そこにあるはずがなかった——静かな綻び
朝のホームルームが終わると同時に、
私は立ち上がった。
日向先生が教室を出るのを見て、
反射的に後を追う。
「っ……日向先生っ!」
廊下に出たところで呼び止めると、
先生はすぐに振り返った。
「莉愛さん。どうしましたか?」
いつもと変わらない穏やかな声。
それだけで少しだけ落ち着く。
だけど――
胸の奥のざわつきは消えてくれなかった。
「あの……」
息を整えながら、
言葉を探す。
そして、
朝の出来事を一つずつ説明した。
体育のとき、
菊理をロッカーにしまっていたこと。
昨日、
そのまま忘れて帰ってしまったこと。
そして――
今朝、
無くなっていたこと。
先生は最後まで遮らずに聞いてくれた。
何度か静かに頷きながら、
表情が少しずつ変わっていく。
やがて、
その瞳に“教師の顔”が宿った。
「……分かりました」
静かに言葉が落ちる。
「今日は一人で行動しないでください。必ず誰かと一緒に――」
「それと、念のためもう一度、心当たりを探してみてください」
優しい口調。
でも、その奥に“警戒”が滲んでいた。
「はい」
私は深く頭を下げて教室へ戻った。
教室の中は、
もういつもの朝のざわめきに戻っていた。
ロッカーの開閉音。
本のページをめくる音。
椅子を引く音。
教室の出入りが激しい。
でも――
それが妙に遠く聞こえる。
自分だけが、
少し違う場所にいるみたいだった。
みんながいる、
いつもの場所へ向かう。
「莉愛ちゃん……大丈夫だった……?」
詩乃ちゃんが心配そうに見上げる。
引き寄せられるように
詩乃ちゃんの席へ行く。
「うん、大丈夫。怒られなかったよ」
安心させるように笑った。
「でも……今日は誰かと一緒に行動してって」
「任せてっ!」
そのまま抱きついてくる詩乃ちゃん。
「ふふっ」
少しだけ気持ちが軽くなる。
「なぁ」
玲央くんが腕を組みながら言った。
「菊理に連絡してみたか?」
「してないよ。出られないでしょ」
「いや、莉愛は音が聞こえるだろ」
その一言で
空気が変わった。
「そっか……!」
「今やってみるねっ!」
詩乃ちゃんがすぐに菊理を取り出す。
そして、私の菊理へ接続。
「……莉愛ちゃんっ」
――いつもなら。
光る。
鳴る。
あの優しい音が響く。
でも。
何も、聞こえない。
静寂。
「……莉愛ちゃん、どう?」
詩乃ちゃんの声が震える。
私は首を振った。
胸の奥で、冷たい何かが広がる。
(……やっぱり)
“無くした”じゃない。
“消えた”。
◇ ◇ ◇
その日一日、私たちは探し続けた。
休み時間。
移動教室。
昼休み。
詩乃ちゃんとカナタは、
ずっと隣にいてくれた。
『大丈夫。見つかるよ』
その一言に、何度も救われた。
でも――
見つからなかった。
放課後。
「――起立――礼」
「「「さようなら」」」
終わりの合図。
私は、小さく息を吐いた。
(……なかった)
五、六時間目の選択授業先でも。
何も。
「見つからなかったね……」
詩乃ちゃんがぽつりと呟く。
「うん……」
空気が少しだけ重くなった。
沈黙を破ったのは玲央くんだった。
「ずっと考えてるけど、他人の菊理なんて取ってどうすんだ?」
「それね。あたしも思った」
優ちゃんが腕を組んで頷く。
確かに。
誰でも持ってる。
価値はない。
なのに――
「……嫌がらせ?」
言ってしまった瞬間。
空気が止まる。
「えっ!?」
詩乃ちゃんが大きく反応する。
(違う……違うって思いたいのに)
でも。
その言葉だけが、
妙に現実的だった。
「とりあえず職員室行くか。紛失物で届けられているかも知れない」
拓斗が言う。
私は頷いた。
みんな揃って、
鞄を持って教室を出ようとした。
――そのとき。
カナタだけが、動かなかった。
「カナタ?」
呼びかけても、すぐには返事がない。
いつもなら、すぐに反応してくれるのに。
カナタはゆっくりと、鞄に手を入れた。
その動きは、どこかぎこちなくて。
まるで――
何かを“確かめる”みたいだった。
(……なんで)
嫌な予感が、胸の奥で膨らむ。
カナタは、今日ずっと私のそばにいた。
朝も。
授業中も。
休み時間も。
一度も、離れていない。
(……なのに)
その手が、何かを掴む。
一瞬、止まる。
――震えた。
そう見えた。
そして。
ゆっくりと、取り出される。
紅梅色。
乳白色。
青藤色。
見間違えるはずがない。
「……それ――」
喉が、うまく動かない。
それは。
私の、菊理だった。
空気が、止まる。
ざわめきが遠くなる。
でも。
完全には止まらない。
誰かの笑い声。
椅子を引く音。
全部が遠くで鳴っているのに。
ここだけが、別の世界みたいだった。
(……違う)
だって、カナタは――
今日、一日中。
ずっと、私と一緒にいた。
(じゃあ、なんで)
答えが出ないまま。
カナタの手の中で、
私の菊理だけが、
“確かに、そこにあった”。
お読みいただき、ありがとうございます。
信じているものと、
目の前にある現実が、噛み合わないとき。
人は、どちらを選ぶのでしょうか。
安心だったはずの存在。
その中に生まれた、わずかな揺らぎ。
この違和感が、どう繋がっていくのか。
見守っていただけたら嬉しいです。




