15
少しだけ心を開いてくれた晶くんと私と拓斗は、さっきまで胸の奥でざわついていた違和感なんて、いつの間にか霧のように消えていた。
三人で並んで歩きながら、何でもないことを話して笑い合う。それが妙に心地よくて、自然と表情が緩む。
やがて、目の前に大きな鏡が現れる。
「えっと、魔械工学棟だよね。準備はいい?」
「うんっ、大丈夫だよ」
「……おう」
晶くんが確認する声に、私は自然と頷いた。拓斗も短く返事をする。私と拓斗は、まだ晶くんの肩や腕に掴まったまま。
「二人同時に倒れられたら大変だから」って晶くんが笑って言ったから、詩乃ちゃんたちと合流するまでは甘えることにした。
「それじゃあ、行こうか。莉愛ちゃん、ちょっとごめんね」
繋いでいた手が一度離される。晶くんが左手の義手を軽く握り、澄んだ音を鳴らした。
キンッ——と金属的な響きが空気を震わせる。その音に導かれるように、また私の手を掴んでくれた。
義手の温もりが戻ってきて、少し安心する。思わず小さく息を吐いてしまった。
拓斗も同じように右手の義手を握り、音を鳴らす。キンッ、キンッ。三人分の響きが重なって広がると、鏡の表面が水面のように僅かに揺らいだ。
(何度見ても、不思議な光景……)
胸の奥が小さく高鳴る。私たちはゆっくりと鏡の中へと足を踏み入れた。
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鏡を抜けた先は、壁一面にびっしりと魔械歯車が並ぶ廊下だった。規則的に回転する歯車の音が低く響き、私たちは無事に魔械工学棟へ辿り着けたことを知る。
「えーっと、みんなはどこの工房でやってるのかなぁ」
晶くんが呟き、私たちは開いている扉をひとつずつ覗き込んでいく。三つ目の工房を覗いた時、そこに詩乃ちゃんの姿を見つけた。
「おっ、みんないたね」
安心したように晶くんが言い、そのまま工房へ入っていく。まだ晶くんに掴まっている私と拓斗も、その流れに引き込まれるように足を踏み入れた。
(みんないる……?)
私の視線はまず詩乃ちゃんに止まる。だけどキョロキョロと工房の中を見渡すと、少し離れたところに優ちゃんと玲央くんも確認できた。
(あと、カナタもいるはず……)
そう思って探そうとした瞬間——
「あっ! 莉愛ちゃんだっ!」
元気いっぱいの声が私を呼ぶ。詩乃ちゃんが気付いて、パッと駆け寄ってきてくれた。
「もう操導者の練習はいいの……って、拓斗くん大丈夫っ!? すごい顔色だよっ!」
「そうか、これでも良くなってるはずなんだがな……」
拓斗は苦笑混じりに答える。詩乃ちゃんが心配そうに駆け寄り腕を支えると、拓斗は晶くんの肩から手を離す。私も少し眉を寄せて拓斗の横顔を見つめた。
「……くっ、ふ……」
突然、隣から小さな笑い声が漏れた。見ると晶くんが口元を手で隠し、肩を小さく揺らしている。堪えようとしながらも、目尻は僅かに下がり、楽しげな光が滲んでいた。
ふいに年相応の表情を見せた気がして、私は一瞬言葉を失った。
こんな顔、するんだ。
「晶くん、どうしたの?」
私はポカンとしたまま尋ねる。すると晶くんは私を一瞥した後、ふっと視線を流し、何かを見てニヤリと笑った。そして私の方へ身を寄せ、口元に手を添えて内緒話の仕草をする。
その気配に胸が小さく跳ねる。私は慌てて右耳を差し出した。
「……あのさ……カナタって……っ面白いよね」
抑えきれない笑いを喉に引っかけながら、晶くんは囁いた。
「……面白い?」
思わず反復して問い返す。晶くんは、クックックッと喉を鳴らしながら笑う。笑うのを抑えようとしてるんだろうけど、完全には隠せていない。
晶くんは小さく頷くと、そのまま内緒話を続ける。
「顔が“あぁ”だから、表情が読みにくくてクールな感じがするけど、全然そんなことないよ。普通に慌てるし、怒るし、照れるし、表情がコロコロ変わるよ」
私はそんなカナタを思い浮かべようとした。
晶くんを紹介してくれた時、確かに焦ったような雰囲気はあったけど、表情までは気にしていなかった。
怒っている姿なんて想像がつかない。……でも、初等部で拓斗に言い返した時、あれは怒っていたのかもしれない。
照れる時は……そうだ、お父さんやお母さんがカナタを褒めた時、いつもそっと視線を逸らしていた。でも顔自体にはそこまで出てなかった気がする。
どれも「そうかもしれない」と思うけど、表情がコロコロ変わる、何て言葉はどうしてもピンと来なかった。
「焦ったり怒ったりっていうのは分かるけど……表情がそんなに変わるのか……」
私の方がカナタと長く一緒にいるのに、そのことに先に気付いたのが、寮で同室になってまだ日が浅い晶くんだなんて。胸の奥が、チクリとした。
……いや、それだけきっと晶くんの観察力が鋭いんだ。だから人が喜ぶ言葉や行動が、あんなに自然にできるんだろう。
そう思うと、少し悔しさと同時に、素直に感心もしてしまう。
「表情もそうだけど……そうだなぁ、“尻尾”が見えるよ」
尻尾。その単語を聞いた瞬間、前に玲央くんに尻尾が見えるって話題で、詩乃ちゃんと盛り上がったことを思い出す。
まさかカナタにも、そんな瞬間があるなんて。
「尻尾かぁ……」
「あとは……うん。やっぱり耳——」
『莉愛、大丈夫?』
晶くんの言葉を遮るように、私を心配する機械混じりの声が飛んできた。
「あっ、カナタ」
「おや、カナタ。わざわざ迎えに来てくれたの?」
晶くんがいつもの柔らかな笑みを浮かべながら声をかけると、カナタは返事をする代わりに、キッと鋭い視線を返した。
(……カナタ?)
カナタが誰かを睨みつけるなんて、初めて見た。普段は無表情に近くて感情が読み取りにくいはずのカナタが、はっきりと敵意を示している。胸の奥がぞわりとする。
『莉愛と……うちの操導者に、どれだけ無理させたの?』
声音は冷たく、だけどそこに含まれていたのは怒りだけじゃなかった。
私への心配、そして隣に立つ拓斗への気遣い。自分だけじゃなく拓斗のことまで思ってくれているのが伝わってきて、私は一瞬言葉を失った。
拓斗もまた、意外そうにカナタを見て目を瞬かせていた。
慌てて私は手を振り、弁解するように声を上げた。
「カナタっ、違うよっ! 私たちの苦手な魔法を、いっぱい練習させてくれただけだよっ」
カナタは私の方へ視線を移し、それから拓斗の顔を見た。拓斗は静かに頷き、私の言葉を裏付けてくれた。
『……そっか』
小さく納得したように呟くカナタ。その目が少しだけ和らいだ気がした。
一方で晶くんはというと、まるで気にする様子もなく、寧ろ楽しげにカナタを見返していた。そして肩をすくめると、ふっと笑みを深めて口を開く。
「まぁ、無理を止めなかったのは確かだし、ごめんね、カナタ」
「えっ、晶くん、謝らないでよっ。こっちは今日、すごく助かったんだからっ!」
思わず私は声を張り上げていた。謝られるなんて心外だった。
だって今日の練習で、私も拓斗も大分、視壁結界のコツを掴めたのだから。疲れは残っているけど、それ以上に手応えがあった。
謝ってほしいなんて、思ってない。寧ろ感謝しかなかった。
「助かった? ……じゃあ、また練習、ご一緒してもいい?」
「えっ、うんっ。もちろんっ!」
私は思わず笑って答えていた。胸の奥に小さな火が灯るみたいに、心がふっと温かくなる。今の晶くんなら、また一緒に練習したい。素直にそう思えたからだ。
晶くんは私の顔を一瞬見て、それから視線を外した。そして、唇の端を押さえるように小さく吹き出した。何が可笑しいんだろうと、私は釣られてその視線を追う。
するとカナタと目が合った。だけどカナタはすぐに目を逸らし、無表情で横を向いた。
(……?)
胸の奥に小さな疑問が生まれる。晶くんの笑いはその答えを教えてはくれない。
ただ、笑いを抑えるように肩を揺らし、余韻を楽しむみたいに私の反応を待っている。
私だけが、少し取り残されている気がした。




