走りの記憶——双輪試走
「…………」
「…………」
控え室の空気は、
どこか現実味を欠いていた。
私たちはただ並んで、
ぼんやりとベンチに腰を下ろしている。
ついさっき終えたばかりの双輪試走。
なのに、まだ終わった気がしない。
胸の奥はざわざわしているのに、
手足は鉛みたいに重くて、
指先ひとつ動かすのも億劫だった。
「……莉愛ちゃん……大丈夫?」
隣で詩乃ちゃんが天井を見上げたまま、
力の抜けた声で問いかけてくる。
「うん……でも、なんか……あんまり覚えてないかも……」
本当にそうだった。
必死で、夢中で、
ただ前へ前へと進んでいた。
どの道を走ったのか。
どんなふうに魔法を使ったのか。
思い出そうとしても、
頭の中が白く霞んでいて、
うまく掴めない。
「……わかる」
詩乃ちゃんは、
小さく笑って答えた。
複数のコースを
一気に突破するなんて初めての経験だった。
体力も頭も全部使い切って、
余裕なんてどこにもなかった。
それでも――
こうして座っていると、
遅れてじわじわと達成感が押し寄せてくる。
「……後で記録の映像を見たら、思い出せるかな?」
ふと口にすると、
自分でも少しだけ笑ってしまった。
最初に見た、
あの双輪試走の映像みたいに。
今日の自分たちの走りを見返したら、
今はぼやけている時間も
少しずつ輪郭を取り戻してくれる気がした。
「そうだね……」
「とりあえず、制服に着替えてくるね……」
詩乃ちゃんがゆっくり立ち上がる。
詩乃ちゃんの義足から、
ぎしっと軋む音が鳴った。
「大丈夫っ? 手伝おうか?」
思わず声をかける。
詩乃ちゃんの足取りが
少しだけふらついて見えて心配になった。
「大丈夫〜」
ひらひらと手を振って、
詩乃ちゃんは更衣室へと消えていった。
その背中を見送りながら、
胸の奥にじんわりと実感が広がっていく。
――双輪試走が、終わったんだ。
◇ ◇ ◇
「お待たせ〜」
制服に着替えた詩乃ちゃんが戻ってきた。
さっきまでのぼんやりした雰囲気が
少し薄れていて、
表情も心なしか明るく見える。
私もベンチから立ち上がり、
詩乃ちゃんと並んで歩き出した。
「それじゃあ、教室に行こうかっ」
「うんっ!」
控え室を出て、
長い廊下の先にある鏡へ向かう。
鏡を抜けて、
いつもの階段の踊り場へ出た瞬間――
廊下はざわめきで満ちていた。
どの教室からも、
笑い声や歓声が漏れ聞こえてくる。
どこかの扉が開いた拍子に、
「うわぁーっ!」と大きな声が響いて、
思わず私たちは顔を見合わせた。
「私たちのも……もう流れてるのかな?」
「そうかもねっ、行こっかっ」
詩乃ちゃんも、
少し照れくさそうに笑っている。
通り過ぎる教室をちらりと覗くと、
スクリーンにはクラスメイトたちの
レース映像が映し出されていて、
そのたびに生徒たちが身を乗り出し、
手を叩いて盛り上がっていた。
名前を呼ぶ声。
歓声。
笑い声。
鼓動が早まるのを誤魔化すように、
私は少しだけ歩幅を速めた。
教室に着くと、
カナタと拓斗がそれぞれ自分の席に座っていた。
カナタは壁にもたれ、
机に頬杖をつきながら、
足を組んでスクリーンを見上げている。
拓斗は椅子に浅く腰掛け、
少し眠そうにしながらも、
じっと画面に集中していた。
二人とも映像に夢中だったみたいだけど、
私たちに気づくと振り返ってくれる。
『お疲れさた、二人とも』
「お疲れ」
「お疲れさま〜っ!」
軽やかに交わされる声に、
胸の奥が少しだけ温かくなる。
張りつめていた疲れが、
労いのひと言で
ふっとゆるんでいくみたいだった。
「お疲れさま」
私も少し遅れて声を返した。
スクリーンには、
私たちの前に走ったペアの映像が流れていて、
クラス中の視線がそこに釘付けになっている。
「あっ! 次、私たちだよ、きっとっ!」
詩乃ちゃんが弾んだ声を上げ、
そのまま自分の席にちょこんと座る。
私は一瞬だけ立ち止まった。
自分はどこに座ろうかと迷っていると、
『莉愛、疲れたでしょ? 座りな』
カナタが立ち上がって、
自分の椅子を差し出してきた。
「えっ」
思わず声が裏返る。
断ろうと口を開くよりも早く、
カナタは当然みたいな顔で自分の机に腰掛け、
そのまま足を組んで壁に背を預けた。
少し行儀は悪いけど、
教室を見渡せば、
同じように机に腰掛けて
スクリーンを見上げている子も何人かいて、
少しだけ安心する。
(先生もいないし……ま、いっか)
「ありがとう」
私は壁を背にして椅子に腰を下ろした。
スクリーンには、
巨大迷路の中で右往左往するペアの姿。
笑い声と声援が
教室のあちこちから湧き起こり、
その熱気に包まれながら私は画面を見つめた。
『迷路のコース、あってよかったね』
カナタの声が落ちてくる。
その声音には、
どこか私のために
安心してくれているみたいな
響きがあった。
双輪試走は、
七つのコースを順番に突破して
ゴールを目指す競技だ。
その内容は、
毎年七賢者が決めているらしい。
「うんっ!」
私は迷わず頷いた。
胸の奥から
じんわりと湧き上がる感謝を抱えながら、
そっと心の中で祈る。
(迷路を選んでくださった賢者様……ありがとうございます)
巨大迷路コースを選んでくれた誰かに、
心の中で静かにお礼を言った、
そのときだった。
――ドドドッ!
廊下から勢いのある足音が響いてくる。
そのまま一直線に
私たちの教室の前まで迫ってきて、
ぴたりと止まった。
次の瞬間。
勢いそのままに、
玲央くんが飛び込んできた。
「ハァッ、ハァッ……俺らのはまだっ!?」
額に汗を光らせ、
肩で息をしながら、
それでも目だけは輝いている。
思わず私は、
その無邪気な顔に圧倒されてしまった。
「お疲れさま。次、私たちで、その次が玲央くんたちの番だよ」
私が答えると、
玲央くんは弾けるように笑った。
「よーしっ、間に合ったぁ!」
本気で安心したのか、
前髪を汗で濡らしながらかき上げる仕草も、
なんだか子どもっぽくて憎めない。
「……何で玲央は、そんな元気なんだよ……」
低い声が続くと、
優ちゃんが教室に入ってきていた。
玲央くんとは対照的に、
疲れた顔を隠そうともせず、
肩を落としたまま歩いてくる。
その足取りには、
疲労がこれでもかというくらい滲んでいた。
優ちゃんはそのまま自分の席まで辿り着くと、
自分の席に腰を下ろした。
今にも机に突っ伏しそうなくらい、
ぐったりしている。
「優っ、借りるぞー!」
玲央くんが元気いっぱいに宣言し、
そのまま迷いなく優ちゃんの机に腰掛けた。
さっきのカナタみたいに、
当然のように。
「……俺が見えねぇだろ……」
優ちゃんがぼやく。
仕方なさそうに
椅子を机の横へずらして座り直す姿を見て、
私は思わず心の中で微笑んでしまった。
(……仲いいなぁ)
その直後。
「優ちゃんっ、口調が男の子になってるよ?」
詩乃ちゃんが、
私の代わりみたいに突っ込んだ。
カナタと拓斗も少し驚いたように視線を向ける。
「あぁ、今は疲れたからいいの……」
優ちゃんは玲央くんの腰掛ける机に肘をつき、
そのまま頬杖をついた。
ぐったりしているはずなのに、
無造作に足を組んで座っているだけなのに、
その姿は不思議と綺麗だった。
『……莉愛たちの番、始まるよ』
カナタの機械混じりの落ち着いた声。
ざわざわした教室の中なのに、
そのひと言だけが不思議なくらい
はっきり耳に届いた。
胸の奥が一気に高鳴る。
さっきまでの疲れなんて、
嘘みたいに吹き飛んだ。
私は思わず息を呑み、
スクリーンへ顔を向ける。
「わーっ、楽しみっ! さっきのことあんまり覚えてないんだよねっ!」
「何でだよ……」
詩乃ちゃんの言葉に、
拓斗が呆れた声を出した。
その軽いやり取りに、
教室の空気もまた少しだけやわらぐ。
そして――
スクリーンに私たちの双輪試走が映し出された。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、試走直後の「記憶の曖昧さ」と、
それでも確かに残っている達成感を描いた回でした。
全力でやり切った時ほど、
細かいことは覚えていないのに、
感覚だけが残る——
そんな状態をイメージしています。
そして次回は、
いよいよ“自分たちの走り”を客観的に見る時間です。
本人たちが覚えていないものが、
どんなふうに映っているのか。
引き続き、よろしくお願いします。




