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私たちが乗ったバスは、夕暮れの学園都市を静かに滑るように走った。窓の外に流れる橙色の景色を眺めながら、少しずつ魔械灯の明かりが灯り始める。
しばらくバスの揺れに身を任せていると、寮棟のバス停が目の前に広がった。バスはゆっくりと速度を落とし、タイヤの振動が床を伝わってくる。
ドアがゆっくりと開き冷たい風が差し込む。乗客たちが一人、また一人と降りていき、車内のざわめきが少しずつ静まる中、私たちもそっと立ち上がった。
鞄を手に持ち、足元に気をつけながら一歩を踏み出す。夕暮れの光が差し込むバス停に降り立った瞬間、今日一日の終わりを実感し、少しだけ心がホッと温かくなるのを感じた。
「着いたーっ!」
詩乃ちゃんがバスを降りるなり、腕をグッと伸ばして大きく背伸びをした。その無邪気な仕草に空気が少し柔らかくなる。
私はふと足を止め、視線を前に向ける。睦月寮から水無月寮まで、六つの建物が並んでいる。形こそ少しずつ違うけど、和洋折衷の建築で統一された壁や屋根がどこか落ち着いた景色を作り出していた。
「は〜……それじゃあカナタくん、また明日っ!」
『うん、また明日』
詩乃ちゃんとカナタが、お互いに手を振り合う。
「またね」
『うん、またね』
私もカナタへ手を振りながら、胸の奥に小さな不安が過った。
カナタはこれから自分の寮に戻って、昨日初めて顔を合わせた人と同じ部屋で眠ることになる。あまり眠れなかったと話していた昨日の夜を思い出すと、少しだけ心配になる。
私はヒラヒラと振っていた右手を、そのままカナタの手の平にパチンッと重ねた。乾いた音が夕暮れの空気に小さく弾ける。
その響きに合わせるように、私は自然と笑みを浮かべていた。
小さい頃、緑の教会でカナタがしてくれたあのおまじない。バイバイが寂しくて泣きそうだった私を、笑顔にしてくれた仕草。
カナタは一瞬キョトンとした目で私を見たけど、すぐに目元を優しく緩めた。声に出さなくても分かる、静かな微笑み。
その優しい笑顔に安心して、私の胸の奥もふわりと温かくなる。手の平に残るその感触が、夕陽よりも確かに心を照らしていた。
私と詩乃ちゃんは弥生寮へ、カナタは如月寮へ歩き出す。
詩乃ちゃんと並んで歩き出す。辺りにはちらほらと人が歩いているけど、夕陽が照らす寮への道は静かに感じた。肩が触れ合いそうな距離で歩きながら、詩乃ちゃんと今日あったことや明日のことを自然に話し合った。
夕陽はまだ空を橙色に染め、影を長く伸ばす。風が少し冷たくて、でもそれが心地よく、歩く度に小さな季節の香りを運んでくる。
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弥生寮に着いた私たちは、エレベーターに乗り込んだ。十九階のボタンを押す私の後ろで、詩乃ちゃんは壁に映る猫たちへ挨拶をする。
「ただいま、影猫ちゃんっ」
今日からこの子たちは“影猫ちゃん”らしい。詩乃ちゃんが壁を指でつっつくと、影猫ちゃんは指先に擦り寄って来た。まるで「おかえり」と囁いているかのように影を揺らした。
やがてエレベーターはゆっくりと上昇し、十九階で軽い音を立てて止まる。扉が開くと、私たちは振り返って影猫ちゃんにバイバイをして、廊下へと足を踏み出した。
“1942”の扉の前で立ち止まり、鍵を差し込んで回す。小さな音と共にドアが開く。
「ただいまーっ!」
詩乃ちゃんが帰宅の声を上げ、ベッドに身を投げ出した。
「はぁ〜……」
ベッドの上で力尽きたように伸びる詩乃ちゃんの姿に私は思わず小さく笑い、机に鞄と菊理を首から外して置く。
「さっ、着替えちゃおっ! そのままだとシワになっちゃうよ」
「そうだねっ!」
私の言葉に詩乃ちゃんはハッとしたように顔を上げ、勢いよくベッドから起き上がった。私たちは並んで羽織を脱ぎ、手際よく制服から長袖ワンピースへ着替え始める。
振袖のように長い袖を持つ羽織は、少し動かすだけでひらりと揺れ、その度に昼間の余韻を纏った空気がサラサラと溢れていくようだった。
クローゼットにある専用のハンガーにそっと掛けると、生地がふわりと落ち着いて形を整える。シンプルな造りなのに、どこか華やかに見えるのは何故だろう。
クローゼットをそっと閉めたら、自分の勉強机の椅子に座って鞄の中から国語と数学の教科書を取り出した。
「えっ!? 莉愛ちゃん、教科書持って帰って来たのっ!?」
着替え終わって、ベッドでゆっくりしていた詩乃ちゃんが、目を丸くする。
「ん? うん、予習しとこうと思って」
「うわ〜、すごいなぁ……」
そう呟くと、詩乃ちゃんはまた力尽きたようにベッドへと倒れ込んだ。
「いやいや、こうしないと授業についていけないだけだよ」
私は苦笑いを浮かべながら、教科書を机に広げた。
国語は物語の文章を読んだ後、作者の主張や主人公の気持ちを考えるとかそんな感じ。本を読むのが好きな私は少しワクワクした。
(これは、面白そうだなぁ)
しばらくパラパラと国語の教科書を眺めた後、問題の数学の教科書を開いた。
(算数と何が違うのかな?)
数学の最初の単元は「正負の数」。どうやら、0より小さい数まで扱うらしい。ページを捲りながら眉をひそめていると、声が飛んできた。
「莉愛ちゃーん……数学、難しそう……?」
声が聞こえる方を振り向くと、詩乃ちゃんが不安と憂鬱を足して割ったような表情で私を見ている。
「ん〜……とりあえず、最初は……足し算かな?」
「えっ! 足し算なのっ!?」
途端に目を輝かせ、ガバッとベッドから起き上がる詩乃ちゃん。その勢いに思わず笑ってしまう。
「うん。正負の数っていって、マイナスの数字が出てくるんだって」
「ま、まいなす?」
詩乃ちゃんは恐る恐る机に近付いて来て、私の横から教科書を覗き込んだ。だけど、数式を目にした瞬間から眉間にシワが寄っていく。その変化が面白くて、ついまた小さく吹き出してしまう。
「……莉愛ちゃん」
やがて詩乃ちゃんは、半分泣きそうな顔で私を見て言った。
「数学、分からなくなったら……教えてくれる?」
お願いする声があまりに必死で、申し訳ないと思いながらも可愛いなって思ってしまった。
「ふふっ……じゃあ、教えられるように頑張って勉強するねっ」
そう言うと、詩乃ちゃんの表情が一瞬にしてパァッと明るくなった。その笑顔に私まで胸が温かくなる。
「ありがとうっ! じゃあ私は、莉愛ちゃんの苦手な教科を頑張るねっ!」
「うんっ、よろしくっ!」
互いに顔を見合わせて笑い合う。その笑い声は静かな部屋の空気を弾ませるように響き渡り、まるで秘密の約束を交わしたように心地よく残った。
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