05
車が学校の駐車場に滑り込むように停まった。見渡すと、もう他の家の車も並んでいた。
時計を見ると、まだ八時五分。集合時間にはまだ時間があるけど、やっぱりみんな考えることは似ているらしい。
車のエンジンが止まって、ドアのロックが開く音が聞こえたから、私は車のドアを開けて降りた。朝の空気はまだ少し冷んやりしていて、長い袖が風に揺れた。
後ろでドアを閉めた利玖が、ちょっとぐったりした様子に気付いて、私はすかさず声をかけた。
「やっぱり酔ったでしょ」
「卒業式が始まる頃には治るさ。……多分」
利玖は軽く口角を上げて返してくる。うん、冗談が言えるなら大丈夫だ。
「それじゃあ、校門から入ろうか」
お父さんが車に鍵をかけながら、みんなを促した。お母さんは小さく頷き、私は深呼吸をひとつして、通い慣れた校門へと歩き出した。
今日はいつもと違う。制服も、気持ちも、全部がちょっとだけ大人びている。
正面玄関へ足を踏み入れると、袴姿の先生たちが並んで立ち、にこやかに「おはようございます」と声をかけてくれる。
みんなの胸元には、綺麗な白いリボンのようなものが付けられていて、いつもとは違う雰囲気。少しだけ、背筋が伸びる。
「おはようございます」
私がペコリと頭を下げると、その中のひとりが、パッと顔を明るくして声を上げた。
「はいっ、莉愛さん、おはようございます! 卒業おめでとうございます」
見覚えのあるその声に顔を向けると、雷斗先生だった。利玖の初等部時代の担任の先生。背が高くて、いつもエネルギッシュで、どこか“お兄ちゃん先生”って呼びたくなる雰囲気の人。
雷斗先生が私に、ピンクのリボンのバッチをくれた。そして私の隣にいた利玖の顔を見るなり、目を丸くした。
「えっ! 利玖か! うわっ、背ぇ伸びたなー! ……どうした?ぐったりして」
「……ちょっと酔った」
利玖がむにゃっとした声で応えると、雷斗先生は大きく笑った。
「はははっ! 卒業式が終わるまで座ってな! 莉愛さんのお父さんお母さん、本日はおめでとうございます」
さっきまでの砕けた口調から一転、きちんと背を正して、お父さんとお母さんに丁寧に頭を下げる。その切り替えの早さに、ちょっとだけ笑ってしまいそうになった。
お父さんとお母さんも、にこやかに「ありがとうございます」と返して、互いに頭を下げ合う。
「それじゃあ、莉愛さんは教室へ行ってね。ご家族の皆さんは案内に沿って、体育館までお願いします。利玖、体育館までの辛抱だぞ。本当にしんどかったら、保健室来いよ?」
「うん……そこまでじゃないから大丈夫」
利玖はまだ少し気だるげな表情のまま、それでも小さく頷いた。
「じゃあね、莉愛。あとで体育館で会おうな」
「頑張ってね」
お父さんが私の肩に手を置いて、ニコッと笑う。お母さんも優しい顔で頷きながら、小さく声をかけてくれた。
「うん、行ってきます」
私は小さく手を振って、みんなと別れた。
廊下を歩いていくと、見慣れた校舎なのに、今日はまるで違う場所みたいに感じる。光が差し込む窓の向こうには、初等部で過ごした日々の景色がまだ残っているような気がして、胸が少しだけキュッとなった。
そして、教室のドアの前に立つ。
深呼吸をひとつして、扉を開けた。中では、もう半分以上のクラスメイトが来ていて、制服姿でおしゃべりをしていた。
「莉愛ちゃんだ! おはよう〜!」
教室に入った瞬間、明るい声が響いた。声の主は詩乃ちゃん。私に気付いて、手を振りながら笑っている。
隣にいた子たちも、こっちを向いてニコニコと微笑んでくれた。
「わっ、莉愛ちゃん、すっごく似合ってる!」
「ねっ! めっちゃ大人っぽく見える〜!」
一気に飛んできた言葉に、思わず顔が熱くなる。
「おはようっ。ありがとう! みんなもすごくカッコいいよっ!」
そう言いながら笑うと、みんなが嬉しそうに笑い返してくれた。
声を掛け合いながら、制服のこと、髪型のこと、羽織のこと、利玖から聞いた寮のモチーフのこと——そんな話を詩乃ちゃんたちとしていた。
制服を着ただけで、何だか急に“中等部の私たち”になったみたい。見慣れた友達の顔なのに、ほんの少しだけ、大人っぽく見える。
私も、誰かの目にそう映っているのかな。なんて、少しだけくすぐったい気持ちになりながら、教室を見渡した。
よく見ると、みんな雷斗先生からもらったピンクのリボンのバッジを胸元に付けている。
小さな花の形をしていて、真ん中に金色の文字で「祝 卒業」と書かれていた。
私はそっと胸元に手を当てて、羽織の衿にそのバッジを留めた。
本当に卒業するんだなって——そう思った。
——キーン、コーン、カーン、コーン。
チャイムが鳴り響いた。時計の針が、ちょうど八時半を指している。
そろそろ先生来るかな。自然とみんなが自分の席へと戻っていった。私も、教室のざわめきの中で、自分の席へ歩いていく。
ふと——気付いた。
カナタの席が、ぽっかりと空いている。
……あれ?
足が止まる。教室のどこを見渡しても、黒い鉄マスクの姿が見えない。私の後ろの席の、頬杖をついて外を眺めて座っているはずのあの場所に、誰もいない。
今までも、学校行事の時には、養護施設の子たちはリョク様と一緒に来ていたから、きっと今日もそうなんだと思っていた。
だから遅刻ってことはないはず。そう思っていたのに。
もう集合時間を過ぎている。それでもまだ来ない。
……何か、あったのかな。
さっきまで、中等部の制服を着てちょっと大人になったみんなを見て、ワクワクしていた気持ちが、一気に萎んでいく。
胸の奥が、キュッと締めつけられる。理由のない不安が、じわじわと広がっていく。それでもどうすることもできなくて、私はそっと、カナタの前の席に座った。
少しすると、廊下の向こうからコツ、コツと音がして——教室の扉が開いた。
「おはようございます」
入ってきたのは、担任の先生だった。
普段とは違う、きちんとした装い。よく見ると、薄手の着物に羽織を重ね、その上に袴を履いている。
この羽織って、こうやって着ることもあるんだ——そんな風に思いながら、私は先生の姿を目で追った。
先生は静かに教壇へと立ち、ふわりと優しい声で言った。
「みなさん、おはようございます」
教室の中に、声が揃って返る。
「おはようございます!」
その声に、先生はふっと微笑んだ。
「今日は、いよいよ卒業式ですね。みなさん、昨日はよく眠れましたか?」
「眠れたー」
「うん!」
先生の問いかけに、あちこちから元気な返事が返る。教室の空気がふわっと温かくなった気がした。
「それは良かったです。……先生はね、実はあまり眠れませんでした」
少しだけ照れたように笑いながら、先生は言葉を続けた。
「お祝いしたい気持ちと、もう卒業か……っていう、色んな気持ちがぐるぐるしていて。気が付いたら、朝になっていたんですよ」
その声に、教室の空気が少し静まり返った。だけど、みんなの表情は優しくて、少しだけ誇らしそうだった。
その様子を見た先生は、うんと頷き、誇らしげに話した。
「今日は、みなさんがこの初等部で立派になった姿を、親御さんや保護者の方々に見せる日です。今まで練習してきた通りにできれば大丈夫。自信を持って、胸を張って、挑みましょう」
その言葉に、教室の空気が引き締まる。自然と、背筋がピンと伸びた。隣の子の肩も少し上がって、みんながそれぞれの場所で、心の準備をしているのが分かる。
「ではみなさん、トイレに行きたい人は早めに行ってください。体育館は冷えますので、心配な人も念のため行っておいてくださいね。八時五十分までに、体育準備室へ集合です。なるべく、準備室ではまとまって待っていてください。」
「「「はーい!」」」
先生はそう言い残すと、みんなの返事を聞きながら、教室を後にした。
すぐに、あちこちで椅子が引かれ、立ち上がる音が響きはじめる。その中で、詩乃ちゃんが私の机の前に来て、笑顔で声をかけてきた。
「莉愛ちゃん、トイレ行く?」
「ううん、私は大丈夫。先に体育準備室行ってるね」
「分かったぁ!」
詩乃ちゃんは一緒にいた子たちと手を振って、パタパタと廊下へ駆けていった。私は軽く笑ってそれを見送り、後ろの席を振り返る。
相変わらず、ずっと空いたままのその場所を見つめる。特別な日にカナタがいないだけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて。
胸の奥がキュッとする感覚を、そっと胸のリボンに触れて誤魔化しながら、私も席を立った。
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