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1-9 実家に戻ると、新品のトラクターが停まっていて

実家に戻ると、新品のトラクターが停まっていて、その前で父親がにこにこしながらディーラーの説明を聞いていた。

玄関の軒先ではその様子を母親と姉が呆れ顔で見ている。

どうやらあれが、僕を本家に2年間の年期奉公に出す上で、本家から与えられた報酬らしかった。

そんなものより、金輪際、本家と関係を持たない旨一筆書かせた方が、よっぽどうちの家族のためになると思うのだが、そのあたりのことには頭が回らないのだろう。

おそらくはあと10年程で、このまま市役所の出張所の所長補佐(係長待遇)として社会人としての務めを終えるであろう僕の父。

小役人の父らしく、長いものに上手く巻かれてしまっている様子に納得しつつも、情けなさを覚えた。


「どうだった?」


玄関のところまで来た僕に母が声をかけた。

僕は肩を竦めてみせた。


「話にならないね。

分家の人間にも都合があるってこと、あの人たちは棺桶に入るまで理解できないんだろう。」

「じゃあ、断ったの?」


母の隣にいる姉が聞く。


「断ったって、何の話?」

「いや、その。つまり―」

「旅行の話、したんでしょう?

で、息子ちゃんのその表情から察するに、引き受けた。」

「母さん、息子ちゃんはやめてよ。

もう僕、27だよ。」

「3人もいると名前を間違うのよ。

息子ちゃんって呼び方なら、どの子でも間違いじゃないから、便利でしょう?」


母は、問題児が集まったクラスをなんとか1年間担当し切った幼稚園の先生のような、誇らしげな表情で言った。

自慢することではないと思うのだが。


「まあ、とにかく、姉さん、そういうことなんだ。

ご心配されずとも、しっかりパスポート持って2年間ふらふらさせていただきますよ。

それで、父さんはトラクター貰ったみたいだけど、姉さんは何貰ったの?」

「…豪華雛人形7段セット。」


姉は一瞬言葉に詰まりつつも、申し訳なさそうに返事をする。

姉の正直さと誠実さは、うちの一族において数少ない美徳のうちの一つだ。


「言っとくけど、誰も欲しいなんて言ってないからね。

うちはマンション住まいだから、置く場所がないって言ってんのに、あのジジイ、聞く耳持たなくて。」

「ネットのオークションで売ったらいいんじゃない?

それなりのお金にはなるよ。」

「かわいい弟に一族きってのろくでなしの面倒を2年間付きっきりでさせるのを許すのの対価にしては安すぎると思わない?」

「まあ、良心の呵責を感じたいのであればご自由にどうぞ。

気持ちは嬉しいけど、月見之介(あのおっさん)のお尻をふきふきさせていただくのは、僕なんで。」


姉はため息をついた。

母は空を仰いだ。


「それで、いつ出発するの?

当の本人は来週にでも出国するつもりみたいだったけど。」

「そう言ってる張本人さん、パスポートを持ってないんだって。

今から申請したら、どれだけ早くても出発は4月になるね。

必要なものも買わなきゃ行けないから、結構時間かかるんじゃないかな。」

「折角息子ちゃんが帰ってきたと思ったら、またすぐにいなくなっちゃうのか。

母親としてはちょっと寂しいな。」

「4人いる子どものうち、3人は近場に住んでるんだから、1人くらいふらふらするのは我慢してよ。」

「そういう問題じゃないよ。」

「じゃあ名前で間違わず呼んでよ。

そしたら、出かける気がなくなるかも。」

「それはもう諦めてるから無理。」

「諦めが良すぎるよ。」


僕と母のやり取りを横で聞いていた姉が苦笑する。

僕らの視線の先では、トラクターの引渡しに伴う説明が終わったのか、ディーラーと父が頭を下げあっていた。

美しき日本の礼儀作法。

こうした様式美を次に目にするのは2年後になるのかもしれないと思うと感慨深かった。



約1週間かかる月見之介のパスポートの発行を待っている間に、旅に必要な荷物を買いものを済ませてしまうことにした。

撥水加工の施されている質のいいアウターや、宿泊先のベッドでダニに噛まれないためのトラベルシーツなど、日本で買うのが確実な商品を買い込んでいく。

ヘッドランプや充電池は、街灯のない僻地を歩く時にないとトイレにも行けない、なんてことにもなりかねないので2人分準備した。


共有できなかったり、気分的に共有するのが嫌なものについては可能な限り月見之介の分も前もって準備しておこうと思いながら色々と買い込んでいったのだが、そのうちに面倒くさくなり、速乾タオルと、普通の肌触りのいいタオルを2つずつ用意したところで、この他は荷物を持って移動する本人の選択に任せることにした。

もし月見之介がスーツケースを抱えてジャケパン姿で空港に現れたとしても、香港かバンコクでならバックパックや動きやすい服など、一通り必要なものが揃うだろう。


旅行保険については、期間が短い分保障の手厚い内容のクレジットカードの付帯保険をいくつか組み合わせて、長い期間を手厚く保障することにした。

自動付帯の保険と、利用付帯の保険と、そこからさらに保険期間を継ぎ足しをできる保険を組み合わせるのを言い訳に、年会費も買い物した利用額も本家持ちのクレジットカードを4枚作った。

これとは別に現金精算のため、外為法に引っ掛からない範囲で米ドルと日本円の現金を本家に用意させる。

海外のATMで利用が可能な銀行のATMカードを準備する際に、これも本家の名義で円と米ドルの口座を作らせて、毎月必要経費を振り込んでもらう。

実質、予算無制限の殿様旅行である。

これで大きなお子さまのお守りをする必要がなければ最高なのだが、世の中そう上手くはいかない。

どうせ、毎回タクシーで移動したがるだろうし、いいホテルに泊まりたがるだろう。

そういう意味では、クレジットカードも現金も銀行口座も、過剰な準備というわけではないのだが、金にものを言わせる旅をするのに、僕の中で個人的に釈然としないものがあった。



「東亀よ、おまえは本当に人としての器が小さいな。」


日中はあれこれと準備をするのに忙しくしている僕だったが、夜になると月見之介の晩酌に付き合わされた。

そこで準備の進捗報告もするのだが、そうすると大抵月見之介からありがたいお言葉を頂戴することになった。


「経費はしっかりかけないといい仕事はできんのだ。

そのくらい、いい加減わかっておけ。」


父親である本家の当主曰く、何一つまともにこなすことのできないと評されている月見之介が仕事のいい悪いを語るのは滑稽だった。

大学卒業後にまともに社会人をやっている比較的仲のいいゼミの同期が、仕事のできない社員は年を重ねれば重ねるほど、酒の席でさも自分は仕事ができるかのように振る舞うものだと話していたが、きっとこういうことなのだろう。


「節約しておくに越したことはないと思うんですが。

突然まとまったお金が要りようになるかもしれませんし。」

「その時は本家が何とかするから、分家のおまえはそんなこと気にせんでよいのだ。」


あまりにもバカげた言い分に、言い返す気にもならなかった。

この分だと、意外と本当に、飛行場にカジュアルエレガンスとかいう、形容矛盾でしかないドレスコードに則したコーディネートで来るのかもしれない。


「そんなことよりも、あれだ、東亀よ。

旅程はもう決めたのか?」


居酒屋のメニューにあった一番高い芋焼酎の水割りをちびちびやりながら聞く東亀に、僕はスマホのメモ帳機能を表示しているスクリーンを見せた。


<香港→中国→ベトナム→ラオス→タイ→カンボジア→インド→スリランカ→モルディブ→トルコ→チェコ→ドイツ→フランス→スペイン→モロッコ→エチオピア→ケニア→ナミビア→南アフリカ→アメリカ→メキシコ→キューバ→ブラジル→日本


1か国につき1カ月>


「日本を出て、2年間旅行するという前提で、適当に24の国と地域を選ばせてもらいました。

一応こういう計画にはしてありますが、途中で経路を変更することも十分にあり得ると思っています。

その辺りはその時の気分を大事にして、臨機応変にやっていければいいでしょう。

そうするための軍資金も潤沢にあると言えばありますし。」

「細かいことを言っていた割には金の使い方はわかっているようだな。」

「できる限り節約すべきだという思いは変わらないですけどね。

無駄な金を使うのはどうにも落ち着きません。」


月見之介は僕の言葉を鼻で笑い飛ばし、カウンターに並んで座る僕らの後ろを通り抜けようとした居酒屋の店員を呼び止める。

メニューの中の一番高い日本酒を冷で一合注文するのを見ていると、この男は無駄遣いをするために生まれてきたのかと錯覚しそうになった。


「ところで、月見之介さん、一点、確認しておきたいんですが。」

「なんだ? 聞いてやるから言ってみろ。」

「世界中のいい女と寝るというのが旅の目標ですよね?」

「正確には、『世界中のいい女とやりまくる』だ。」

「公共の場ですから、せめて下品な言葉遣いは避けましょう。

で、そう言う僕の話も酷く下世話で恐縮なんですが、女性のついてくれる夜の店に行くというのは、月見之介さんとしてはありですか? 

回答によっては、たとえばタイ国内での滞在先が多少変わってくるんですが。」


月見之介はまた鼻を鳴らしたが、今度の鼻息には笑い飛ばすというよりも不機嫌なニュアンスが多分に含まれていた。


「東亀よ、みくびるな。

俺は浮世月見之介だ。

女と遊ぶのにかかる金は惜しまないが、金で女と寝るほど落ちぶれちゃいない。」

「ちょっと、意味がわかりかねるんですが。」

「そのくらいわかっとけ。

いいか、金で女は買わん。

俺の沽券にかかわる。

肝に銘じておけ。」


夜の街の女性の人権を無視しているととらえられかねない物言いに眉を顰めるべきだったのだが、僕は思わず笑ってしまった。

これまで関係してきた女性たちの全員が、本家の資産目当ての夜のお店の方々か、その予備軍だった月見之介には、誰がどう考えてもそんなことを言えた道理がなかった。


でも、本当のところ、笑っている場合ではなかったのだ。

行く先々で、お金で話を通すことができない世界中の美女を相手に、英語もまともに話せない小太りの中年と寝てくれと説明して回らなければならなくなることに、僕はまだ気づいていなかった。

バカな親戚の沽券だけを気にしていればよかったこの時に戻れたら、全然違う行先の飛行機に間違ったフリをして1人で乗せて行方不明者の届を出すとか、もっと他にやりようがあったものなのだが。

次から第2章です。

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