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2-1 昔の彼女が中華系の子だったのだが

昔の彼女が中華系の子だったのだが、ことある毎に僕に中国について書くべきだと主張する子だった。


彼女曰く、


「21世紀初頭に生きている人間なら、誰も中国のことを無視できないはず。

ましてや、例えごく個人的な楽しみの趣味であっても表現をする人間が世界で最も強い国になるのが明白な超大国を取り上げないなんてありえない。」


のだそうだ。


過去の歴史の関係から、日本国籍保有者である僕が中国について書くと余計な軋轢を招くのではないかと反論すると、


「そんなことで華人は怒らない。

おまえらみたいな器の小さい精神構造の連中と一緒にするな。」


と仰られた。


これは、何を書いても文句を言われるが、何も書かなければ本格的に怒り狂うパターンだと過去の経験から学んでいた僕は、李白の死にまつわる、酔った際に船に乗って水面に映る月を掬おうとしたら川に落ちて、そのまま溺れて死んだという伝説をデフォルメした二千字弱の文章を書いた。

当時の僕がよく書いていた、一般的な日記には長く、人の目に触れるエッセイにして短すぎる上に自意識過剰で鼻につく類の文章だったのだが、出来上がった文章を一読すると、彼女は唇を尖らして言った。


「おまえは現代の中国について書くだけの度胸もない、とんだ小心者だな。」


現代の中国になんて書いたら何を言われるかわからないと思いつつも、指摘されたとおり、僕は小心者だったので、特に何も言い返さなかった。

この子とはしばらく後、地下鉄の駅で大喧嘩をして、そのまま連絡を取らなくなった。

ほどなくして僕は、ウズベキスタン出身の、緑の目をした韓国とロシアのミックスの女の子と会うようになり、中華系の子のことはさっぱり忘れてしまうことにした。

自分でも意外な程にあっさりと吹っ切れたのは、「小心者」だと呼ばれた時に口しなかった感情のせいもあったのかもしれない。



中華系の女の子と大喧嘩をした地下鉄の駅は、香港は九龍半島の南端の尖沙咀(チムサーチョイ)だった。

毎月何かしらどこか変わっていく不思議な(ローグライク)ダンジョンみたいな香港という街のせいで、当時の記憶に現実感がない。

あれは実は夢だったんじゃないかとすら思う。

改札へと向かう人の流れに逆らって、通路の真ん中で立ちつくす僕の両脇を背丈の小さな香港居民の皆さんが縫うようにして歩いていくと、僕の後ろから、月見之介が大きな声でブツブツ言うのが聞こえてくる。


「随分騒がしいな。

さっきの話じゃすぐ近くってことだったが、まだ歩くのか?」


そう言う月見之介はワイシャツにスラックスを着ていて、どこから見ても日本からの出張者にしか見えない。

4月の香港は十分に暑いせいで、シャツの袖をまくっているところが、また何とも本物のジャパニーズ・サラリーマンっぽさを感じさせた。


「外出したついでに月見之介さんの足りない旅行用品を買い足しましょう。

100歩譲ってスーツケースと服装については何も言いませんが、靴と上着だけは動きやすいものを持っておいた方がいいですから。」


僕は質問に答えず、論点をずらして話をごまかした。

出発地点と目的地の間には、月見之介が1人で歩こうと思いたくならないような距離があることをわかってもらえる折角の機会を逃す手はなかった。


月見之介の持ち物や服装については、日本出国前の僕の懸念はことごとく的中していた。

全方向に転がせるタイプの小さなスーツケースは、新幹線で1泊2日の出張に幾分には便利そうだが、2年も旅行を続けようという人間が持ち歩くようには見えない。

スーツケースの中には電動式のカミソリと長袖のシャツの換えが2枚。

あとは下着とオカモトのコンドームくらいのものだ。

シャワースリッパとして重宝するビーチサンダルや、痛み止めや胃腸薬や、電化製品の変換プラグなど、長期旅行者の必需品と言えるものは一切入っていなかった。


靴にしても、ベルトと同じ色と素材の高そうな革靴では、バンコクのウェットマーケットはもちろん、排水機能が貧弱で、すぐに道路が冠水する途上国の首都の普通の道すら歩けないだろう。

早急にアウトドア用品店で多少の水と汚れの中を突っ切れる靴を買う必要があった。


と言っても、月見之介の服装が完全に役に立たなかった訳ではない。

それを理由に、月見之介を無理やりザ・ペニンシュラ香港のデラックスルームに押し込むことができた。

ぼくの服装は、税抜きで1泊4,000香港ドルの部屋に泊まるのに相応しくなかったのが幸いした。

おかげで、同じホテルに泊まって四六時中小間使いとして扱き使われることが避けられるのだから、バックパッカーの小汚い格好も、なんとかやハサミと一緒で使いようであると言えよう。


「ベニンシュラにはこの格好じゃ泊まるのが恥ずかしいので、近くにある安宿に滞在することにします。

SIMカードもさっきスマホに入れて使えるようにしたので、また何かあったらLINEで連絡ください。」

「近くって、どのくらい近いんだ?」

「直線距離だと歩いて5分もしないところです。」


ホテルの目の前の彌敦道(ネイザンロード)は車の通りが多すぎて、最短距離などまともに歩けないことは説明しなかった。


「あれでしたら、部屋に荷物だけ置いて、僕の泊まるところ見てみますか?

行けば、月見之介さんをこのホテルに泊めたい僕の気持ちが一目で理解してもらえると思いますよ。」


どうせ面倒くさがってついてこないだろうと高を括っていたのだが、意外にも外出に乗り気だった。

初めての海外旅行で、少し気持ちがハイになっているのかもしれない。


15分後、ホテルに荷物を置いて手ぶらの月見之介と合流し、湿っぽい空気に満ちた通りに出る。

神経質な歩行者用信号の鈍いビープ音がする中を、人混みを抜けるようにして歩いていく。

月見之介が着いてきているのを時折確認するため、後ろを振り向く。

バックパックを背負った僕と、東アジア系ビジネスマンにしか見えない月見之介の取り合わせはきっと奇妙に見えるだろうなと思った。


文句を言う連れをなだめつつ、地下鉄の駅を通り抜けて、彌敦道(ネイザンロード)の東側に出る頃には、既に月見之介の顔に疲労の色が浮かんでいた。


「暑いし、人が多すぎる。

目眩がしそうだ。」

「渋谷のスクランブル交差点と似たようなもんですよ。

コンビニで飲み物買います?

ポカリ売ってますよ。」


冷たい飲み物をコンビニで買って喉を湿した僕らは、人並みに紛れて歩き、重慶大厦(チョンキンマンション)の入り口までやってきた。

昔と変わらず、アフリカ人やインド人が大勢入口にたむろしていて、貴金属を売りつけようとしている。

空港にあった両替屋よりも明らかにいいレートの表示が所狭しと並んでいて、ちょっとでもそこに視線をやると、顔も体毛も濃いインド人の男たちが取り囲んで、買えよ買えよと騒ぎ立てる。

重慶大厦の入口の胡散臭さは、相変わらず抜群の安定感だった。


振り返って月見之介を見ると、明らかに戸惑っている表情をしていた。


「東亀よ、まさか―」

「そのまさかです。

僕はこの、重慶大厦の中の安宿に泊まります。」


珍しいことに、月見之介が何か言いかけて、言い淀む。

柄にもなく、僕の心配をしてくれているのかもしれなかった。


「怪しそうに見えるかもしれませんが、至って普通の、ちょっとした観光名所にすらなっている商業ビルです。

20年近く前には、ここを舞台した映画が流行ったりしたんですよ。

『恋する惑星』って、観たことないですか?」


月見之介は無言で首を横に振った。


「普通にアマプラかネトフリで見れると思うんで、香港いるうちに見てみたらどうですか?

重慶大厦の見方が変わるかもしれませんよ。」


月見之介は微妙な表情で唸った。

僕は月見之介を海外に連れてきて良かったかもしれないと思った。


「僕は宿にチェックインして荷物置いて、両替も済ませるんでちょっと時間かかります。

月見之介さんさえ良ければ、その後モールに行って靴と上着だけでも買いたいと思うんですが、いかがですか?」

「俺は疲れたから帰る。

ホテルの部屋でゆっくりしたい。」

「分かりました。

明日の朝、10時に『ザ・ロビー』にいるようにしますんで、ゆっくり来てください。」


月見之介はろくに僕の顔を見ず、手だけ挙げてみせ、それから来た道を引き返し始めた。

入り組んだ道順だったが、まさかホテルにたどり着けないということはないだろう。

それに、あまり心配し過ぎで過保護になるのも良くない。

何より、旅の途中で野垂れ死んでもらう予定なのだ。

スタート直後でも途中であることには変わりない。

もしどうにかなったとしたら、それは月見之介にとっても本望だろう。


月見之介が角を曲がるのを見届けてから、重慶大厦の中に踏み込む。

似たような店が昔と変わらずごったがえしていて、妙に落ち着く。

A棟の上層階にあるインド人経営の安宿に行くためにエレベーターを待つ。

10分待ってもエレベーターがなかなか来ないことすら重慶大厦らしくて和んだ。



宿に着いたら、幸運なことに1番奥の窓付きの部屋が宛てがわれた。

窓の向こうでは、重慶大厦と同じような四角いコンクリ作りの建物が視界を囲んでいる。

下の方を見ると、色違いのカラフルな蜘蛛の巣がいくつも重なっているかのように、繁体字の看板と工事現場の足場に使われている竹が無秩序に入り組んでいるのが見えた。


窓の外の、風景というには違和感のある何かを見ていると、昔、短い間だが、香港にいた時のことを自然と思い出す。

曖昧だった記憶の断片に急にピントがあって、細部だけが鮮やかに蘇ってくる。

地下鉄の駅でケンカ別れした子の家のベットルームの窓からは、大きな建物の天辺の電飾に邪魔されつつも、ちゃんと空が見えていた。

今、あの部屋に誰が住んでいるのか知らないが、未だにあの窓からは、まだ何がしかの空の切れ端が見えているのだろうか。

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