は……この辺にしとこうか……」


「そ、そうだね……」


 スピーカー越しに交わす疲れた声も、どこか満足げで、二人の間に小さな達成感が残っていた。合図に従って、私たちはそれぞれ片付けを始める。


 操導者の部屋を元通りに整え、制服に着替えた詩乃ちゃんと一緒に練習部屋の扉を開けて外に出ると、いつの間にか廊下の向こうが騒がしくなっているのに気付いた。


 驚きの声や話し声、走る足音——練習の熱気とはまた違う、ワクワクしたざわめき。


「何だろうね? 何かあったのかな?」


「ね〜」


 私たちは視線を合わせ、少し興奮混じりに廊下へ踏み出す。廊下を進むと、魔械(マギア)掲示板の前には自然と人集りができていた。


「ランキングが変わったのかな?」


 詩乃ちゃんが言うランキングとは、双輪試走のそれぞれのコースのクリアタイムのランキングのこと。トップ10までが掲示板に出されている。


 私たちも人の流れに沿って前に進むと、なぜかみんな私たちを見て道を開けてくれる。自然と道ができ、スムーズに掲示板の前まで来られた。


 そして、このざわめきの理由が分かった——


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