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未来の自分の姿は

 負は椅子に座っている。ここで夜を過ごし、ここで朝を迎えた。全く寝心地の悪いベッドだった。元凶は笑う。秋子が用意しているのは、犬の餌、もとい、負の食事。母が子にするように、牛乳に浸るシリアルを匙で掬って口に運ぶ。

「はい、あーんして」

「冗談だろう」

「馬鹿ね、貴方は昨日から何も口にしていないでしょう。ちゃんと食べないとぶっ倒れるわよ」

「俺は恥ずかしいから止せと言っているんだ。縄を解け、自分で食べる」

「あら、それは無理よ。躾のなっていない犬を解き放つと思う? 責任ある飼い主のわたしが」

「正気かお前は。ならもういい、食わん」

「本当に? お腹ぺこぺこじゃないの」

「俺が? 無論――」くぅ、と負の胃袋が音を上げる。「胃に詰まった空気を消化中だから、平気だ」

秋子がくすりと笑う。

「ほら、あーん」

「止めろって!」

へそを曲げてそっぽを向く負。その様子に秋子はまた微笑む。

 卒然として負が(よじ)れる。電気の痛みが体を走り、束縛が動きを止める。大蛇に締め付けられたような想像が負に起き、その上で秋子を見れば、獲物を丸呑みにする蛇の威容を覚えなくもない。

「鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス、よ」

「鳴かぬなら、放してやれよ、宿世負、だ」

秋子が器に匙を入れる。そして突き出す匙のシリアルと、受け入れ難い負の口。しかし剣呑な目をする秋子に、痛みを思い返す負は、蛇に睨まれた蛙のようになる。半ば強引に匙を口に突っ込まれ、こうなってしまっては抵抗する意味もなく、大人しくシリアルを噛んで嚥下する。空いた腹に旨い。

 秋子が笑う。打って変わって天女のような、或いは無邪気に餌付けをする子のような笑みだ。秋子は楽しそうに給餌を繰り返す。

「おいしい? 負」

「答えたくない」

負に痛みが走る。

「おいしい」

「そう、良かった」

最後の一口を食べ終えて、器が空になる。秋子は小机にそれを置くと、負の目を見る。

「言う事があるでしょう」

「……ご馳走様でした」

「偉いっ、良く言えました」

秋子は負の頭を撫でる。それから背後に回って、縛めを解く。負は遮二無二、椅子を蹴んばかりの勢いで走り出したが直後、電気に体を仰け反らせて扉に衝突する。やれやれ、と秋子が肩を竦める。

「紐を放すと直ぐこれ。本当に犬ね」

「トイレに行かせろ、漏らすぞ」

 負は用を足しに出してもらえたが、直ぐに引き戻される。

「おい」と負。「いい加減にしておけよ」

「そんなにわたしの犬になるのは不満かしら」

「当たり前だ。そもそもお前、言っていたよな、俺の事を友達だって」

「ええ、言ったわよ」

「友達にこんな事をするのか。冗談きついぞ」

「馬鹿ね、犬と言えば人類の親友、それが飼い犬ともなれば家族の一員にだって数えられるのよ。貴方にぴったりじゃない、ね?」

嬉しそうな、小馬鹿にしたような、そんな目を秋子はする。秋子と言い合いをする気にならない負は、話題をずらす事にする。

「……俺の扱いについては思う所あるがともかく、一歩譲って、事の一件落着まではここに居るとしよう。だがそれもそれまでだ。事が済めば俺は帰るぞ」

「帰ってどうするの」

「俺の日常に戻る」

「でも、負……」

「何だよ」

「本当に戻れるの?」

「何で戻れない事がある」

「だって先生は亡くなって、筆学所も無くなったのよ」

言葉に詰まる。大切な人と所を失った、その事実を受け容れていなかった訳ではない。ただ、まだ、大切な所と人を失った、その人生を受け容れた訳でもなかった。だから負には、未来の自分というものが――仮令それが明日の事であるにしても――想像できず、或るはまた、今の自分に何か期待があるでもなし。案山子のように立ち尽くすより他がない。だが秋子に従えば、犬には成れる。案山子か、犬か、それが負に投げられた選択肢だ。

「ねえ、負、わたし、憶えているわよ」と秋子。「若し筆学所に通えなくなるような事があったらわたしの犬になる事も考えると、貴方は言っていたわ。今がその時ではないの? それに先生だって、貴方に何か言っていたのでしょう」

負は思い返す。先生は負に行動しろと言っていた。ならば案山子よりは犬の方が良い、という判断が負の脳裡で下る。

「ね、負」

秋子が負の手を握る。その手を己の柔らかな懐へ寄せる。憂慮の籠もる視線が負の視線と絡まる。負は手の感触を見る。優しく包むように負の手を握る秋子の手と、その手首に嵌まる赤い腕輪。

「考えさせてくれ」と負。「時間をくれ」

「いいわよ。それじゃあ、この一件が終わったら、答えを出してね。それまでは、この家に居て」

「ああ、そうしよう」

 秋子は負の手を離す。それから黒の腕輪を取り出して、負に手渡す。

「はい、これ。貴方の腕輪よ。蜂須賀に連絡を入れておいたから、友人たちへの連絡は不要と思うわ」

「そうか」

「それじゃあね。わたしはこれから出仕するから、大人しくしていなさいな。見張りに帯刀を付けておくわ」

そう言って部屋を出ようとする秋子。負が呼び止める。

「一つ訊いておきたい」

「何かしら」

「この家にプールがあったろう、泳いでもいいか」

「好きになさい」

秋子は颯爽とした背中を負に見せた。

 物置部屋から出た秋子を帯刀は横目に見留める。秋子は帯刀を見返すと、表情から悪童の色が抜けて麗人の色が差す。扉を閉める音が場の空気を一変させる合図のようだ。

「言わせてもらいますがね、蒸発させた方が賢い」

「負は役に立つのよ」

「だが所詮は黒だ。高は知れているし、あまり入れ込むと品位を疑われますよ」

「入れ込んでいるように見えたのなら、わたしも大したものね」

秋子は腕輪を弄る。

「もしもし、令奈、秋子よ。車の準備をして。行く先は情報統制局よ」

通信を切る。

「では宜しく頼んだわよ帯刀。負に怪我させないでね」

秋子は空の器を帯刀に渡し、その場から立ち去る。出ていく秋子を見送って、物置部屋に入る帯刀。器を持つ帯刀の姿を目にした負が「あ、巡礼ご苦労さん。ちょっと待ってね、小銭が確かこの辺に……」

帯刀は深く溜め息を吐く。

「蒸発したくなくば茶番を止めろ」

「……仕方ないな。ところで、水着を貸してくれないか」

「何の為に」

「プールに入るんだよ。了承は得てあるからな」

「手を出せ」

「え」

「手を差し出せ。早くしろ」

差し出した負の両手に、手錠が掛けられる。手錠に付いた紐を帯刀が引く。

「付いてこい、案内してやる」

廊下に出た帯刀は負を引っ張りながら、その途次で通りすがりの使用人に空の器を渡す。

「なあ」と負。「これが案内か。これは連行だ」

「何をくすねんとも限らんからな。ほら、お望みの場所だ」

行き当たった扉を、帯刀が開けた。

 警察署は地面に根を下ろして背は低く、周囲に巡らせた外壁の作る景観は、古代のポリスや中世都市などを思わせる。灰被りは中空に浮かんで、この地面の建築を眺めている。こうしているのは「ユートピア」からの指示を待っている為で、目的は私柳の抹殺にある。元より「ユートピア」からの指令を達する事が目的の灰被りにとって、私柳の逮捕なぞはそれ自体で何の利益にもならない。負の作戦に乗ったのは、その方が確実に黄の権限を入手できそうであったから、そして逮捕され腕輪を没収された私柳なら、光線銃で応じる事も、「守護者」で抗する事もないと踏んだからに他ならない。手間なのは、警察署へ侵入し、留置場の私柳に到達する事だが、「ユートピア」の指示に従えば難はないのが通例だ。その為に今こうして「ユートピア」からの指示を待っている。

 灰被りは腕輪を確認する。「ユートピア」からの指示はまだ下りない。指示が下る時間には毎度、多少の差異はあれど、ここまで遅れるのは珍しい事だった。そして、漸く届いた指示の内容に、灰被りは刮目する。


〈 ユートピアだより 〉

▼黒市民 灰被り へ

▼「任務番号99」の達成を確認しました


 これがどういう事なのか、灰被りには全貌が分からない。留置場で私柳が死んだとでも言うのだろうか、可能性がないではないが、きっと違うだろうと思う。ただ分かるのは、灰被りは私柳を殺しに行かなくても構わないという事、何も燃やさずに済むという事。何かの――恐らく――証拠隠滅の為の焼却を命じられた以外で、誰かを害さずに、誰も傷付けずに終わった事は、これが初めてだった。

 不意に込み上げてきた、嬉しさとよく似た安心感に、灰被りの表情が和らぐ。この幸運を回想して、負の事が思い浮かぶ。灰被りは負の事を、先生の教え子であるという以外には、妙な奴という印象しか持っていないが、しかしこの幸運は、間違いなく負の存在なくしては有り得なかった。だから、灰被りには負の事が思い浮かんだ。

 一頻り喜びを堪能した後、灰被りは転身する。次なる目的地は、情報統制局。疑問の解決をする時が来た。灰被りは先生からのメールを開き、添付画像を見る。「紛紜処理係」の名簿、その真贋を希求する灰被りの表情は、再び険しいものに変じていた。


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