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緩やかな上り坂の先に、それはあった。
いや……いまなおある、というべきなのだろうか。閑散として、どこかそれは乾いた風を運んできて、その隙間から痛みや哀しみが見えた気がする。
かつては美しい装飾であっただろうそれらは、ただの廃墟に成り果てていた。無造作に生えた草木がそれを必死に覆い隠そうとしているかのようにひたすら伸びきって、南国の気候が手伝っていまやカディールの背丈より高いものもある。
エリシャ王国の建物はほとんどが木で作られているが、城などの大きなものには一部で石垣などが作られている。メルフィ離宮は、石造りの部分はかろうじて原型がわかる程度に残されているが、ところどころが割れて落ちている。壁や天井は木材が多く使われているため、すでに朽ち果てている箇所も多いようで、穴が開いているのが少し離れたところからでもわかった。
入口の門は石と木でできていたようだが、すでに徹底的に破壊され、瓦礫でしかなかった。
これだけでは、ここに何があったのか、ユティアには想像もできなかった。ただ、草木にすでに埋もれてしまった門の瓦礫は多く、きっと大きな門があったのだろうと思う。
その先には広い空間が広がっている。雑草のせいで今ではただの野原にも見えてしまうかもしれないが、水路のくぼみや花壇の形がかろうじてわかる庭園だった。
かつてはきっと、豊かな国だったのだろう。エヴァン王国で見たクラウド家本邸をも上回るであろう広さがそこに横たわっていた。
カディールは門の瓦礫の前でしばらく立ち止まっていた、何も言わなかった。彼の眼には、あのころの荘厳な離宮が見えているのかもしれない。
適当な木に馬を繋いで、ようやく足を一歩動かした。瓦礫の上にゆっくりと乗り、それを超える。シオンを振り返ると、彼らは互いにひとつうなずいた。
庭園の中を一人歩いていくカディールの背中は、伸びた草木の間に消えようとしていた。
「……あ」
いっしょに行きたい、と声をかけたかった。だが、かけられなかった。ふと見えたカディールの横顔から、いっさいの表情が消えていたから。---辛い、だなんて、いまのユティアに言う資格はないのに。
「追いかけるなら今のうちですよ」
「え?」
「どんどんカディールは行ってしまうから」
「でも、わたし……」
カディールの横に並んでも、ユティアは彼と同じものを見ることはできないのだ。
「いっしょにいっても……いいのかな……」
「ユティアの住んでいた離宮なのでしょう。だったらカディールに遠慮する必要なんてありませんよ」
半分冗談のような口調だったから、ユティアも少し気が軽くなった。カディールと同じものが見えなくても、ユティアなりに見えるものを探せばいいのだと言われた気がした。
「―――うん」
ユティアはうなずいて、カディールの後を追った。本当は彼と同じものを見てみたい。けれど、それは今でなくても、いつか来る日でもいい。
南国の雑草は成長が早いから、ユティアの視界を容易に隠してしまい、カディールの姿はすぐに見失ってしまいそうだった。だが、しばらく行くとまるで待っていたかのように、彼は立ち止っていた。
足元に視線を落としていたが、そこはほかと変わらず雑草が生えているだけの場所に見えた。
「……ここは池だったんだ。魚を放してあった」
「池……」
たしかによく見れば、広い範囲で石が整然と置かれ、その中が少し窪んでいる。
「湧水を下から引いてたって聞いた。それが庭園中の水路に流れてた。嫌になるくらい綺麗に整ってて、俺はいたずらしたくて池の石をひとつ取ったんだよな」
母から聞いた物語を思い出す。
兄と友達と、池のそばで遊んだと言う話はたしかにあった。
「わたしが……落ちそうになって……代わりに……」
それを助けて、代わりにカディールが落ちた。そんなことを自然に口に出したら、カディールが驚いたように顔を上げて振り向いた。
「覚えてんのか?」
そう言われて、この記憶は物語を聞いたときのものだから、覚えているのとは少し違う気がして頷けなかった。
「石がなかったから、水があふれてきてて滑りやすくなっててさ。そんであんたが落ちそうになったから、俺のせいなんだ」
「でもカディが、落ちたんでしょ」
「そ、自業自得ってやつ。やっぱ悪いことはしちゃいけねーんだなってそんときわかった」
カディールは笑う。けれど、いつもとは違う表情で。
「ここは広い庭で。手入れされてたのにな……。クレイは、庭師と一緒になって花を植えるのが好きだったから」
カディールの目には、兄の姿が見えているのかもしれない。今はない、離宮の建物だけではなく、ともに過ごした煌めくような日々のすべてが。
ふとユティアが見上げたカディールのまなざしが、今ではない場所を、そして見えないはずの『時』を視ようとしているような気がしたから。
『私は王子でなかったら庭師に向いていただろうな』
『はあ? お前が庭師? じゃあおれはどうしたらいいんだよ』
『そうだね、庭師の護衛かな。いや、君も一緒に庭師になればいい』
『おれがかー?』
『……うーん、でもカディには向いていないよね。昨日植えた苗がほら、もう倒れてしまっているんだから』
『俺はいらないものを斬ることしかできねーんだ』
『そんなことないよ。……これから覚えていけば、できるよ』
声も口調も……鮮やかに思い出せる……それが幸せなことかはともかくとして。
カディールはそのまま、雑草を踏みながら奥に進んだ。ユティアも慌てて後を追うと、カディールはユティアが歩きやすいようにとくに背が高くなった雑草をナイフで切りながら進んでいた。
建物は白い石と白木が組み合わされて作られている。ほとんどが平屋か二階建てで、エヴァン王国の城のように高くはない。ある一点の塔を除いては。
「民はここを雪花の城と呼んでた。ホントはもっと、白かったんだ。エリシャのほとんどの民は雪なんて見たことない。だからこの城だけが、民の知る雪だった」
手入れされず灰色の影が落ちるその『雪』は、今は重く佇んでいた。
カディールは歩きながら、ここには何があっただとかクレイとどんなことをしただとか、ユティアとどんな話をしただとか、思い出せる限りのことをすべてユティアに話して聞かせてくれた。そのどれもがユティアには新鮮だった。おそらく母も知らない出来事で、カディールだけが知る、この城でのクレイとユティアの姿だった。
リディアーナ姫として生きたころの。
だが、カディールにもユティアと接した記憶はあまり多くはなく、彼の話題のほとんどはクレイに関することだった。それは、王と騎士というよりもどこにでもあるような友人同士の関係のように聞こえた。といっても、ユティアにはまともな友人関係を築けたことはなく、唯一それに近いのがリトルセであったのだが。
カディールの話は飽きることがなく、気づいたときには庭を縦断し終わって、ユティアの眼前にその『雪花』と呼ばれた城がそびえたっていた。
木で作られていたであろう入り口はすでに焼かれたような跡しかなく、誰もが簡単に侵入できてしまう。そんな状態であっても、カディールは躊躇を少なくともユティアには見せることなく、中に足を踏み入れた。
なんとなく薄暗い城内を想像していたユティアだったが、開放的な空間は外とそれほど変わらない。一部の屋根が落ちてしまって光が容易に入り込んでいるからというのもあるが、エリシャの建物の構造ではもともと柱や壁が少ないからというのもあるだろう。
「昔と同じじゃないってちゃんとわかってたつもりだったけどな。やっぱ実際見ちまうといい気分じゃねえよな」
最悪の事態を無理やりに想像して覚悟しておいても、現実はそれよりもずっと過酷だ。想像できてしまうのであればそれは耐えられるということだ。そして、どこかでまだ期待していたわずかな希望が脳裡をよぎるのに、現実はそれすら崩す。
昔の美しい思い出のまま、再びカディールの前に現れてくれるかもしれないという、都合のいい夢を。
もともと離宮の中ではさほど有名ではない第三離宮がどうなったのか、国を出てしまったカディールがその情報を得られる機会はなかった。アインズに言われるまでもなく、ここがかつてと同じまま留めることはできないかもしれないと割り切っていたつもりだった。
クレイに言われるまで忘れていたはずの第三離宮。だが、場内に入ってしまえば、不思議とどこに何があったのか、手に取るように思い出す。
カディールは迷わずに左手の大きな階段を上っていった。ここもかなり崩れてはいたが、まだ階段として使用可能だった。ユティアは何も言わずにカディールを追った。もとは絨毯か壁掛けだったのか、焼け焦げた布の一部が落ちていたり、花瓶かなにかの器の残骸が散乱していたりした。
二階の回廊を奥へと進む。
そこにも生活の欠片が落ちていて、たしかにここでは誰かが生きていたのだろうという面影があった。それらは、破れた洋服だったり、スプーンだったり、書簡の一部だったりした。だが、アインズが言うようなことがあったのは事実なのだろう、金目のものはもう何もなかった。何一つ。
「ユティア、ここだ」
カディールは回廊の先のバルコニーに出て、ユティアを呼んだ。何か自分の知っているものはないかときょろきょろしていたユティアは、少し小走りになって彼のそばに寄った。
「よかった。あれは、昔とかわってねーから」
カディールの視線の先を、ユティアも追いかける。
バルコニーから眼下に見えたのは、乳白色のあまり大きくはない湖だった。
「あの湖の向こうが、王都なんだ」
湖の向こう側にも小高い山があるせいで、ここから王都らしきものは何も見えない。だが、山の中腹あたりから、おそらくこの村よりも多いであろう家が点在しているのはわかった。
「第三離宮まで来れないときは、俺とクレイでよく湖まで行ってこの城を見上げたよ。空の青と山の緑の中にあるこの城を見るのが、クレイは好きだった。でもそれは、あんたがいるからだったのかもな」
愛されていた、その証。
カディールはユティアに伝えようとしてくれている。
会えなくても遠くても、ユティアを思ってくれていたひとがたしかにいたことを。
「―――わたし、も? 行ったこと、ある?」
「湖にか? 一度だけ、連れていったことがある」
カディールはユティアを振り返った。
「でもそのあとすんげー乳母とかに怒られてさ、勝手に遠くまで行くとは何事ですかって。だからもう二度としないって誓わされたんだよな。---だから一回だけだ」
カディールはバルコニーから離宮を見上げた。つられてユティアもそちらを見ると、そこには城の上に建つ塔が見えた。あまりにも高いせいだろうか、ほかの壁と比べてその塔だけはいまだ白く、ほとんど傷もなく美しく見えた。
「あの塔へ登れば王都は見える」
だが、カディールにそこへ行くつもりがないのはユティアにもわかった。
「俺はあんときの誓いをやぶって、ユティアをあの湖へ……その先へ連れてくから」
そのときまで王都は見ない。
ユティアも、カディールも。