#9 再びバラック地帯へ
一日はあっという間に過ぎた。宿に戻り昼食を取ってから部屋でゴロゴロしたりシトリの仕事を手伝ったりしていたらもう夕刻になった。そろそろ、出掛ける時間だ。
「気を付けてくださいね。
“裏”の試合が行われる場所はそんなに治安の良くないところが多いですし。一応、サックさんの近くに死体を配置しておきますけど、個々の戦闘能力はそんなに高くないので」
シトリは玄関先で俺に小さな酒瓶を渡してくれた。
「これ、どうぞ。いざという時に使ってください」
「ありがとう。恩に着るよ」
酒が入っていない時の俺に戦闘能力は無い。もし争い事が起こったとしても、どうすることもできない。まぁ試合を観戦にいくだけなのだから大丈夫だとは思うけど。
「夕食は作っておいた方がいいですか?」
「いや、いつ帰ってこられるかわからないし、無くていいよ」
「そうですか、わかりました」
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
互いに手を振り、俺は東通りを歩き始めた。マグナスの住居の場所は記憶していない。だが大丈夫、シトリが気を利かせて途中まで死体を操って道案内してくれている。俺は数メートル先を行く黒いローブ姿の死体を追いかけていけばいい。
もうぼちぼち商店も店仕舞いを始めている。町はゆっくりと、少しずつ、眠りにつこうとしているのだ。
人通りがまばらになった道を、死体を追って歩く。丁寧なガイドのおかげで俺はすんなりと、マグナス達の居場所へ辿り着けた。裏路地の奥深くに存在するバラック地帯。鼻を突く異臭は酷いもんだが、そこにいる者達が俺へと向ける視線の中に、敵意は感じられなかった。朝方とは大違いである。マグナスが俺は敵ではないと触れ回ってくれたのだろうか。
「よぉ、来たか」
家の外で、マグナスは地べたに座り込んで何やら作業中の様子だ。顔を上げて俺に声を掛けた後、すぐにまた手元へ視線を落とした。
まな板代わりの平たい石の上で野菜をすり潰しているようだ。小さな木製のすり棒で、ほうれん草みたいな野菜をすり潰してペースト状にしている。それを木のヘラで掬って、椀に移していた。
「すまねぇな、エリーの晩飯を用意していたところだ。もう終わるから、少し待っててくれねぇか」
「あぁ、全然かまわないよ」
俺に急ぐ用事は何もない。待つくらいはお安い御用だ。
「なぁなぁ、アンタ」
後ろから声をかけられた。振り返ると、今朝俺が倒したここの住人の一人が立っていた。鼻が赤黒く変色している。俺がジャブで殴ったところだ。
「今朝は本当に悪かったな、許してくれよな」
「あ、いや、突然やって来た俺の方にも非はあったと思うよ」
これは本心。多分ここの住人は日頃から蔑まれたり虐げられたりしているはずで、自分たちの身を守るため、よそ者を中に入れないようにしているのだろう。そこへ来て見ず知らずの俺が無遠慮に足を踏み入れて来たのだから、過激な反応を示すのも致し方ない。
と、ここまで思考したところで俺は、違和感を覚えた。んー、でもこいつら、俺を襲う時の段取りが妙に手慣れていた気がするんだよな。日常的に、ああいうことしているような。俺が考えているほど弱々しい連中じゃないのかもしれない。存外、強かに生きていたりして。
「しっかしアンタ、強ぇよなぁ。見た事もない動きだったよ。一体どんな格闘術を習っているんだい?」
「単なる我流だよ」
スキルで動きを察知したら、後は体が勝手に動く感じ。俺が音の情報から判断して、こう動くべきだなと考えたその通りに、肉体が働いてくれる。だからこれは我流だ。他の誰にも真似できない戦い方だ。
「俺もそうだがここにいる連中は剣闘士崩れだったり奴隷身分から逃げ出してきた奴ばっかりだ。それなりに腕っぷしも強い……いや、強かったというべきか。まぁ戦い慣れている奴が多いのさ。それをあそこまで容易くねじ伏せるなんて、アンタ只者じゃねぇよ。もし良かったら、アンタの格闘術を俺にも教えてくれねぇか?」
「って言われてもねぇ……。口で説明して出来るようなもんじゃないしなぁ」
前述の通り、これは他人には遂行不可能な戦い方である。教えることも出来ない。だが目の前の男はとても真剣な眼差しをしている。参ったなぁ。
「おい、その辺にしておきな。兄ちゃん困ってるじゃねぇか」
マグナスがここでうまいこと助け舟を出してくれた。俺の肩をポンと叩いて、
「さぁ、行こうじゃないか」
と言う。
「妹さんの面倒は誰か見てくれるのか? あの状態じゃ一人では食事も出来ないだろ」
「心配ない、ここいらじゃ皆、助け合って暮らしてる。そして今日からアンタも俺達の仲間だ。いつでも、ここへ寄ってくれたらいい」
「お……おう」
気さくな感じで言われても、全く嬉しくも有り難くもねぇ……。