宵に灯る一番星——刻名
はっとして振り向くと、
カナタが静かに歩いてきていた。
一瞬だけ、
本当に時間が止まったみたいに感じる。
(カナタっ)
昨日からずっと、
同じ学園にいるはずなのに
なかなか会えなかった相手。
それだけに、
姿を見つけた瞬間、
胸の奥にふっと安心が広がった。
自然と頬がゆるむ。
カナタが私の前まで来る。
「カナタ、おはよっ!」
『おはよう』
機械の音が少し混じる、
聞き慣れた優しい声。
それだけで、
少しだけ肩の力が抜けた。
「……ふふっ、やっと会えた」
『そうだね』
カナタの目元が、
ふわりとやわらぐ。
私は芽依ちゃんたちを紹介しようとして
ちらりと後ろを振り向いた。
でもそこには、
詩乃ちゃんを囲む芽依ちゃんたちがいた。
(……また今度でいいか)
そう思って、
私はもう一度カナタに向き直った。
「ねぇねぇ、カナタ。カナタは何組だった?」
するとカナタは、
静かに鞄の中へ手を入れた。
取り出したのは、一枚の紙。
見覚えのある、
クラス発表の紙だった。
「……見ていいの?」
カナタが小さく頷く。
私はその紙を受け取って、
丁寧に開いた。
ほんの少しだけ、
指先が緊張で震える。
《カナタ 一年 宵19組 出席番号6番》
その瞬間――
胸の奥に、
ぱっと灯りがともるみたいに
嬉しさが広がった。
「同じクラスだっ!」
思わず声が弾んで、
小さく跳ねる。
カナタの目元が、
柔らかく細められる。
チョーカー越しに、
かすかに笑うような息遣いが聞こえた。
それだけで、
なんだかすごく嬉しくなってしまう。
新しい場所で、
親しい人がいてくれる。
それがこんなに心強いなんて、
昨日までの私は知らなかった。
そのとき、
次のバスに乗り込む詩乃ちゃんの姿が見えた。
「じゃあ、一緒に行こっ」
『うん』
私たちは並んでバスへ向かった。
車内にはまだ空席があって、
前の方では芽依ちゃんたちが
また詩乃ちゃんを囲んでいた。
私とカナタは、
一番後ろの席へ並んで腰を下ろす。
走り出す前の静かな車内。
バスがゆっくりと走り始める。
窓の外の景色が、
少しずつ後ろへ流れていった。
すると、
「り、莉愛ちゃん……助けて……」
詩乃ちゃんが少しやつれた顔で、
人をかき分けるようにして
こちらへやってきた。
「あ、カナタくん、おはよ……」
『おはよう』
詩乃ちゃんは私の隣に腰を下ろすと、
ふぅ、と大きく息をついた。
「詩乃ちゃん、大丈夫?」
思わず心配になるくらい、
顔に疲れがにじんでいる。
「う、うん……中央都市の子って、すごいね……」
弱々しく笑う詩乃ちゃんに、
私は思わず苦笑した。
「てっきり、詩乃ちゃんも一緒に盛り上がってたのかと思ったよ」
「いや……私はずっと質問攻めだったよ……」
「質問攻め?」
そう聞き返すと、
詩乃ちゃんはひとつ息を吐いた。
「その……昨日のお風呂の話の続きで『やっぱり彼氏なんじゃないのー』とか……」
(あらぁ……)
思わず苦笑いが漏れそうになる。
横を見ると、
カナタは何も言わずに
静かに窓の外へ視線を向けていた。
私はそっと胸を撫で下ろす。
その様子に気づいたのか、
詩乃ちゃんが慌てて話題を変えた。
「そ、そうだっ、カナタくんはクラスどこだったの?」
その瞬間、
私は勢いよく口を開いていた。
「カナタね、私たちと同じクラスだったよっ!」
詩乃ちゃんの顔が、一気に明るくなる。
「えっ、ほんとっ!? わぁ、楽しくなるねっ!」
「うんっ!」
嬉しくなって頷くと、
カナタがこちらを見て首を傾げた。
私はなんだかおかしくなって、
思わずふふっと笑ってしまった。
すると詩乃ちゃんが、
ふと思い出したように呟いた。
「拓斗くんは、どこのクラスかなぁ……」
その何気ない一言に、
私とカナタの視線が
ほぼ同時に詩乃ちゃんへ向いた。
(……あれ?)
昨日も思ったけど、
詩乃ちゃんって拓斗と
そんなに仲が良かっただろうか。
私は少しだけ首を傾げる。
「……詩乃ちゃん」
「ん?」
「詩乃ちゃんって……拓斗と仲良かったっけ?」
詩乃ちゃんはきょとんとした顔をした後、
少しだけ視線を逸らした。
「仲がいいと言うか……初等部の頃、落ち込んでたときに慰めてもらったことがあるんだ」
(拓斗が、慰めた!?)
思わず目を瞬かせる。
あの拓斗が、
誰かを慰めるようなことをするなんて。
(いや、しないわけじゃないんだろうけど……)
でも、なんだかすごく意外だった。
隣のカナタは何も言わない。
ただ静かに、
その続きを待っているみたいだった。
詩乃ちゃんは、
少し照れくさそうに笑う。
「拓斗くんが、ただ話を聞いてくれて……オルガンを弾いてくれたの」
その声は軽いのに、
言葉の端に大事な思い出を
撫でるみたいな温度があった。
「へぇ……すごく意外……」
そう言うと、
詩乃ちゃんは小さく笑った。
「あっ。このこと、拓斗くんには言わないでね」
「えっ、どうして?」
思わず聞き返す。
すると詩乃ちゃんは、
少しだけ唇を尖らせた。
「だって拓斗くん……そのときのこと、覚えてないんだよっ」
「えっ」
「悔しいんだもん……」
その言い方が、
少しだけ拗ねたみたいで可愛い。
何気ない一場面でも、
詩乃ちゃんにとっては
今も忘れられない出来事だったのかもしれない。
「だからね」
詩乃ちゃんが、
ちょっとだけ真剣な顔になる。
「ちゃんと思い出してもらってから『ありがとう』って言いたいの」
「だから、お願いっ」
その真っ直ぐな目に、
思わず笑みを零した。
「わかったよ。……私たちだけの秘密だね」
「うんっ!」
嬉しそうに頷く詩乃ちゃん。
私はカナタへ視線を向ける。
「カナタも、内緒だよ」
驚いたように一度だけ瞬きをしたカナタが、
ゆっくりと頷いた。
『……うん。言わないよ』
その落ち着いた声に、
胸の奥がふっとやわらぐ。
なんだか、
小さな秘密を三人で分け合ったみたいで、
少しだけくすぐったかった。
「そうだっ、カナタくん」
詩乃ちゃんがふと思い出したように
カナタの方を見る。
「『宵』って、何のことかわかる?」
その問いに、
カナタは一瞬だけ目を伏せた。
それから静かに答える。
『宵っていうのは、夕暮れから夜になるまでの時間だよ。ちょうど一番星が見える頃』
「一番星……」
詩乃ちゃんがぽつりと呟く。
その言葉が、
私の中にも静かに落ちてきた。
折羽伝書に書かれていた言葉を思い出す。
――群青の夜に一番星が瞬く。
穏やかな闇が広がる空。
(“宵”って、そういう時間のことだったんだ)
カナタが、もう一度静かに声を紡ぐ。
『“宵の明星”っていう言葉もあるね。金星のことだよ』
「へぇ……」
思わず声が漏れる。
ただの説明のはずなのに、
カナタの声で聞くと
不思議とすっと心に入ってくる。
「すごく綺麗な名前だね」
詩乃ちゃんが、
うっとりしたように言った。
私も静かに頷く。
宵19組。
それはただのクラス名じゃなくて、
ちゃんと意味のある名前だったんだ。
夜になる少し前。
暗くなっていく空の中で、
最初に見つかる光。
そう思うと、
まだ始まったばかりのこのクラスも
少しだけ特別なものに思えてくる。
そんなことを、
ぼんやりと考えていると、
窓の外に学園の建物がはっきりと見えてきた。
「わぁ……ついに!」
詩乃ちゃんが身を乗り出して声を上げる。
前の席にいた芽依ちゃんたちも、
窓に顔を寄せながら目を輝かせていた。
『もうすぐだね』
カナタが静かに言う。
「うんっ」
私は笑って頷いた。
――まもなく、学園前に到着します。
車内にアナウンスが流れ、
バスがゆっくりと速度を落としていく。
心臓の鼓動が、
それに合わせるみたいに少しだけ早くなる。
やっと、ここまで来た。
ドアが開いた瞬間、
朝の空気がふわりと流れ込んできた。
私たちはバスを降りる。
石畳の感触と、
少しひんやりした空気。
そのどちらも、
今日が特別な日だと教えてくる。
『莉愛』
名前を呼ばれて振り向くと、
カナタがまっすぐにこちらを見ていた。
『行こうか』
「うんっ!」
自然と笑顔になって、
私は頷いた。
三人分の足音が、
石畳の道に小さく響いていく。
私たちは、
連環の塔へと辿り着いた。
空に向かって伸びる、
赤レンガ造りの円柱の塔。
ここから鏡を通って、
それぞれのクラスへ向かうらしい。
中へ入ると、
中央には螺旋階段とエレベーター。
その周囲を囲むように、
十台の大きな鏡が並んでいた。
でも――
そこに、
私たちの姿は映っていなかった。
「……え?」
思わず足を止める。
鏡の中に広がっていたのは、
人の姿じゃなくて“空”だった。
夜明け前の薄紫。
真昼の澄んだ青。
夕暮れの茜。
星の瞬く黒。
鏡ごとに、
違う時間の空が映っている。
(……時間、なんだ)
私は思わず息を呑んだ。
その鏡が映しているのは
その時間帯の空なんだ。
「どれが宵かなぁ?」
詩乃ちゃんがきょろきょろと見回す。
『……あれだね』
カナタが静かに指差した。
その先にあったのは、
群青に近い夜空を映す鏡。
深く澄んだ空の端に、
ひとつだけ、
白く瞬く星があった。
「……本当だ」
私は思わず、
その鏡に引き寄せられるように近づいた。
「一番星だっ」
隣で詩乃ちゃんが、
嬉しそうに声を弾ませる。
カナタは静かに頷いた。
私たちはそのまま、
“宵”の鏡の前まで歩いていく。
そのとき――
「いたいたーっ!」
明るい声に振り向く。
そこには、
芽依ちゃんたちが手を振りながら
こちらへ駆けてきていた。
読んでいただきありがとうございます。
「宵」という名前と、一番星。
このクラスがどんな時間を過ごしていくのか、
少しでも感じてもらえたら嬉しいです。
物語は、いよいよ鏡の向こうへ。




