02
目を覚ました私は、天井を見上げて小さく息を吐いた。朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の中に淡い金色の気配が広がっている。
いよいよ今日から、中等部の新しい生活が始まる。
カーテンを開けて、まだ眠気の残る体を起こし、制服のシャツの袖に手を通し、スリット入りタイトスカートを履く。
何度も確認して整えた制服は、少し大きめで、まだ体にしっくりと馴染まない。それでもその布地の重みが、少しだけ大人に近付いた気持ちにさせてくれる。
黒色のニーハイソックスを履いたら、羽織はまだ着ずに、丁寧に手に持って階段を降りる。
キッチンに入ると、いつものようにお父さんが紅茶を淹れて、お母さんが朝食の準備をしていた。香ばしいパンの匂いと、温かいスープの湯気が、いつもの朝を少し特別なものに感じさせる。
「おはよう、莉愛。今日は主役なんだから、ちゃんと食べて行きなさいね」
お母さんがにっこり笑って、スープを差し出してきた。
「おはよう、莉愛。今日はスッキリ起きられたみたいだね」
どこか茶化すような口調に、思わず私はむくれ顔で言い返す。
「私だって、やればできるもんっ!」
「そうだね、さすが中学生だ」
笑いを含んだお父さんの声に、釣られて私の頬も緩んで、自分の席に着いた。
キッチンで最後の身支度をしていたお母さんも、ふわりとエプロンの裾を整えながらテーブルにやってきた。
いつもの席に腰を下ろし、私とお父さんを見渡して、にこりと微笑む。
「じゃあ、そろそろ……いただきましょうか」
その一言に、自然と私たちの声が重なった。
「「いただきます」」
静かな朝に、三人の声が優しく響いた。
焼いてくれたパンをお皿に取り、お母さんのオニオンスープを掬い、私はちょっとだけ背筋を伸ばして、いつもより丁寧に口に運ぶ。
温かくて香ばしくて甘いスープは、まだ少し寝ぼけた体が、少しずつ目を覚ましていくのが分かった。
いつもの家族。いつもの朝ごはん。
でも今日は、ほんの少しだけ違う。
ほんの少しだけ、大切な日。
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食後、お父さんがポットから丁寧に注いでくれたのは、お父さん特製の紅茶。ふわりと立ち上る湯気の向こうに、紅茶の優しい香りが広がる。
たっぷりのミルクとお砂糖を三個、お父さんが私のカップに入れてくれた。私の好みにぴったり合わせてくれた味。
ほんのりと熱いカップを両手で包み込んで、そっと口を付けると、ホッとする温もりが喉を通って胸に染みた。
(——あぁ、しばらくこの味ともお別れなんだ……)
そう思った瞬間、胸の奥がキュッと小さくなる。
「ごちそうさまでした」
三人で声を揃えた後、私は羽織を手に取り、足早に洗面所へと向かった。
鏡の前に立つと、朝の光が差し込む中、髪を手櫛で撫でたままだったことに少しだけ反省する。髪を軽くまとめて、歯を磨き、いつものように顔を洗う。
お気に入りのブラシを手に取り、静かに髪を梳かし始める。毛先に籠っていた小さな絡まりが解けていく度に、朝日に照らされた髪が微かに青みを帯びて煌めいた。
ブラシを置き、漆黒色の羽織を手に取る。絹のような布地がさらりと指先を滑っていく感触は、何度着てもどこか背筋が伸びる。
衿をきちんと整える手順は、お母さんに何度も教わった通りに。鏡越しに、ふわりと微笑むお母さんの顔が思い浮かぶ。
最後に、昨日のうちに用意しておいた羽織紐を手に取る。中央に飾られた翡翠は、常盤町の象徴。
……って利玖が言ってた。深い緑に光が差し込むと、まるで朝露を含んだ葉のように澄んだ色を放つ。
結び目をしっかりと整えながら、胸の奥でひとつ、小さく深呼吸をする。
身支度を終えた私は、鞄を手にリビングへ戻った。
お父さんとお母さんはすでに支度を済ませていて、玄関には二人分の上着と、三人分の靴が並んでいる。
私は卒業式と同じ、赤褐色のショートブーツを履き、玄関の扉を開けた。
外の空気は春の匂いがした。春の温かい風が、羽織の裾と長い袖をふわりと揺らす。
私の隣にはお母さん、反対側にはお父さんが並んで歩く。三人で並んで歩くこの道も、今日でしばらくはお預けだと思うと、何だか一歩一歩がゆっくりになる。
道端には早くも咲きはじめた小さな花たちが、顔を覗かせている。町は朝の光に包まれ、まだ眠たげな家々の間を、渡鴉便が器用に飛んでいる。
駅まではそう遠くない。だけどその短い時間すら、今日は特別に感じられる。
「今日は天気もいいし、いい出発日和ねぇ」
お母さんが柔らかく笑い、私の羽織の衿をそっと整えてくれた。
「緊張してる?」
お父さんが冗談っぽく聞いてくる。
「してないもん」
即座にそう返したけど、本当は、少しだけドキドキしていた。だけど、そのドキドキが、怖さだけじゃなくて、楽しみの方だって自分でもちゃんと分かっている。
駅に近付くにつれて、人の気配が増えていく。制服姿の子たち、送りに来た家族の姿──
みんな、今日のことを忘れないんだろうな。
魔械軌車の駅は、木と赤茶色のレンガで重厚に造られていた。歴史の重みを感じさせるその外観は、どこか温かく、懐かしい匂いがした。
アーチ状の出入口を潜れば、弧を描く屋根の下には、微かに魔力の振動が空気を震わせていた。
天井付近や壁のあちこちには、魔力が流れている蔓模様と大小様々な魔械歯車が組み込まれていて、静かに、だけど確かに回り続けている。
その回転は装飾ではなく、全部が実用のために存在していた。
構内中央に設置された大きな掲示板は、魔力を通した板状のガラスが淡く発光し、時刻と行き先、軌車の出発時刻や遅延情報を次々に映し出している。
その切り替わりの度に、上部の歯車がカチリと音を立て、魔力の流れを変えていた。
こうした魔械のひとつひとつが、この駅という大きな装置を静かに、そして確実に動かしていた。
入構ゲートの前で、私は立ち止まった。改札の先に進んでしまえば、もうしばらくは家族と離れ離れになる。
「……行ってきます」
ギュッと手を握りしめながら言うと、お母さんがそっと私の手を取って、微笑んだ。
「行ってらっしゃい。困ったことがあったら、利玖もいるし、お母さんやお父さんに何でも話してね。ずっと応援してるから」
お父さんも、私の肩に手を置いて言った。
「いっぱい学んで、いっぱい笑って、ちゃんと帰ってくるんだぞ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
思い切って、お母さんとお父さんに両手を伸ばす。少し照れながらも、二人は私をそっと包むように抱きしめてくれた。
「行ってきますっ!」
「いってらっしゃいっ」
今度は明るい声で言えた。お父さんとお母さんの声を聞いて、改札口へ向かう。
改札口は、同じく精密な歯車が仕込まれていた。乗客が魔械義肢を鳴らす、金属のアームが滑らかに動き、軋みひとつない音で通路を開く。
魔力の波長を読み取る検知機も組み込まれていて、不正があれば即座に遮断される仕組みらしい。
もう一度振り向くと、お父さんとお母さんは、また手を振ってくれた。私は大きく手を振って答えた。
駅のホームへ行くと、ほとんどが私と同じ制服を着ている子たちだった。それを見て私は、少しホッとした。
詩乃ちゃんいたりしないかな?とキョロキョロしてみた。すると、後ろの方から声がした。
「莉愛ちゃーんっ!」
聞き覚えのある声に、嬉しくなって振り向くと、そこには私と同じ制服を着た詩乃ちゃんと、拓斗がいた。
卒業式でも思ったけど、本当に意外な組み合わせ。
「詩乃ちゃんっ! と、拓斗も一緒にいるんだ?」
「悪りぃかよ」
拓斗の目が、少し鋭くなる。
「そういう目、しなければ良いよ」
「うっ……」
拓斗は図星を突かれたような顔をした。
それを見て詩乃ちゃんは、そっとクスクス笑ってた。
新入生でごった返している発着場に、低く唸るような音が響く。
姿を現したのは、まるで古い蒸気機関車をそのまま切り出したような、魔械軌車だった。
艶を抑えた黒い車体は、所々、真鍮で補強されてて、まるで機械そのものに意志が宿ったかのような重厚さをまとっている。
車体の前方には、短い煙突があって、魔力が循環する度に、ほのかな光を含んだ霧のような蒸気を、静かに吐き出していた。
そして大きな魔械灯がひとつ。夜でも霧の中でも進路を照らすように、青白い魔光が淡く点滅していた。
外装の継ぎ目には、魔力導管を思わせる細かな蔓模様が浮かび、動力源となる魔法石が車体の両脇で鼓動のように脈打っている。
私たち三人は、やってきた魔械軌車に乗り込んだ。金属と魔力で動くその車両は、どこか蒸気の香りを漂わせながらも、滑らかで静かな音を立ててドアを開く。
車内の座席は、柔らかな革張りで、二、三人掛けのベンチシートが交互に向かい合わせで並んでいる。空間は広くはないけれど、どこか落ち着いた温かさがあった。
私たちは自然と、私と詩乃ちゃん、拓斗で別れて座る。拓斗は座るなり、無言で窓の縁に頬杖をついて、外の風景を眺めた。
特に気にしている様子はなかったけど、女子二人に男子一人、気まずく感じても仕方ないのかもしれない。
そんな空気を和らげようと、私は隣の詩乃ちゃんに話しかけた。他愛無いことをぽつぽつ話していると、車掌さんの落ち着いた声が、車内に響いた。
「まもなく、発車いたします。扉にご注意ください——」
その声とほぼ同時に、魔械軌車のドアが静かに閉まる。内蔵された魔械歯車の振動が、足元から微かに伝わってきた。
ほんの少し揺れると、魔械軌車はゆっくりと動き出し、ホームの景色が少しずつ後ろへ流れていく。
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