02 詩乃side
双輪試走が終わって、利玖先輩が莉愛ちゃんのために“可愛い妹を祝う会”を放課後に開いてくれた。
——と言っても、実際はお祝いよりも、反省会と一週間後の試験対策の話がメイン。
カフェに漂う甘い香りと談笑が混ざる中、テーブルに並ぶグラスの水面が、窓から差し込む夕陽でキラキラしていた。
「霧幻コースは、きっとユカリ様ね。怖くなかった?」
瑛梨香先輩が優しく問いかける。その声色は穏やかなのに、どこか試すような響きがある。
「すごく怖かったですっ!!」
私は反射的に体を固くした。
肩がピクリと跳ねて、手が勝手に胸の前でギュッと結んだ。言葉にするよりも先に、体が“あの時”を思い出してしまった。
——視界を覆う霧、聞こえないはずの音、そして背筋を撫でた“気配”。思い出しただけで、指先が冷たくなった。
……本当に怖かった。
もともと怖いものが苦手で、お化け屋敷とかも気になるけど、入り口で立ち止まって結局入れないタイプ。なのに、あんな本格的な“霧の中”に放り込まれるなんて……
「私たちには、不気味な音しか聞こえませんでしたけど、操導者の二人には他に何か聞こえたみたいで、それで突破できたんです」
優ちゃんが、冷静な口調で言った。
その表情は、まるで研究データを報告する学者さんみたいで、感情を抑えながらも鋭く事実を整理している。
だけど、その瞳の奥には確かに“怖かった”記憶が潜んでいて、それを押し殺して話しているのが分かった。
今の二人を見ていると、エスとアプレンティスの関係性がすごく自然に見える。お互いを補い合う形で、一つの魔法が完成している。そんな絆を、改めて実感した。
「そうでしょうね。ユカリ様のコースだから、きっと二、三人待機させていたでしょうね」
瑛梨香先輩の言葉はサラリとしていたけど、なぜかその“二、三人”という言葉が胸の奥に引っかかった。
「……あそこに誰かいたんですか?」
聞かない方がいいと、直感では分かっていた。でも、好奇心の方が少しだけ勝ってしまった。
声に出した瞬間、自分でも「あっ」と思う。
気付けば、私は無意識に隣の涙先輩の肩へと体を寄せていた。
「話しかけていたということは生き物だと思うけど、恐らく人間の霊でしょうね」
「ヒッ!?」
瑛梨香先輩の冷静な言葉に、体が勝手に反応した。
目を見開き、喉がカラカラになり、体の奥からスッと血の気が引いていく。唇の感覚が薄れて、視界の端が白く霞んだ。
その時、背中にそっと温かい何かが触れた。まるで、寒い夜に誰かがそっと毛布を掛けてくれたみたいな温もり。
「大丈夫?」
涙先輩の声だった。
その柔らかな声音が耳に届くだけで、凍った心が少しずつ溶けていくようだった。
「あ……ありがとう、ございます」
やっとの思いで言葉を搾り出すと、涙先輩は静かに微笑み、私の背を撫で続けてくれた。
その手の平の優しさが、怖さを少しずつ追い出してくれる。背中を伝う温もりに、心の震えが緩やかにほどけていった。
「そういった話が、苦手なのね」
涙先輩の声は、咎めるでも呆れるでもなく、ただ“分かってくれている”響きだった。
「は……はい……」
小さく頷くと、涙先輩の手の温もりがまたひとつ、私の中に灯をともすように感じた。
泣きたくなるほど安心して、それでも必死に涙を溢さないように堪えた。
「ところでお姉様っ、ユカリ様とはシ様のことですか?」
優ちゃんが、ふいに明るい声で話題を変えてくれた。
その瞬間、胸の奥に張り付いていた“恐怖”の名残が、少しだけ剝がれていくのを感じた。ざわついていた鼓動が、少しずつ穏やかさを取り戻していく。
(優ちゃん、私が怖がってるの、気付いてくれたんだ)
その優しさが胸に沁みて、息が少し詰まった。私はまだ震えている指先を、そっと膝の上で隠す。
涙先輩が撫でてくれる背中の温もりが、ゆっくりと心を包み直してくれていた。
「えぇ、そうよ。紫の賢者のシ様。死後の魂の導き手。それ故に“紫”と“死”が同じ響きで畏怖の念を抱かれがちなので、私たちは親しみを込めて“ユカリ様”とお呼びしているの」
説明を続けながら、瑛梨香先輩は胸元の羽織紐をそっと指先で撫でた。
その仕草はまるで、長く大切にしてきた記憶を確かめるみたいに、丁寧で静かだった。
紐の中央には、小さなアメジストが光を受けて淡く瞬いている。
紫苑町出身——その色が物語るように、上品で凛とした輝き。
私は思わず見とれてしまった。
「まぁっ! 素敵ですね」
優ちゃんは感激したように目を輝かせ、パチンと小さく手を合わせた。
その仕草が、ほんの少し天使みたいで、私はつい微笑んでしまった。
“シ様”という言葉に感じていた冷たい響きが、“ユカリ様”という呼び方に変わるだけで、こんなにも温かく、優しく感じる。
それはまるで、恐怖を和らげるために生まれた言葉のようで、私は胸の奥で、そっとその名をもう一度繰り返した。
ユカリ様——
確かに、その呼び方なら……私も、怖くない。
「……ふふっ、落ち着いたみたいね」
私の背中を優しく撫でていた涙先輩が、ようやく安心したように微笑んだ。
その声に、胸の奥がポッと温かくなる。
(涙先輩……)
その名を心の中で呼ぶ度に、胸の奥に尊敬が広がっていく。
涙先輩は、誰かを安心させることが自然にできる人。そして魔械の話になると、表情が一変して、鋭くて頼もしい“技師の目”になる。
その瞬間を見る度に、私はただ見惚れてしまう。でもそれは憧れじゃなくて「この人のように成りたい」と願う気持ちに近い。
創駆の相談をした時も、どんな小さな疑問でも真剣に聞いてくれた。その言葉の一つ一つが、私の中にどんどん新しい光が灯っていった。
気付けば、もっと近くでその光を感じたいと思っていた。そしてそれは、もう言葉が口から溢れていた。
「……涙先輩……私のエスになってほしいです」
胸の奥の尊敬が形になっただけで、恥ずかしさも後悔もない。
ただ——この人から学びたい、導いて欲しい。その気持ちが真っ直ぐにあった。
「えっ!」
涙先輩が驚いたように目を丸くする。その声に、向かいの瑛梨香先輩も思わず反応した。
「あらっ、いいじゃないっ! ついに涙にも、エスの申し出が来たのね」
瑛梨香先輩の明るい声が、場の空気を軽くする。その表情は、まるで妹を祝うお姉さんのようで、思わず頬が緩む。
でも優ちゃんは、少しキョトンとした顔で尋ねた。
「でも、アプレンティスとエスって、両用してもいいんですか?」
(あ……そっか)
その言葉に、現実が少し戻ってくる。
涙先輩は瑛梨香先輩のアプレンティス。
そんな人に、エスになって欲しいなんて言っていいのだろうか。
だけど、胸の奥の熱は、まだ消えなかった。
私が見てきた涙先輩は今でも眩しくて、その背中を追いたいという気持ちは、やっぱり本物だった。
「ふふっ、そこが“非公式文化”のいいところよねっ」
瑛梨香先輩は、まるで秘密を共有するような笑みを浮かべて、軽やかに声を弾ませた。
その言葉に、場の空気がふっと柔らかくなる。瑛梨香先輩が口にすると、どんな堅い話題も和らかくなっていくみたい。
「アプレンティスがエスになること自体は問題ないわよ。でも、アプレンティスでいることで、甘えが生じてエスとして導けなくなるのなら——」
一瞬、言葉を区切りながら、瑛梨香先輩は少し真面目な目になる。
「その時は、アプレンティスを卒業するか、そもそもエスを受けないかのどちらかね」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れる。
エスとアプレンティス——どちらも、誰かを導いたり導かれたりする関係。
その均衡が少しでも崩れれば、信頼は簡単に揺らぐのかもしれない。
だけど、すぐに瑛梨香先輩の声が和らぐ。
「でも、涙ならそこは問題ないと思うわよ」
柔らかな笑みが、瑛梨香先輩の口元に戻ると、涙先輩を見る。
「不安になった時は、こっそり私のところにおいで」
その言葉には、深い信頼と、先輩としての包容力が滲んでいた。涙先輩の肩が少し緩むのを見て、私も釣られて息を吐く。
この人たちは“繋がり”という言葉の意味を、ちゃんと知っているんだ。
非公式文化。形式に縛られないからこそ、本当の心が見える場所。瑛梨香先輩の言葉が、その意味を静かに照らしているように思えた。
「…………」
涙先輩は、静かに目を伏せていた。
その長い睫毛の影が頬に落ちて、涙先輩の表情を少し見えにくくしている。
でも、きっと——私の申し出と、瑛梨香先輩の言葉を、一つ一つ丁寧に噛み締めているんだと思う。
その沈黙が、涙先輩の真面目さを物語っていた。
答えを軽く返さない誠実さと、向き合う責任感。その両方が、涙先輩らしかった。
「……詩乃ちゃん。そのお返事は、後でもいい? 今日中には答えるから……」
少しだけ不安を滲ませた声。だけど、その奥には、きちんと考えてから答えたいという気持ちがちゃんと見えた。
「はいっ、大丈夫です!」
私の声は自然と明るくなった。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
——こんなに真剣に考えてくれている。
それだけで、十分過ぎるくらい嬉しい。
返事が“はい”でも“いいえ”でも、きっと私は納得できる。
だって、涙先輩はいつだって、誰よりも誠実に答えをくれる人だから。
「てかさぁ! 莉愛のあれ、見せてよ! 影のやつ!」
隣の席から、利玖先輩の弾んだ声が飛んできた。まるで子どもが宝物を見つけた時みたいに、目を輝かせている。
(莉愛ちゃんの“影”……!)
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がキュッと高鳴った。
——あの“影”だ。
練習に集中してたから、ちゃんと見せてもらったことはなかった。ずっと気になっていて、でも、何となく口に出せずにいた“特別”なもの。
だから今、利玖先輩の一言が、まるで合図みたいに私の期待を跳ね上げた。
「えっと……じゃあ、いいよ?」
莉愛ちゃんが少し照れくさそうに笑いながら答えた瞬間、胸の奥で何かがパッと灯るような感覚が広がった。
やっと見られる。莉愛ちゃんの“影”を。
「よしっ! んじゃあ折角だから、中庭でやろうか!」
利玖先輩が勢いよく立ち上がる。その明るさが伝染して、空気が一気に軽くなる。私も慌ててグラスを持ち上げた。
「涙先輩っ! 行きましょ!」
気付けば、自然に声が弾んでいた。
折角、莉愛ちゃんの影を見られるんだから、今は難しいことを考えないで楽しんで欲しくて、私は明るく涙先輩に声をかけた。
「っ……えぇ」
涙先輩は少し驚いたように目を丸くしたけど、次の瞬間には、ふっと柔らかく笑った。
瑛梨香先輩と優ちゃんも立ち上がって、私たち四人は揃って中庭へ向かった。




