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爽やかな風の中を、黒馬は軽快に走っていた。
先日皇帝と約束したとおり、二人で皇弟夫妻の墓参りに向かっているところだ。
流れるように過ぎ去る景色に、馬上の梨香は胸を弾ませていた。
「そのように身を乗り出すな。落ちるぞ」
背後から声が聞こえ、腰に回された逞しい腕にぐっと力が入った。その拍子に、梨香の体は後ろへと引っ張られ、男の広い胸に抱きかかえられる。
「もっ、申し訳ありません」
梨香は恥ずかしさで顔を赤らめ、キュッと鞍の前橋を掴んだ。
「……そなたは、相変わらず……」
背後からフッと笑いを漏らすような息遣いが聞こえた。
「こんなことで謝らなくていい。そんなに景色が珍しかったのか?」
後ろの男、皇帝が訊ねてくる。梨香は、はいと頷いていた。
「こうして後宮の外が見られるのは、本当に久しぶりのことですから」
「……ああ、そうだったな」
バツが悪そうに言葉を切らせた皇帝に、梨香は笑いかけた。
「それに、馬に乗るのがこんなに気持ちのいいことだとは思ってもみませんでした。春のこの柔らかな風を頬に受けるだけで、こんなにも心が浮き立って。不思議ですね。どうして以前乗った時に、あんなに怖がってしまったのかしら」
「慣れないうちは、落馬するかもしれないと恐れる気持ちも起きるだろう。だが、一度この楽しさを知ってしまったら、きっともうやめられないんだろうな」
皇帝の呟くような言葉に、梨香は心が温かくなった。彼にも楽しいと思えることがあるということが、何故だかひどく嬉しい。そして、それを自分に教えてくれることが、もっと嬉しかった。
玉兎馬は快調に飛ばし、一時ほどで都の西の山裾にたどり着いた。
馬を下りると、皇帝は前回の時と同様に先に立って歩き始めた。けれど、彼はその際に梨香の手をとり、ゆっくりとした歩調を心がけてくれた。
梨香は自分の頬が緩むのを感じていた。皇帝のちょっとした心遣いが嬉しくてたまらない。今日は嬉しいことばかりだ。それに、繋いだ武骨な手から感じる彼の体温が、妙にこそばゆい。
思わずクスリと笑う梨香を、皇帝はじっと見つめてきた。墓参りに行くというのに笑うのは不謹慎だったと、その視線を受けた梨香は真面目な顔に戻る。
皇帝は再び前を向き、歩き出した。
梨香はふとその背中を見つめる。質素な濃紺の庶民の服を着た皇帝は、はたから見れば皇帝だとはばれないだろう。だが、今日はそれだけでなく、彼がいつも纏っている皇帝の覇気が無くて、心なしか気安い雰囲気があるのだ。
少しは、気を許していただけたのだろうか。そう考えると心がほっこりとする。
ゆっくりと登ってきたためか、墓に到着するのに時間がかかってしまったが、それでも今度は気分が悪くなるようなことは無かった。やはり、梨香の体は以前よりも丈夫になってきているようだ。
皇弟夫妻の墓は、前回来た時と同様、雑草に覆われていた。それに、盛り土が幾分低くなっている。
しかし、今日の服は汚しても良い質素な動きやすいものだし、鎌や小型の鍬など、道具類も準備万端だ。二人は早速、黙々と作業を開始した。
梨香は張り切って草を刈り始めたが、やはりというか、まだまだ下手くそだった。いくら庭いじりをしているとはいえ、庭師がいる庭と、殆ど手が入っていないこの場所とでは、大分勝手が違う。
だから無意識のうちに、「えいっ!」とか「それっ!」とか掛け声をかけていたようだ。
その掛け声に皇帝が反応して、彼はいきなり、盛大に笑い出していた。梨香はその笑い声に驚いて、思わず皇帝の顔を見つめていた。
それに気付いた皇帝は、慌てて口を押えてそっぽを向いた。心なしか、その顔が赤い。
「すまない。そなたがあまりにも夢中で草と格闘しているものだから」
つい、と言いながらこちらに向き直った皇帝は、優しく笑っていた。
梨香はそれを目にした瞬間、息を飲んでいた。あまりにその笑顔が眩しくて、爽やかで、そして自分よりも年上の大人の男性なのに、子供の用にあどけなくて可愛らしいと思ってしまった。そう思った瞬間、ドクンと心臓が飛び跳ねていた。
「い、いえ……」
小声で答えた梨香は、俯いて胸元に手を当てた。先ほどから心臓がうるさいほどに鳴っていて、収まりそうに無い。急に、どうしてしまったのだろう。
「どうかしたのか?具合が悪くなったのか?」
皇帝が心配して声をかけてきたが、なぜか恥ずかしくて梨香は顔を上げられそうになかった。
「いえ、大丈夫、です」
梨香はどうにかそう答えた。皇帝はそうか、とだけ言って、再び作業を開始する。梨香も深呼吸を一つして、再び手を動かし始めた。
墓の手入れが終わり、持参してきた菓子などを供えると、二人は二つの墓に向かって拝礼をした。
そしてそれが終わると、適当な場所に腰かけて、休憩を取る。何となく二人で並んで、木々の合間に遠く霞む都の遠景を眺めていると、皇帝が声を掛けてきた。
「今日は、ありがとう。きっと、弟たちも喜んでくれるだろう」
「いえ、お役に立てて良かったです」
皇帝にありがとうと言われて、梨香は相好を崩した。それを見て、皇帝は困ったような曖昧な笑みを見せた。
「そなたは不思議な娘だな。一人で墓参りに来た時は、いつも苦しくて仕方が無かった。息もできないような、自責の念ばかりがあって。だが、そなたとこうして墓参りをすると、何故だろう、救われたような気がするんだ」
ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ皇帝は、少しだけ寂しそうに見えた。その様子に、梨香の胸が締め付けられる。こんな寂しそうな顔を、彼にはしてほしくないのだ。
「それならば、これからはずっと一緒にお墓参りをいたしましょう。私も、陛下とこうして外の空気を吸えることが、なんだかとても幸せなことに思えるのです。もちろん、陛下が宜しければの話ですが」
梨香の言葉に、皇帝はありがとう、と囁くように言って静かに笑った。
「さあ、そろそろ帰ろうか。遅くなってはそなたの侍女も、私の部下たちも心配するだろう」
皇帝は立ち上がると、梨香に手を差し伸べた。梨香ははいと頷いて、その手を取った。
二人はゆっくりと来た道を戻っていく。やはり皇帝が先に立って梨香の手を引いていた。
「貴妃よ、そなたに何か墓参りの礼をしたい」
こちらを振り返ることなく皇帝が言った。
「何か望むものはあるか?そなたは欲が無い事は知っているが、それでも何か望みを言ってくれないか?」
梨香はじっと考え、そして無理を承知で口を開いた。
「でしたら、陛下。一つお願いがございます」
「何だ?」
皇帝は足を止め、梨香を振り返った。
「あの……、よろしければ、その……私のことは梨香と、そう名前で呼んでいただけないでしょうか」
言ってしまってから、梨香は、何を馬鹿なことを言ってしまったのだろうと後悔した。
「それは……」
皇帝はしばし絶句していた。だから、梨香はしまったと思い、ギュッと眼を瞑って俯いた。
しかし、返ってきた言葉は、とても優しいものだった。
「そんなことでいいのか?」
驚いた梨香が顔をパッと上げると、皇帝はまたあの優しい笑顔をしていた。
「さあ、帰ろうか、梨香」
皇帝は梨香の手を握る手に、ギュッと力を込めて歩き出した。
はい、と頷く梨香の声は、心なしか震えていた。
梨香は泣きそうになっていた。自分の気持ちに気付いてしまったのだ。
――どうしよう。私、陛下の事が好きだ。




