06
車内の空気がすっかり穏やかになった頃、窓の外に緑の教会が見えてきた。曲がり角をひとつ越えれば、もう別れの時が来る。
「……もう着いちゃうのか。」
ぽつりとつぶやいた私に、運転席からお父さんの声が返ってくる。
「莉愛、寂しいのかい?」
からかうような笑い混じりの口調だったけど、私は小さく頷いた。
「……うん。寂しい。」
その時、右手にふわりと伝わってきた、優しい温もり。カナタがそっと、手を重ねてくれていた。
『……また月曜日ね。』
静かに告げられたその声は、柔らかくて、優しかった。それだけで、胸の奥がきゅっとして、何だか泣きたくなる。
『中等部の制服も、届いたら着ないとね。羽織のサイズ、直さなくて済むといいね。』
カナタの言葉に、私は小さく頷く。
「うん、そうだね。……カナタ、中等部でも、仲良くしてくれる?」
『もちろん。…こちらこそ、よろしくね。』
その返事は迷いのないまっすぐな言葉で、私はまた少し安心した。
「カナタ君は、本当に莉愛と同い年かな?」
ハンドルを握りながら、お父さんがクスッと笑う。その言葉に、私も思わず笑ってしまう。
確かに、時々不思議に思う。カナタは、同い年とは思えないくらい、静かで、大人びていて……だけど、私にとって、1番近くにいてくれる、大切な友だち。
車が緩やかに坂を登りきると、窓の外に、見慣れた建物が見えてきた。まるで植物の庭園のように、道の両側には色取りどりの草花や薬草が植えられていて、静かに風に揺れている。
その奥に建つ教会の屋根には、七芒星を描いた丸いステンドグラスがはめ込まれ、内側から溢れる光を受けて、優しく煌めいていた。
車が門の前で止まると、お父さんが静かに声をかけた。
「はい、着いたよ。」
『……ありがとうございました。』
カナタが丁寧に、お父さんに挨拶をする。そして、私の顔を心配そうに見つめる。
私は”大丈夫だよ”という気持ちを込めて、笑ってみせた。
「……また月曜日に会おうねっ。」
『……うん。』
カナタが車のドアを開けて降りる。さっきまで握ってくれていた手が、離れた途端に冷たくなったように感じて、少しだけ胸が痛くなる。
私は窓を開けて、手を振る準備をする。外の空気は冷んやりしていて、薬草や沈丁花の優しい香りが、どこか懐かしい気持ちを運んできた。
『「バイバイ。」』
ふたり同時に声を重ねて、ぱちんと手を張り合う。その一瞬が、いつまでも続けばいいのに。そんなふうに思った。
車がゆっくりと動き出す。カナタの姿がだんだんと小さくなっていく。だけど、カナタはずっと手を振っていてくれた。
見えなくなるその瞬間まで、まるで私の気持ちを包むように。
カナタの姿が完全に見えなくなってから、私はそっと窓を閉めた。外の風の香りと、少しだけ残っていた温もりが、ゆっくりと車内から消えていく。
「本当に、2人は仲がいいんだね。」
お父さんがそう言って、ふっと笑った。
「……うん。」
私は少しだけ言葉を溜めてから、ぽつりと続けた。
「お父さん……少し前までは、カナタとバイバイしてもこんなに寂しくなかったのに。どうして、今日はこんなに寂しくなっちゃうんだろう?」
ほんの数ヶ月前までは、あっさりと「またね」って言えていた。何の不安もなく、すぐに会えるって信じていた。なのに今日は—言葉にできないモヤモヤが、胸の奥をぎゅっと締めつける。
「うーん、そうだな……もうすぐ中等部に上がるからじゃないかな?」
お父さんは、赤信号で車を止め、ゆっくりとした声で言った。
「中等部からは学園都市での生活だからね。寮での生活になるし、今まで見ていた世界がガラッと変わる。莉愛はきっと、その変化を少しだけ感じ取ってるんだろうね。」
「そんなに、変わっちゃうの……?」
「変わるよ。常盤町だけじゃなく、色んな町から人が集まってくるからね。考え方も違えば、付き合い方も違う。自然と、色んなことが変わっていくものさ。」
その言葉を聞いて、私は急に怖くなった。私が、私じゃなくなっちゃったらどうしよう。カナタが、知らない誰かになってしまったらどうしよう。
そんな心配を読み取ったように、お父さんは続けた。
「でもさ、カナタ君は『中等部に行っても仲良くしてくれる』って言ってくれたじゃないか。今は、その言葉を信じてみてもいいんじゃないかな?」
…そういえば、あの時の私は、自分でも驚くくらい不安になって、あんなことを聞いてしまった。カナタの言葉に安心したくて、本当はずっと怖かったのかもしれない。
「それにね、変わるって、悪いことばかりじゃないよ。」
お父さんの声が、優しく包み込むように響いた。
「新しい友達ができたり、今まで考えたこともなかった世界が見えたりもする。だから、変わることを、そんなに恐れなくて大丈夫だよ。」
私は、少しだけ目を閉じた。お父さんの言葉は、まだ答えの見えない不安の中に、小さな明かりを灯してくれたような気がした。
「さっ、早くお母さんを迎えに行こう。教会から駅までは近いから、すぐ着くよ。」
お父さんが明るい声でそう言うと、信号が青に変わった。ほんの少しアクセルを踏み込むと、車は滑らかに動き出し、夜の街を静かに走った。
お母さんは、浅葱街にある青の教会で働いている。そこは、静かで柔らかい雰囲気の教会。
お母さんはその教会で、心の相談に乗るカウンセラーをしている。
これから迎えに行く、お母さんのことを思い浮かべた。優しくて、ちょっとだけ涙もろい、でもすごく頼りになる人。きっと、今日も誰かの心を癒していたんだろうな。
車内には、ラジオから流れる穏やかな音楽と、エンジンの低い音だけが静かに響いていた。お父さんはハンドルを握りながら、時折ミラーを見て、こちらに微笑みかける。
「もうすぐだよ。」
その声に、私はまた窓の外に目を向けた。夜空は薄雲に覆われていたけれど、月の光がその隙間から溢れていて、ほんの少し幻想的な風景を作っていた。
やがて、見慣れた石畳の広い道が見えてきた。街灯に照らされた通りを少し曲がり、車がロータリーに入った時、駅の出入り口の柱のそばに見覚えのある人影が見えた。
「———お母さんだっ!」
思わず声が弾む。グレーのロングコートに身を包み、ネイビーのマフラーを首元に巻いたお母さんは、ブラウンの編み上げブーツのつま先を寄せて、小さく肩をすくめながら立っていた。
寒さに耐えながら、それでも柔らかな雰囲気を纏い、こちらを待っている姿。
停車スペースに車が滑り込むと、こちらに気付いたお母さんが、パッと表情を明るくした。目を見開き、笑顔を浮かべて手を振りながら、小走りで車に近づいてくる。
私の隣のドアが開いた瞬間、私は身を乗り出してお母さんに抱きついた。お母さんのコートは少し冷たくて、ほんのりと冬の空気の匂いがした。
「お母さん、お帰りなさいっ!」
「ただいま。莉愛も迎えに来てくれたの?ありがとっ。」
お母さんの腕が、柔らかく私を包み込む。その温もりに、心の奥がじんわりと温かくなっていく。
「おかえり、お疲れ様。待たせちゃったかい?」
お父さんが運転席から声をかける。
「んー、5分くらいかな?全然待ってないよ。お迎えありがとうございます。」
お母さんが微笑むと、車は静かに動き出した。街の灯りが車窓に流れていく中、私は待ちきれずに口を開いた。
「ねぇねぇ、そろそろ制服と羽織が届くんだって!届いたら着てくださいって!」
「もうそんな時期なのね。届いたら、ちゃんと着てみようね。」
「あとね、今日ね、学校終わってからカナタが家に来てくれたの!宿題も終わったよ!」
「まぁ!偉いわねぇ。全部ひとりでできたの?」
「カナタに少し教えてもらったの。カナタ、教えるの上手なんだよ!」
今日あった嬉しいことを伝えたくて、声が自然と大きくなる。でも、お母さんは笑顔で頷いてくれる。その優しい眼差しに、心がほぐれていく。
お父さんも、運転しながらちらりとこちらを見て、小さく笑ってくれた。前を見据える横顔はどこか安心感があって、静かに寄り添ってくれているような気がした。
そして、家には兄の利玖がいる。頭が良くて優しい自慢のお兄ちゃん。私が宿題に悩んでいると、何も言わずにそばに来て教えてくれる。
この家族がいてくれるから、私は今日も楽しくて、嬉しくて、こんなに胸がいっぱいになる。
車が交差点を曲がった時、お父さんが笑って言った。
「さぁ、急いで帰ろう。仁奈さんが美味しいご飯作ってくれてるし、利玖も待ってる。」
その言葉に、胸がきゅっと温かくなった。
夜の街を包む風は冷たいけど、車の中には優しい温もりが満ちている。
家に帰ったら、きっといい匂いがしていて、テーブルにはあったかいご飯が並んでいる。仁奈さんの手料理。
そして利玖の静かな「おかえり」。そんな光景を思い浮かべながら、私は窓の外の夜空を見上げた。
星がひとつ、瞬いていた。
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