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静かな日常に落ちた違和感——静かな綻び

 二組のエスとアプレンティスのペアが誕生してから、

 私たちの周りの空気は、日ごとに明るくなっていた。


 誰かが笑えば、誰かが応じる。


 そんな連鎖が、当たり前みたいに続いている。


 ――そんな中で。


 玲央くんが、学校を休んだ。


 ただの風邪。


 朝、利玖から菊理で連絡が来た。


「玲央が風邪引いたから休むわ」


 あまりにもいつも通りの声だった。


 学校にはすでに連絡済みらしく、

 私にも一応伝えておこうと思ってくれたらしい。


[俺のアプレンティスだからなっ!]


 少し鼻にかかった声が、

 妙に嬉しそうで。


 本当に仲がいいんだな、と思う。


 そして今は――


 四時間目の体育を終えて、

 玲央くんを除いたいつもの五人で教室へ戻る途中。


 ふと、羽織の袖口に目を落とした。


 ここ数日、

 暑い日が続いていて、

 私たちの羽織も“絽羽織”と呼ばれる

 夏仕様に変わっている。


 風が通るたびに、

 僅かな涼しさが抜けていく。


(……とは言え、暑い)


 タオルで顔を拭くと、

 ぬるい風が肌を撫でた。


「玲央くんがいないと、休み時間以外はつまらないなぁ」


 思わず零れた言葉に、

 自分で少し驚く。


 あの何気ない会話が、

 どれだけ楽しかったのかを、

 今さら思い知る。


「莉愛ちゃんたちと私たちの席、離れちゃってるもんねぇ……」


 詩乃ちゃんが体操着入れを抱えたまま、

 少しだけ肩を落とすように言った。


 玲央くんがいないだけで、

 こんなにも空気が静かに感じるなんて。


 やっぱり玲央くんは、

 場の空気を照らす太陽みたいな人だ。


「優ちゃん“ユ”でしょ〜。こっちの席来てよ〜」


 今の席順は、

 席替えをしていないから出席番号順。


 私と玲央くんは、

 窓側の後ろから二番目と三番目という

 なかなかの良ポジション。


 それでも退屈には勝てなくて、

 軽口で優ちゃんに言ってみた。


「あたし、本名“スグル”よ」


「そうだった〜」


 知ってたけど、つい冗談を言いたくなる。


 ――だって、私の席の周りには、

 まだ気軽に話しかけられるような友達が少ないから。


「じゃあ拓斗でいいや。今日だけ“リクト”になって玲央くんの席にいてよ」


「何言ってんだよ……」


 拓斗が呆れたように言いながらも、

 ほんの一瞬、口元に笑みが浮かぶ。


「てか、それこそカナタや詩乃にお願いしねぇのかよ」


「カナタと詩乃ちゃんに、そんな我儘言うわけないでしょ!」


 即座に否定してしまう。


 この二人には、

 できるだけ迷惑をかけたくない。


 どこかで、そう決めていた。


「俺はいいのかよ……」


「あたしにも我儘言ってない?」


 優ちゃんが、

 わざと少し意地悪そうに笑う。


 私は両手を合わせて、

 左の頬にそっと添えながらおどけて答えた。


「優ちゃんには、親しみを込めて我儘を言います」


「あらっ、喜んでいいのかしら」


 優ちゃんがふふっと笑い、

 肩をすくめる。


 笑い声が、

 午後の日差しの中に優しく溶けていった。


 教室に入ると、

 空っぽの後ろの席が目に入った。


 それだけで、

 空気が少し薄く感じる。


 いつもあったはずの音が、

 ひとつ抜け落ちたみたいだった。


(……やっぱり、玲央くんってすごいな)


 静かな教室の中、改めてそう思う。


 私は肩に掛けていたフェイスタオルを

 そっと椅子の背にかけた。


 体育の授業の後に汗を拭いたせいで、

 ほんのり湿っている。


「莉愛ちゃーんっ! ご飯、行こ〜!」


 明るい声が響いた。


 振り返ると、

 詩乃ちゃんが笑顔で手招きしている。


「うんっ、行こっか!」


 詩乃ちゃんの元へ行く。


 カナタが鞄から

 流動食のパックを

 取り出すところだった。


「カナタも、食堂行く?」


 カナタは鞄を漁りながら、

 私に目を向ける。


 鋼鉄のマスクが陽の光を受けて淡く光った。


『あ、行こうかな。何か飲も』


「行こ行こっ!」


 詩乃ちゃんが嬉しそうに手を振り、

 私の背中を軽く押した。


 私はカナタの方をちらりと見て、

 小さく笑う。


 ――三人で過ごす、ただの昼休み。


 でも、こうして笑い合える時間が、

 思っている以上に大切なんだと、

 胸の奥が静かに教えてくれた。


 私たちはそのまま食堂へ向かった。



◇ ◇ ◇



 放課後。


 部活を終えて、

 私と詩乃ちゃんは寮へ戻ってきた。


「「ただいま〜!」」


 部屋に入った瞬間、

 ふっと肩の力が抜ける。


 ここは、誰にも見られない場所。


 それだけで、安心できる。


 私は勉強机に鞄を置き、

 羽織を脱ぎながら、

 詩乃ちゃんと並んで着替えを始める。


 部屋着用のキャミソールにガウチョパンツ、

 そしてお気に入りの薄手のカーディガン。


 袖を通す度に、

 肌に触れる柔らかい布の感触が、

 一日の疲れや少しの緊張を

 吸い取っていくように感じられた。


 着替え終えてベッドに腰を下ろしたとき。


 視界に一瞬、影が走った。


(ん?)


 追って視線を机へ向ける。


 ――ない。


(菊理が……ない)


 胸元に手を当てる。


 やっぱり、ない。


 その瞬間。


 心臓の奥がひやりと冷えた。


「莉愛ちゃん、どうしたの?」


 詩乃ちゃんの声で、はっとする。


「あっ、菊理がなくて……学校に忘れちゃったのかな?」


 唇に指を添えながら、

 頭の中で今日の出来事を追ってみる。


 すると――


「きっとロッカーだよ! 今日、体育があったからっ」


「あぁっ!」


 私は詩乃ちゃんの気づきに、

 大きく頷いた。


 いつも体育の時間は、

 落としたり壊したりしたら大変だからと、

 必ずお気に入りのハンカチに包んで

 ロッカーにしまってから授業に出る。


 でも今日は汗がすごくて、

 汗ばんだ首に菊理をかけるのは少し気が引けた。


 少しくらい持ち歩かなくても

 大丈夫だろうと軽く考えて、

 そのままにしてしまったんだ。


「そうだ、体育の授業があるからロッカーに入れっぱなしだ……」


「でもロッカーなら安心だねっ!」


 学園のロッカーは、

 本人にしか開けられないようになっている。


 詩乃ちゃんの明るい励ましに、

 心の中の不安の色が少しずつ薄くなっていく。


 小さな安堵が、

 胸の奥でふわりと広がった。


「そうだね、誰からも連絡が来てないといいけど……」


 明日、無事に戻ってくるはず。


 そう思いながら、

 私は深く息を吐いた。


 ――そのとき、

 足元の影が僅かに揺れた。


「……?」


 そして同時に、“違和感”を覚えた。


 何かを、忘れているような感覚。


 でも。


 それが何なのかは、思い出せない。


「……ま、いっか」


 小さく呟いて、ベッドに倒れ込む。


 ――このときは、まだ。


 それが“ただの忘れ物じゃない”なんて、

 思ってもいなかった。


 いや――


 思いつかなかった。

読んでいただき、ありがとうございます。


穏やかな日常の中に、ほんの少しの違和感。

その“気のせいかもしれない何か”が、

物語を動かし始めます。


影は、心に応えるもの。

だからこそ——違和感にも、意味がある。


引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。

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