2-10 エントランスでチケット代を払って
エントランスでチケット代を払って、ライブハウスに入ると、早速エリックに捕まり、バーに引っ張っていかれてコロナビールを奢られた。
「この間、ハイネケン奢ってくれた分、きちっと借りを返したいと思ってな。」
「マカオ行きも全額奢ってくれていいんだが。」
「バカ言うなよ。
誰が20,000香港ドルも奢れるかっての。」
即日であっさりと立て替えた奴が、どの口でそんなことを言うと思いつつも、ビールを飲んでいると、エリックが他の男に英語で話しかけられる。
僕はその間に、本家から旅費が振り込まれている銀行口座にネットバンキングでアクセスして、エリックの指定する口座に入金の手続きを済ます。
突然、エリックの方からラップが聞こえてくる。
てっきりエリックかと思ったが、声が違ったので良く見ると、ラップしていたのは彼の話相手だった。
「7,000香港ドル払って住む家はまるで独房。
そんな俺たちが街に出てデモに参加する。
監獄を恐れると本当に思っているのか?
俺は金持ちに生まれるか、ドラッグを売るか、宝くじに当たらない限り不動産を買えない街出身。
不動産の独占が俺から強奪する。
だから俺はなりたくなくてもハスラーにならざるを得ない。」
そこまで聞いたところで、エリックは相手を宥めるようなジェスチャーをし、彼にもコロナを買ってやっていた。
「随分気合いの入ったラップする男だな。」
コロナの瓶を持って、ラッパーの男がどこかへ行ってしまうのを見てから、僕はエリックに声をかけた。
「USのギャングスタラップの雰囲気は上手くつかんでるよな。
最近はああいう奴がひっきりなしに俺のところに売り込みに来るんだよ。
ジャンルも何でもあり。
ロック、オルタナ、ダンス、ラップ。
フリーの音楽プロデューサーの開業届なんか出した覚えはないんだけどな。」
「それだけ評価が高いってことは、上手くやればマカオ旅行のエージェントなんかよりもよっぽど儲かるんじゃないか?」
「ハネムーンのコーディネートの方が楽だし金になるんだよ。」
エリックは携帯を取り出して、何やら確認すると、コロナのおかわりをもう2瓶追加で購入する。
「銀行への入金、確認した。
仕事が早くて助かる。
日本人は商売相手としてはやりやすくて、ありがたいよ。」
そう言いながらコロナの瓶を渡してくる。
受け取った瓶は良く冷えていたが、まだ飲みかけの瓶が手元にあったので、持て余してしまう。
「そりゃどうも。
ところで、来月にはマニラに行くんで、何人か人を紹介してくれって話頼んだの、覚えてるか?」
「もちろん。」
「何人か、頼りにできそうな人間を紹介してくれると助かるんだが。」
「音楽関係者か、それともミュージシャン好きの股の緩い女か、どっちだ?」
「どっちでもない方がいいかな。」
「子どものお守りも大変だな、イーストタートル。
いくら予算度外視と言っても、俺ならお断りだね。」
「僕にも拒否権があれば良かったんだけどね。」
そう言って、どうにか一本めのコロナの瓶に口をつけて、どうにか飲み干した。
エリックの手元の瓶は既に二本目で、中身はもう半分も残っていなかった。
「マニラでは何か特に予定があるのか?」
「いや、特には。
とりあえずは、うちのクライアントに英語の勉強の続きをさせながら、様子を見ようかと。」
「語学学校、紹介してやろうか?」
「いや、それは現地に行ってから確認したい。」
「どの辺に住むとか、そんなのは決まってるのか?
あのいいとこ坊が納得するような土地ってなると、限られてくるんだろうな。
マカティとか、BGCとか、その辺りだろう?」
「実は、フィリピンには行ったことがなくてね。
マニラの地名を言われてもピンとこない。」
「そりゃ大変そうだな。
せいぜい騙されないように気をつけなよ。」
エリックと話していると、彼の肩越しにジャニスが誰かと話しているのが目に入ってきた。
相手はさっき、エリックに向かってラップしていた東アジア系の容貌の男だった。
バーカウンターから離れて、ジャニスの方に向かう。
彼女は男と握った手をぶつけ合う挨拶をした後、こっちに気づいて僕の名前を呼んだ。
「東亀。
コロナ飲んでるんだ?
エリックとは話せた?」
「お陰様で。
あの男、知り合いなのか?
さっきラップしてるところ見たけど、上手いよな。」
「うん、最近会うんだ。
名前知らないんだけど、日本人なんだって。
いっつも英語喋ってて、日本語喋ってるところなんか聞いたことないんだけど。」
ジャニスと話していると、スピーカーから流れていたオルタナティブ・ロックが突然途切れ、会場の照明が暗くなった。
周りの人間が全員ステージの方を向く。
ステージにいくつか人影が現れて、照明に照らされる。
楽器を持っていない長髪の男がマイクスタンドに歩み寄り、マイクを掴んで、目と口を大きく開いた。
それから数十分間、アンプとドラムから出る大きな音の束が若いオーディエンスを煽るのを、コロナの瓶を片手に見ていたのだが、切りのいいところでジャニスに帰りたいと伝えた。
僕は1人で帰るつもりだったのだが、ジャニスは一緒に帰るからちょっと待ってくれと言いだしたので、僕らはステージの上を注視していた人込みをかき分けて、どうにかライブハウスを出た。
駅へと向かう道を2人並んで歩くのだが、ジャニスは珍しいことに無言で、僕が話しかけてもあまり話に乗ってこなかった。
ライブで疲れているのかもしれないと思い、特に気にせず、そのまま駅について電車に乗った。
地下鉄で旺角まで行き、改札と荃湾線へとつながる通路の分岐で、さよならを言おうとジャニスの方へ向き直ろうとしたところで、彼女が僕の服の袖を引っ張った。
目線だけ彼女の方にやると、彼女は真っすぐ、改札の向こうにいる誰かを見ていた。
視線の先には背の低い、鋭い目つきなのにぎょろぎょろと大きな目をした男がいた。
彼の隣には、週刊誌からそのまま出てきたような、タラバガニのような長く細い脚をした若く彼より背が高い美人が立っている。
彼らと僕らの間を行きかう人の波のせいではっきりとは見えなかったが、2人の立ち位置の距離感から、手をつないでいるか、腕を組んでいるように見えた。
「知り合い?」
僕の言葉にジャニスは首を縦に振り、それから思い直したように横に振った。
「昔のね。
今はもう、会わなくなちゃった人。」
立ち止まる僕らを避けて追い越していく人たちがまた新しく人垣を作り、2人の姿を遮る。
次に司会が開けた時、男の視線と僕の目が合った。
ジャニスは一瞬、飛び上がるように体をこわばらせ、それからうつむいた。
男は驚いたような顔をしていたが、口元だけで笑うと、隣の女の腰に腕を回して、地上への出口の方に歩いていってしまった。
僕は下を向いたままのジャニスの手を取り、なるべく人目につかない場所に移動した。
彼女を僕の体と壁の間で挟むようにして、行きかう人に彼女が目につかないようにする頃には、ジャニスは小さく、だがはっきりと嗚咽を上げて泣いていた。
僕が差し出したハンカチを無言で受け取り顔にあて、小刻みに体を震わせながらひとしきり泣いてから、ジャニスは鼻声で小さく言った。
「ありがと、東亀。」
僕はそれを聞きながら、時代や土地が変わっても、人は失恋したらやはり同じように泣くものなんだなと、まるでスクリーンの向こうからドラマを見ている視聴者のように身勝手なことを考えていた。
きっとあの男が、ジャニスをロンドンで捨てて、金と人民解放軍の娘と一緒にオーストラリアに逃げた例の企業家だったのだろう。




