煙と炎
私柳は一人、メールにあった地図で示される場所へ着く。それは再開発予定地にある、閑散としたビルだ。摩天楼が林立する世界にあっては背の低い建物だが、人間が追い駆けっこをやる分には、十二分な広さと構造を持っているだろう事を、私柳は直観する。ここに来て、罠の可能性に思い至る。私柳は光線銃を握る。「守護者」も予め起動しておく。それは防御のための準備というよりも、出会い頭に敵を攻撃するための用意だった。
私柳はビルに立ち入る。腕輪の照明を点ける。ビル内部には意外にも、種々雑多な資材が置かれている。どうやら、最近まで浮浪者が多数、住み付いていたらしい。汚れ散らかった空間は、人が隠れるにも都合が良さそうで、罠への警戒心が高まる。私柳は一階を見て回るが、小汚く散らかり放題の場景が広がるばかりで人の気配はない。階段を見付けて、二階へ上がる。廊下から各部屋を覗けば、何処にも堆く荷物が積み重なっており、善かれ悪しかれ身を隠す場所が多い。粗方、階を探し終えると、次の上階へ往く。それを繰り返し、終には最上階へ赴く。
階段を上り切った所で、階の奥から「誰だ?」と声がする。静謐の中で、何気なくもあるその声は、木霊するようにも聞こえる。
「私柳景だな」
声は廊下の最奥から聞こえてくる。負の声だ。半ば予想していた事に、私柳は呆れ笑う。隠密を止めて、堂々と階を過ぎっていく。
「図に当たったり、してやったり、と言った所か。出てこい。姑息な待ち伏せを叩きのめしてやる」
私柳の接近に、負は腕輪の通信機能を使う。
「始めてくれ」
それだけ言って通信を切る。負は身を翻して、背後の、綱の貫く竪穴のような空間へ飛び込む。この建物の構造は、階段が端にあり、そこから一本の廊下が全ての部屋に面している。廊下の突き当りにはエレベーターがあるけれども、今は言うまでもなく使えない。だがエレベーターの構成物は残存しており、負が飛び込んだ空間は、エレベーター用の昇降路だ。そして負はエレベーターのワイヤーロープに摑まって、滑り落ちていく。手には予め布を巻いておいたので、擦り剥いたりはしない。そして一階に位置するエレベーター籠の天井に着地する。二階部への戸は開けてあり、負はそのまま二階の廊下に入る。隅に置いておいた防塵防毒マスク一体型ヘルメットを被る。
最上階の私柳は昇降路を覗き込む。その時、負は既に二階へ踊り込む所だ。
「ターザンみたいな野郎だ」
私柳は昇降路に飛び込む。足元で「守護者」の液体金属が広がって、私柳の足を受け止めて、四方の壁を引っ掻きながら落下する。減速には十分。私柳がエレベーター籠の天井に接した時、廊下の奥に負の後ろ姿が見えて、すかさず私柳は光線銃を撃ち込む。空間を線条に掘削していくような、鋭い黄の光が、負の背中に的中する。が、その威力は負の腕輪に吸収される。事態を完全に理解はしない私柳だが、事態を従容として受け入れて、舌打ちながらも負を追う。
負の腕に嵌まっている輪は黄色。帯刀から借り受けた物だった。
私柳が階段に差し掛かる。異状に気付く。階下から煙が濛々と立ち上っている。思わず立ち竦んでしまう。偶然か必然かの問いが脳裡に湧いて、必然であるのは自明だと判ずる。つまりは、これが罠の正体なのだ。焼き殺すか、煙に巻いて窒息させる算段か、いずれにせよ、ここで負と鬼ごっこを繰り広げれば思う壺に嵌まる。私柳は近くの窓へ走って、そこからの脱出を試みる。だが、窓からの脱出は失敗する。不透明の障壁が窓を塞いでいたのだ。これは、帯刀の「守護者」によるもの。ならばと、私柳は各階の非常口を当たっていく。何処にも障壁がある。最上階へ駆け上がり、屋上に通じるだろう扉を調べる。しかしここも障壁で塞がれている。
私柳に残された道は、負を捕らえて、その脱出の手筈を聞き出す事だ。或いは既に脱出しているかも知れないと思えば、焦りも生じる。
「出てこい、宿世負」
怒号は階に響く。廊下から部屋に入って、光線銃を乱射する。しかし負は現れない。そうやって進みながら、廊下の奥、昇降路を覗く。既に煙は二階部に充満しており、私柳のいる最上階まで煙が充満するのもそう遠くない事に思える。仮に負がまだこのビル内に居るのなら、煙に耐えかね、いずれは最上階まで上がってくるに違いないと、私柳は考える。そこで、「守護者」の液体金属で壁を形成して昇降路を塞ぎ、階段の見える位置に陣取って、負を待ち伏せる事にする。
次第に煙は体積を増していき、階段から立ち上ってくる黒煙で最上階も視界が悪くなる。私柳は床にうつ伏せとなり、口にはハンカチを当ててはいるが、心なし息苦しい。それでも負を待ち続けるが、現れない。やがて私柳は気を失ってしまう。
最上階から一つ下の階。そこの昇降路から顔を出す負。上方を覗いている。昇降路を塞いでいた「守護者」が形を崩して、ぼたぼたと滴っている。その状態に、「守護者」から私柳の制御が失われた事を負は察知する。そこで上階へ赴く。私柳が倒れているのを認める。腕輪で外に通信する。
「俺だ。終わったぞ」
負は私柳から腕輪を取ると、担ぎ上げて、最上階の扉へ向かう。扉の障壁は消え失せている。扉を開けて屋上に出る。
周囲の景色は黒煙に彩られている。遠くから消防車の号笛が聴こえてくる。黒煙の隙間から、「浮行装置」で飛んで来た灰被りが屋上に降り立つ。
「宜しく頼む」
負が言う。灰被りが手を翳すと、灰被りの背後に浮かんでいた雫形の機器が私柳の周りに移動する。そして私柳を浮かせ、そのまま地上へと安全に下ろす。同じようにして負が無事、地面へ下ろされ、灰被りもまた降りた。負は自分のマスクを取り外す。
私柳を再び担いで、負は灰被りとここから離れた路地へ移動する。そこには帯刀がいて、丁度、「焚書官」の人員を縛り上げている所だった。
「こっちは済んだ」と負。「そいつらは?」
「建物の周りに居た黒市民だ。『焚書官』とかいう連中なのが分かったので捕まえておいた」
「光線銃をぶっ放したりしていないだろうな」
「当ててはいない」
「あんたが射撃下手で良かった」
「そのうち外した弾が貴様に当たるからな」
負は私柳を下ろす。「焚書官」たちが声を漏らす。帯刀が私柳を検分する。
「まだ生きているようだが」
「当然だろう」
「何か聞き出したい事でもあったのか」
「いいや、何もない」
帯刀は用意していた結束帯を使って、私柳を縛る。
「なら何故こんな手間の掛かる事をした。この作戦なら貴様が囮になる必要もなかった筈だ」
「いいや、俺が建物の中に居なかったら、この男を回収できないだろう。そうなれば、こいつは死んでいた」
「貴様の恩師を殺した男だぞ」
「ああ、そんな事は分かっている。だがそれとこれとは話が別だ」
帯刀は私柳を縛り終えて、負を見る。帯刀の顔色には、奇妙な物象に面したような、怪訝なものが拭えない。親同然の恩師を殺し、また自らの命をも狙ってきた男を、命懸けで守ろうとする目の前の青年……。そうやって、改めて負に関する情報を整理すると、帯刀の中で不思議な感じが強まる。今まで意識もしていなかった帯刀の人間観が、揺り動かされる。負には何か裏があるのではないかとも思う。だが今の所、負の正体を突き止める手段も、己の認識を突き詰めてみる時間もない。
負の服の裾を、灰被りが引っ張る。負が振り向く。灰被りの瞳に驚きと期待が入り混じっている。
「恩師が殺されたのか」
流石に負の顔も曇る。
「ああ」
「それは先生の事か」
「ああ」
「本当にその男がやったのか」
「間違いない」
「そうか……」
灰被りの思考は、事情を理解しようと、乱雑に記憶と推理を織り交ぜていく。それに縫い合わされる、不謹慎な喜び。先生が死んだ事は悲しむべきでも、手を下したのが自分ではなかったと、そんな事、何の意味もないと分かっているのに、殺意の実際も、罪過も、何も消える訳ではないと分かっているのに、安心してしまう。
負はそんな灰被りを見詰めている。
「君は……」
負の呼び掛けに、はっと我に返る灰被り。
「何だ」
「いや、その……」負は視線を泳がせる。そして思い付いたように言う。「甘い物とか好き?」
「は?」
「俺の友達にパンケーキを焼くのが好きな奴が居てさ、いや、正確には蜂蜜を使うのが好きな奴なんだが……、ともかく、今度よかったら食べに来ないか。味は保証する」
「いや、行かない」
「うん、そうだよね、ごめんね」
帯刀が横から二人の間に入り、負に黒の腕輪を押し付けると、そのまま過ぎ行く。
「下らない話は後にしろ。直に警察が来る。鉢合わせたら色々と面倒だ」
歩み去る帯刀に灰被りが続く。負は渡された腕輪が、自分の物である事を確かめると、二人の後を追った。




