第1話 リオティス①
不穏な場所だった。
薄暗く、寒く、日の光すらも届かない。
まるで深淵を思わせるような洞窟の中、ひとりの少年が目を覚ました。
闇に浮かぶ真っ白な髪。やや低めの背丈。少しだけ垂れた目つき。そんな特徴を持つ少年は、中性的な顔立ちも相まって少女のようにも見えた。
少年は軽く辺りを見渡した後、自身を取り囲む異様な空間には驚きもせずにゆっくりと立ち上がる。
(夢⋯⋯か。あれは確か昔の——)
夢の内容を思い出していると、突如として少年の背中に激痛が走った。
「⋯⋯っ」
痛みを感じながら、背後からの衝撃に耐えられずに少年は地面に倒れてしまう。
「よぉ、やっとお目覚めかよ。リオティス」
「⋯⋯ライラック」
白髪の少年リオティスは、自身が蹴り倒されたことを瞬時に理解し、大きく溜息をついた。
その様子を気に食わないといったようにライラックは睨みつけると、倒れたリオティスの胸倉を掴んで無理やりに立たせた。
「団長と呼べって何回言ったらわかるんだ? なぁ、無能野郎」
「俺の団長はひとりだけだ」
「コイツ⋯⋯!」
ライラックの目じりが吊り上がる。
これはまた碌な目には合わないな。
と、リオティスは自身の発言を後悔したが既に遅く、次の瞬間には頬に鋭い痛みが突き抜けていた。
目まぐるしく回る景色。
再び地面に倒れこんだリオティスは起き上がる気力もなく、ゴツゴツとした岩肌を背中で感じることしかできなかった。
(また今日が始まったな)
蹴られた背中と、殴られた頬の痛みをヒシヒシと感じながら、リオティスはそう思った。
何とか上半身を起こし、座ったままの状態でライラックの方を見る。
長身でひょろりとした細見の体形。青色の髪と瞳。一見してどこにでもいるようなパッとしない印象だが、その内側にどす黒い闇が隠れていることをリオティスは知っていた。
未だ怒りを鎮めることなく鋭い眼光を向けるライラックに、どうしたものかと頭を悩ますリオティスであったが、幸か不幸かひとりの男が割って入ってきた。
「オイオイ、あんまやり過ぎるなよ団長」
「何だよダニアス。まさかこの無能に肩入れすんのか?」
「肩入れも何も、俺たちは同じギルドの仲間だろ。そうだよな、リオティス?」
ダニアスはそう言うと、リオティスに向かって手を伸ばした。
「ほら、手を取れよ。仲間だろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
リオティスは暫し無言でダニアスの差し出した手を見つめた。
岩のように大きく漢らしい手。さらにその手に見合ったガタイの良さ。広い肩幅に磨き抜かれた筋肉が全身を覆っている。まさに巨漢。ライラックとはあまりにも対照的なこの男こそが、その彼の右腕と呼ばれている存在だった。
そんなダニアスが差し出した手。
そこには悪意しか込められていないことぐらいリオティスにも理解できていた。理解できていたが、この状況では掴む他に道もなかった。
否応なしに掴まされた手。その瞬間、ダニアスはリオティスの腹部を拳で思いっきりに殴った。
手を握られているため今度は地面に倒れることはなかったが、その衝撃は凄まじく、確実に胃へと伝わっていた。腹部への痛みと、突然の衝撃によって胃の中が暴れまわり、逃げ場を求めるようにして胃にあった物が口から吹き出される。
「はっ、マジで取りやがったぜ。お前と俺たちが仲間なわけねェだろ。バカだなこいつ」
「ぶははは!! マジで傑作だよダニアス! あんまりやり過ぎるな、とかどの口が言うんだよ」
「あんまり団長がやり過ぎると俺の分がなくなるだろ?」
「それもそうか!」
リオティスのことなど露知らず、ゲラゲラと二人の汚い笑い声が辺りに響く。
(このクソ野郎ども)
その言葉は口から出ることはなく、ただリオティスは悶え苦しむことしかできなかった。
どうしてこうなったのか。
その理由をリオティスは知っていた。
それは自分が弱いから。無能だから。
蹴られ、殴られ、ゲロを吐かされても何もできない自分のせい。全ては力が無いからだ。
だが、彼らは違う。
ライラックとダニアスにはこの世界に抗えるだけの力がある。その差が今の状況を生み出していた。
「ったく、こんなメスみてェな顔した雑魚がどうして俺たちのギルドにいるんだかな」
「俺の方を見るなよダニアス。これも全部あのクソ親父のせいだろが」
「それもそうだが、やっぱりムカつくぜ。もう一発殴っとくか」
未だまともに動けないリオティスに対して、ダニアスは不敵な笑みを浮かべて見下ろす。
せめてもの抵抗か、リオティスは涙を溜めた目で懸命にダニアスを睨むが、それは全くの無意味どころか逆効果だった。
「はっ、そそる表情しやがって。テメェは無能なりにそうやってメス顔して殴られときゃいいんだよ!!」
振り上げられる拳。
その強大な力を止める術をリオティスは持ってはいない。そのことを痛いほど理解している彼には、諦めて耐えることしかできない。
リオティスが次の瞬間には訪れるであろう痛みに目を背けた時、静かな怒りを含んだ声が迷宮に響いた。
「⋯⋯何するつもりなのかな? 私の仲間に」
「テメェ、リラ!」
突如として現れた少女を前に、ダニアスは振り上げた拳を止めて怒号を上げる。いつの間にか彼の首元には一刀の短剣が向けられており、それを握るリラの手には確かな殺意が込められていた。
「ちょっと目を離したらすぐ暴力。言ってるよね、リオティスに手を出したら容赦しないって」
「ぐっ、テメェ、調子に乗るなよ!」
「それはこっちのセリフ。それとも何、試してみる? どっちの方が上か。私は構わないよ」
リラの挑発的な態度に、ダニアスは何も言い返すことができない。
ダニアスの力は見た目にも表れている通りで、そこらの成人男性が束になってもまず勝てないだろう。
だが、ダニアスは目の前の小さな少女に明らかな怯えを持っていた。いくら首元に刃物を突き付けられていようが、本来ならば意に介さずにその力を振るうはずなのに、指一本すら安易に動かすことができなかった。
「クソがッ」
仕方なくダニアスは振り上げていた拳を下ろし、悔しそうにリオティスから距離を取った。
だが、リラの気はまだ済んではいない。
彼女は透かさずにライラックの元へと歩み寄った。
「どういうこと団長。ここは迷宮だよ? 勝手のいい遊び場じゃない」
「いいだろちょっとぐらい。息抜きも大事さ。それにここは難易度一の迷宮。問題ないだろ」
「そういうことじゃない! 団長としての立場を話してるの!」
さらに一歩前へとリラが足を踏み出す。
と、同時にライラックは不機嫌な素振りを隠すことも無く舌打ちをした。
「⋯⋯ッチ、相変らずうるせェな。そもそもあの無能が悪いだろ。能力を持っていないうえに〝記憶無し〟の雑魚なんだぜ? それを団長としてギルドに置いてやっている俺の身にもなれよ」
「リオティスは無能なんかじゃない。戦闘は無理でも、それ以外の面で私たちのギルド〈花の楽園〉を支えてくれてる。それぐらいわかってるでしょ? お兄ちゃん」
リラの青い髪と瞳が静かに揺れる。
先ほどまでの怒りとは裏腹に、その時の彼女はまるで赤子を宥める母親にも似た優しさを含んでいた。
「だからもうこんなことをリオティスにするのはやめて!」
「黙れ!! どいつもこいつも俺のことを団長と呼ばねェで、何様のつもりだ! 俺は団長だ。このギルドを治めているんだ! そんな俺に逆らうのか? この世界で一番の力を持った俺に!」
ライラックは怒りに任せるように、自身の右手の甲をリラに見せつけた。そこに描かれていたのは黒く禍々しい異質な紋章。それこそが彼の力の証明だった。
その証拠にあのダニアスでさえ手も足も出せなかったリラが、紋章を目の当たりにした途端に動けなくなってしまっている。
何も言えず、ただ見つめるだけ。そんな彼女の表情からは何も読み取ることができないが、ライラックは自身の優位性を取り戻したようで、ふんっ、と鼻を鳴らすと、ダニアスと共に洞窟の奥へと歩き出した。
残されたのはリオティスとリラの二人。
そして、嵐が過ぎ去ったかのような嫌な静けさのみだった。