消えたものと、残ったもの——触れられた沈黙
次の日の日曜日――
「行ってらっしゃい」
お父さんとお母さんは、
いつもより少し早く家を出た。
玄関に立つ二人の背中には、
ほんの僅かに
“後ろ髪を引かれる気配”が残っている。
見送りができないことへの申し訳なさ。
その小さな影に気づいて、
私はわざと明るく笑った。
「大丈夫だよ。気を付けて、行ってらっしゃいっ」
扉が閉まり、
二人の気配が遠ざかる。
――その瞬間。
家の中が、すっと静かになった。
その静けさに身を預けた途端、
意識が自然と“今朝の夢”へ引き寄せられていった。
(……なんだか、濃い夢だったな)
余韻だけが残っている。
だけど――
思い出せない。
手繰り寄せようとするほど、
輪郭は霧のようにほどけていく。
何を見たのか。
何を感じたのか。
なぜ、あんなにも心が揺れたのか。
わかっていたはずなのに。
今はもう、何も掴めない。
まるで最初から存在しなかったみたいに、
“中身だけ”が綺麗に抜け落ちている。
それでも――
胸の奥のざわめきだけが、
確かに息をしていた。
私はその気配を、
そっと胸の内にしまい込む。
そして、
現実へ戻るように着替えを始めた。
ワイシャツに袖を通す。
ボタンをひとつずつ留める。
タイトスカートのチャック。
絽羽織の柔らかな布。
指先で触れるたびに、
自分の輪郭がはっきりしていく。
(……うん、大丈夫)
小さく息を整え、
家を出た。
朝の空気は、少し冷たい。
歩くたびに、
気持ちがゆっくり引き締まっていく。
頭上を渡鴉便が横切った。
濡羽色の翼が、
光を受けてきらりと瞬く。
(……久しぶりに見たなぁ)
その感覚が、
夢の名残のように胸をくすぐった。
駅へ近づくと、
アーチの影の下に
カナタと拓斗の姿が見えた。
その手前では――
詩乃ちゃんが、
おばさんとたっくんと
別れの挨拶をしている。
私は少しだけ歩みを速めた。
「おはようございます」
「あら、莉愛ちゃん。おはようっ」
ぱっと咲くような笑顔。
「たっくん、おはよう」
指先を摘むと、
たっくんはけらけら笑った。
その無邪気さに、
胸の奥がふっとほどける。
――その隣で。
詩乃ちゃんの瞳が、
今にも崩れそうに揺れていた。
気づけば、
私は隣に立っていた。
「さっ、行ってらっしゃい。たっくんもバイバイよ」
「う? しーちゃ?」
おばさんの腕の中で、
きょとんとした顔。
何もわかっていない瞳。
その無垢さに――
詩乃ちゃんの表情が、崩れた。
「た、たっくん……」
伸ばされた小さな手を、
そっと包んだ瞬間。
涙が、溢れた。
「だっ、たっぐんっ……! お姉ぢゃん、まだ帰っでぐるがらねっ……!」
言葉がぐちゃぐちゃになる。
でも止まらない。
「泣いぢゃダメだよっ……!」
説得力はなかった。
「泣いてるの詩乃ちゃんじゃないの」
「ゔ〜っ……だってぇ……!」
おばさんが苦笑しながら頭を撫でる。
泣いて、笑って、また泣いて。
その全部が、少しだけ滑稽で――
少しだけ、愛おしかった。
「二人とも、気を付けてね。行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます。たっくんも――」
たっくんに声をかけようとして
目が合った。
真っ直ぐで、
何も知らない瞳。
それだけで、
胸が、ぎゅっと締まる。
(……あ、ダメ)
「っ……またね」
ぽつりと落ちた言葉と一緒に、
涙が一粒、零れた。
(……なんで)
(こんなに、くるの)
そのとき――
『莉愛、大丈夫?』
背後から、
機械混じりの柔らかな声。
肩に触れる手が、
驚くほど温かい。
「へっ。あっ……うん、大丈夫。えへへ」
慌てて笑う。
その少し後ろで、
「……二人とも泣くのかよ」
拓斗が苦笑する。
その空気に、
ほんの少しだけ救われる。
――そのとき。
「……たっくん? どうしたの?」
涙を拭いた、詩乃ちゃんの声。
たっくんの視線は、
私の“後ろ”を見ていた。
(……カナタを?)
隠れるように立っていたカナタが、
僅かに肩をすくめる。
怖がられるかもしれない――
その遠慮がわかった。
だから私は、
そっとカナタの袖を引いた。
カナタが止まる。
迷ってる。
視線が揺れる。
私は、小さく頷いた。
大丈夫だよ、と伝えるように。
その一拍の後――
カナタは、
そっと前へ出た。
たっくんが手を伸ばす。
迷いのない、真っ直ぐな手。
カナタは一度、
おばさんを見る。
柔らかい微笑みと、
頷きが返ってくる。
そして――屈んだ。
たっくんと目線を合わせる。
小さな手が、魔械面に触れた。
その瞬間。
たっくんの瞳が、
ぱっと輝いた。
興味と驚きと、純粋な好奇心。
『……不思議?』
機械混じりの、
いつもより優しい声。
たっくんは笑う。
何度も触る。
ただ、それだけで楽しそうに。
その光景に、
自然とみんなの顔がゆるんだ。
「お姉ちゃんに似て、魔械好きになるかもね」
「えっ、そうかなぁ! たっくんっ! 魔械はいいぞぉ!」
詩乃ちゃん復活。
空気が一気に軽くなる。
――そして。
事件は起きた。
たっくんの手が、魔械面の端を掴む。
ぐいっ。
『っ!?』
躊躇いもない力で、
カナタがぐいっと引っ張られた。
急なことに、
カナタの体がぐらつく。
私は慌ててカナタの腕を掴むと、
拓斗が反対の腕を支えた。
「ちょっ、たっくん! それはダメだよっ!」
詩乃ちゃんも慌ててたっくんに手を伸ばし、
引き離すように腕を抱き寄せた。
「やだっ、たっくんったらっ!」
おばさんの慌てた声。
「カナタくんごめんなさいっ! 大丈夫!?」
『あ、はい。大丈夫です』
カナタは支えられた体勢を立て直しながら、
いつもの落ち着いて応えた。
そしてカナタは再び、
たっくんへ視線を合わせる。
『ごめんね。これ、触覚魔法でくっついてるから取れないんだ』
「う?」
たっくんは、
ぱちぱち瞬きをしただけだったけど――
「「「「……へぇ」」」」
私たち四人は、
思わず同じ声を漏らした。
その瞬間。
ホームにベルが響いた。
現実が戻ってくる。
「やばっ、もう来る!」
「おばさんっ、たっくんっ。行ってきます!」
最後に、
たっくんの頭を撫でる。
くしゃっと笑うたっくん。
それを目に焼き付けて、
私たちは駆け出した。
改札を抜けて、ホームに出る。
滑り込む軌車。
開く扉。
吹き込む風。
私は一歩、踏み出す。
胸の奥には、
まだ思い出せない夢の余韻と、
さっきの別れの温度が、
静かに重なっていた。
お読みくださり、ありがとうございます。
泣いてしまうくらい大好きな存在がいることって、
すごく幸せなことなんだと思います。
そして、
たっくんとカナタのやり取り。
怖がるのではなく、
真っ直ぐ興味を向けるたっくんと、
それに合わせてしゃがむカナタ。
短い場面ですが、
個人的にとても好きなシーンです。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。




