影が応えた日——知らない魔法
『迷路を進む時に、何か目印を付けられる?』
唐突に投げかけられた問いに、
私は瞬きをした。
「目印?」
聞き返すと、
カナタは軽く頷く。
『うん。そのまま線を引いてもいいし……何か、印を置いていく感じでも』
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥でまた小さく何かが噛み合った気がした。
そっか。
カナタが言いたいのは、
口頭で指示することじゃない。
目に見える“道標”を残すこと。
言葉じゃなくて、
見える合図で導く方法。
(それなら……命令っぽくないかも)
私の足取りを、
詩乃ちゃんが追ってくれるように。
ただ前を示すだけなら。
上下じゃなくて、
同じ景色を見ながら進める気がした。
「……確かに、それならできるかもしれないっ」
小さく呟くと、
カナタは安心したみたいに
目元をやわらげて頷いた。
「……でも、どうやって……」
口にした瞬間、
思考がまた足を止める。
わかりやすいのは、
やっぱり光だろうか。
(光を、置く……?)
頭の中でぼんやりと
イメージを作ってみるけど、
うまく掴めない。
暗い場所を照らす魔法なら使える。
でも、
そこに小さな灯りを置いていくなんて、
やったことがない。
掴めそうで掴めない感覚がもどかしい。
そのときだった。
『…………影を――』
隣から、
ぽつりと声が落ちた。
「え?」
私は思わずカナタを見る。
『……あ』
カナタ自身も、
今の一言に少しだけ引っかかったみたいに
目を瞬く。
それから、
考えを拾い集めるように言葉を続けた。
『その……迷路の中って、意外と暗いから……』
いつもより少しだけ、
言葉が途切れる。
『光より……影の方が、見やすいかもって』
言い切った後も、
カナタはほんの一瞬だけ黙っていた。
でもその言葉は、
不思議なくらいすんなり胸へ落ちてきた。
「影かぁ……」
私は目の前の迷路へ視線を向ける。
「……うん。それなら、わかりやすいかも」
口にした瞬間、
自分でも驚くくらい納得できた。
光を“作る”より、
影を“見つける”方がずっと自然だ。
目に映る濃淡を辿ることなら、
私にもできる気がする。
(影を、道みたいに伸ばせたら……)
胸の奥に、小さな手応えが灯る。
『じゃあ、迷路に行ってみようか』
カナタが扉の方へ向かう。
その背中を見ていると、
不安よりも先に“やってみたい”が勝った。
私は自然と小走りでその後を追った。
スタート地点に辿り着いて、
私は足を止める。
目の前に広がるのは、
壁が幾重にも折れ曲がる巨大な迷路。
見上げるほど高い壁の足元には、
宵闇みたいな影が静かに沈んでいた。
その影を見つめた瞬間、
胸が小さく跳ねる。
(……ここなら)
できるかもしれない。
そんな予感が、
言葉より先に胸の奥で膨らんだ。
『……どうかな。やってみてごらん』
隣から聞こえたカナタの声は静かで、
でもちゃんと背中を押してくれる。
「うん……やってみるっ」
私は深く息を吸い込んだ。
冷えた空気が肺を満たし、
心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていく。
義手を静かに持ち上げる。
一度、ぐっと握り込む。
キンッと、硬質な音が響いた。
瞬きをすると、
視界の輪郭が研ぎ澄まされる。
壁際に落ちた影の濃さが、
急にはっきりと浮かび上がった。
――見える。
私はそっと手を伸ばす。
影を“掴む”というより、
そこにある何かへ意識を向けるように。
すると次の瞬間――
壁にへばりついていた影が、
ゆらりと揺れた。
影は煙みたいに細くほどけて、
ほんの少しだけこちらへ流れた。
「っ!」
『っ』
私も、カナタも
ほとんど同時に息を呑む。
でも――
驚いた、その一瞬で。
ふわりと霧散するみたいに、
影は元の場所へ戻ってしまった。
残ったのは、
まだ震えている自分の指先と、
速く打つ心臓だけ。
(……今、動いた)
確かに。
あれは見間違いなんかじゃない。
『……莉愛。どう? 手応え、ある?』
カナタの声に、
私は勢いよく顔を上げた。
「うんっ、できるかもしれないっ!」
気づけば、声が弾んでいた。
胸の前で両手をぎゅっと握る。
たった一瞬だった。
それでも、
ちゃんと届いた感覚があった。
「カナタ、ありがとう。私、もうちょっと頑張ってみるねっ」
私は慌てて言葉を継ぎ足す。
「だからカナタは、創駆の方に行っても大丈夫だよっ」
これ以上、
自分のために時間を使わせるのは
申し訳ない気がした。
でもカナタはすぐには返事をしなかった。
何かを思い出すみたいに視線を宙へ向ける。
その横顔が、
ほんの一瞬だけ遠かった。
『……うん。じゃあ、創駆の方に行ってくるね』
「うんっ」
『莉愛はここで練習するでしょ?』
「えっと……うんっ。折角だから、もう少しここでやってみる」
さっきまでの不安が嘘みたいに、
前向きな言葉が出た。
まだ上手くいくかはわからない。
でも、
“やれない”じゃなくて
“やれるかもしれない”と思えるだけで、
足元が少しだけしっかりした気がした。
『分かった。じゃあ――また後で』
軽く手を振るカナタに、
私は慌てて手を振り返す。
(……また後で?)
その一言が、
なぜだか妙に胸に残った。
当たり前の言葉のはずなのに。
でもカナタは振り返らず、
そのまま扉の向こうへ消えていく。
静けさが戻る。
広い迷路の中に、
私ひとりが残された。
「……よしっ」
私は両手を胸の前でぎゅっと握った。
もう一度、影を見る。
どれくらいそうしていただろう。
しゃがみ込んで、
じっと影を見つめ続ける。
だけど、さっきみたいには動かない。
壁際の影は、
ただそこにあるだけで、
ぴくりとも反応しなかった。
(あれ〜……?)
首を傾げながら、
私は小さく唇を尖らせる。
さっきはあんなに自然に動いたのに。
どうして今は、
全然だめなんだろう。
私は膝に肘を乗せて、
頬杖をついた。
(そもそも……影って、何なんだろう)
光が当たらない場所にできるもの。
物の裏に落ちる、暗い部分。
そう習った気がする。
でも、さっきのあれは。
あの、煙みたいに揺れた動きは、
ただの“暗がり”では片づけられなかった。
――光に隠れるように、そこにいるもの。
そう思った方が、
ずっとしっくりくる。
その瞬間、
ふと頭に浮かんだのは、
弥生寮のエレベーターにいる
影猫ちゃんたちだった。
壁に溶け込むように潜んでいて。
指を差し出せば、
じゃれついてくるあの子たち。
あの子たちも、きっと“影”だ。
そう思ったら、
急に目の前の暗がりが
少しだけ可愛く見えてきた。
(光とかくれんぼしてるのかも)
その考えが妙におかしくて、
ふっと笑みが零れる。
肩の力が抜けた。
怖がる相手じゃない。
もしかしたら――
仲良くなれるのかもしれない。
私は左手の義手を、
軽く鳴らした。
キンッ、と金属音が静かな迷路に響く。
そのまま、
今度は生身の右手をそっと伸ばす。
まるで物陰に隠れた
恥ずかしがり屋の猫に話しかけるみたいに。
「……おいで」
その瞬間だった。
壁際に沈んでいた影が、
ふわりと揺れた。
「……っ!」
今度は消えない。
宵闇みたいな黒が、
煙のようにほどけながら、
するりと私の手元へ寄ってくる。
そして、右手の指先にまとわりついた。
ほんのり冷たい魔力。
確かに、ここに“いる”。
「……ふふっ。こんにちは」
思わず、そんな言葉が零れた。
胸の奥がふわりとほどけた。
目の前にあるこれは、
もうただの暗がりじゃない。
ちゃんと、応えてくれるものだ。
「……ねぇ」
私は小さく息を吸う。
「私のこと、手伝ってくれる?」
もし誰かに見られたら、
きっと変だと思われる。
影に話しかけるなんて、
おかしいって笑われるかもしれない。
でも今の私には、
そんなことよりも――
この子に、
ちゃんと伝えたい気持ちの方が強かった。
(詩乃ちゃんを、ちゃんとゴールまで導けるように)
(迷わないように、道を教えてあげられるように)
胸の中で願いを形にする。
すると、それに応えるみたいに。
影がふっと震えた。
次の瞬間――
私の手元から
するりと抜け出した影が、
床の中央へ伸びていく。
黒い煙が一本の線になるみたいに。
迷路の道の真ん中を、
真っ直ぐに、迷いなく。
「っ……!」
胸が跳ね上がる。
本当に、思い描いた通りになった。
(伝わった……!)
私の気持ちが。
ちゃんと届いたんだ。
ゆっくり立ち上がる。
「うんっ、そう……っ。ありがとう!」
嬉しくて、
思わず胸の前で手を組む。
お礼を言わずにはいられなかった。
ただの現象だと思っていたものが、
こうして応えてくれる存在になる。
その不思議さと嬉しさに、
胸の奥がぽっと熱くなる。
ひとりでやるんじゃない。
私のそばには、
ちゃんといてくれるものがある。
そう思った瞬間――
目の前の影が、
ただの黒じゃなくて、
そっと寄り添ってくれる仲間みたいに見えた。
読んでいただきありがとうございます。
影はただの暗がりではなく、
そこに“いるもの”として描いてみました。
恐れるものではなく、
寄り添ってくれるもの。
そんな捉え方が伝わっていたら嬉しいです。
引き続き、よろしくお願いします。




