04
おやつを食べ終えて、2人で食器を片付けた後は、リビングのソファに並んで座って、取り止めのない話をしていた。
穏やかな時間が流れていたその時、不意に玄関の方から、ドアの開く音が聞こえた。
それに続いて、スリッパの「パタパタ」と小さな音が床を叩き、仁奈さんが少し急ぎ足で玄関へ向かっているのが伝わってきた。
しばらくして、玄関の方から聞こえていた話し声が近付いてきたと思ったら、お父さんがリビングへ入ってきた。
「お帰りなさい! お父さん、今日は早番だったんだね。」
私がそう声をかけると、カナタも軽く頭を下げながら挨拶を添える。
『お邪魔してます。』
「ただいま。そう、早番だったから、利玖を学園まで迎えに行ってたんだよ。部屋で着替えてから、こっちに来ると思うよ。カナタ君もいらっしゃい。」
穏やかな口調でそう言ってから、お父さんは上着を脱ぎ、洗面所へと向かっていった。
お父さんは、緋色治安統制府、略して緋統府で働いている。都市の秩序や安全を守るための重要な仕事。
日勤の時は顔を合わせられるけれど、早番や遅番の時は朝に会えないことが多い。だから今日も、帰ってくるまでどちらの勤務か分からなかった。
『利玖も帰ってきたし、僕たちもそろそろ宿題を始めようか。』
「うぅ……そうだね。」
カナタの言葉に、思わず小さく唸ってしまう。
重い腰を上げ、ライティングテーブルに置いてあるノートを手に取る。丁度その時、制服から私服に着替えた利玖が、本を片手にリビングへと現れた。
「ただいま。よっ、カナタ。久し振りだね。」
柔らかな笑みを浮かべて、利玖がカナタに声をかける。カナタも小さく手を振り答える。前に2人が会ったのは、お正月だから、2ヶ月くらい会ってないのかな?
「利玖、お帰りなさいっ!ねえ……今日の宿題、ちょっと教えてくれない?」
私はノートを見せながら声をかけた。利玖はリビングの1人用ソファに座り、優しく微笑んで頷く。
『いいよ。俺もこれから勉強するところだったし。解らない所があったら、遠慮なく聞いて。』
その言葉にホッとしつつも、私はちらりとカナタの顔を見る。利玖の勉強の邪魔はしたくないという気持ちは、多分カナタも同じだ。
「…ありがとう!解らなくなったら聞くね。」
「うん。」
私はソファからクッションを2つ手に取り、テーブルの足元にそっと並べて置く。私とカナタはそこに並んで腰を下ろし、静かに教科書を開き、ノートを広げた。
窓の外は、夕焼けの光がさらに降ちてきていた。屋根も道も、全部が優しい紅掛空色になって、だんだん夜に変わっていくみたいだった。
部屋の中には、ページをめくる音と鉛筆が紙を走る音が心地よく響く。時折、私は難しい問題にぶつかっては眉をひそめる。
「ねえカナタ、ここってどうやって解くの?」
小さな声でノートを少し傾けて見せると、カナタは身を寄せて、じっと問題文を読む。
『ここはね——』
カナタの説明は簡潔で、だけど丁寧で分かりやすい。私は思わず「そっかっ」と小さく声をあげた。
そんなふうに、私たちは2人並んで、冬の夕方のひと時を静かに過ごしていく。テーブルの上のランプが、私たちのノートを暖かく照らしてくれていた。
「できたー!終わったぁ…」
宿題を終えた解放感に身を委ねるように、私は机にぱたりと突っ伏した。背中がほっと緩んで、思わず深いため息がこぼれる。
「お疲れさま。」
難しそうな本に目を通していた利玖から、労いの言葉を貰った。
「利玖、今日も試験の勉強してるの?」
「うん。早めに受かりたいからね。」
そう言いながら、彼は一枚のページをめくった。
利玖が取り組んでいるのは、『成年登証試験』の勉強。それは、16歳になる年から誰もが受けることになる、成人への通過儀礼のようなものらしい。
国民全員に課された義務で、この試験に合格してはじめて「成人」としての権利と責任が与えられる。社会に立つ者として認められるってこと。
だけど、言い換えれば──
合格しない限り、どれだけ年を重ねても、社会からは「子ども」として扱われるということでもあった。
学生のうちに合格できる人はごく僅からしい。だけど利玖は、お父さんに憧れて緋統府に入ることを目指していて、少しでも早く一緒に働けるようにと、合格するために頑張っている。
実は今年度から受験できたのだけれど、試験の直前に体調を崩してしまい、受けられなかった。だから今は、来年度の試験に向けて、静かに努力を重ねている。
「すごいなぁ、利玖は……」
思わず溢れた私の小さな呟きに、利玖が手元の本から視線を上げ、ふっと穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。莉愛もカナタも、自分たちで宿題を終わらせて偉いね。」
その言葉に、ちょっとくすぐったい気持ちになって、私はカナタと顔を見合わせる。筆記用具を片付けて、ふと窓の外を見ると、いつのまにか陽はすっかり落ちていて、冬の夜が静かに広がっていた。
その時、丁度リビングにお父さんが来た。
「そろそろいい時間だな。カナタ君、車で送っていくよ。」
『ありがとうございます。』
カナタが丁寧に頭を下げる。
「私も一緒に送ってってもいい?」
「カナタ君を送った後、お母さんを駅まで迎えに行く予定だけど、良いかい?」
「うん!」
「じゃあ、コートだけ着て外へ来なさい。」
お父さんはそう言い残して、先に外へ出て行った。いつもと変わらない優しい声が、胸の奥をぽっと温めてくれる。
私とカナタは、仁奈さんが準備してくれていたコートを着て、玄関へ向かう。すると、見送りのために利玖と仁奈さんが来てくれた。
「じゃあな、カナタ。また来てよ。」
『うん、またね。仁奈さん、おやつごちそうさまでした。お邪魔しました。』
「ふふっ、今度はホットチョコレートを作ってあげるね。またね。」
そう言って微笑む仁奈さんにカナタは頭を下げて、私たちは家を出る。外の空気はすっかり冷えていて、肌にあたる風が真冬の気配を運んできた。街灯の灯りが地面を照らし、澄んだ夜の匂いが漂ってくる。
家の前では、藍色の車体に、薄ら金の蔓模様が美しく描かれたうちの車が、静かに稼働音を響かせて待っていた。寒さを和らげるように、ほんのりと白い蒸気がボンネットから出てきている。
その運転席には、すでにお父さんの姿があった。私たちが出てきたのに気付いたのか、いつもの優しい目が私たちを見ているのがミラー越しに分かる。
私はカナタと並んで歩きながら、小さく息を吐いた。白くなった息が、すぐに夜の空気に溶けて消える。
カナタと一緒に車の後部座席へ乗り込むと、外の冷たい空気がドアの閉まる音とともに遮られ、ほんのりとした車内の温もりが、私の頬を優しく包んだ。
「それじゃあ、出発するね。」
お父さんが義足で車の床でタップする。トンッという音に続いて、車のドアが「ガチャッ」と音を立ててロックされた。
すぐに、車が静かに振動を伝えながら動き出す。窓の外の街灯が流れ、私の家が少しずつ遠ざかって行く。
「そういえば、遊ぼうって言ったのに、遊びらしいこと何もしてないね。」
『そうだね。でも、莉愛と話してる時間が楽しかったよ。』
「私も、カナタと喋るの楽しい!カナタ、物知りなんだもん!」
そう言ってカナタとの会話を思い出し、身を乗り出して前の席のお父さんに声をかける。
「ねぇ、お父さん聞いて!カナタが教えてくれたんだけどね、チョコレートって昔は薬だったんだって!あとね、マシュマロってもともと薬草の名前なんだって!おやつなのに、薬から始まってるの、面白くない?」
バックミラー越しに、お父さんの目尻がやさしく緩む。
「へぇ、面白いな。カナタ君、物知りだね。」
『本に書いてあっただけです。』
カナタは少し照れたのか、少し俯きながら小さく呟いた。
車の振動に合わせて、私はお父さんに質問した。
「ねぇ、お父さん。今日、授業で義肢のことを習ったんだ」
お父さんが運転しながら相槌を打つ。隣に座っているカナタは、静かに外を眺めたままだ。
「みんな義肢をつけてるのが普通って言われたけど、昔は違ったんだよね?」
莉愛の問いかけに、お父さんはゆっくりハンドルを切りながら答えた。
「ああ。大昔は、地上で暮らしてたし、魔法だって、今みたいに義肢を通して使うものじゃなかったんだよ。」
「じゃあ、それでどうして……私たちは空に住んでるの?」
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