最終話「王太子は、王国のすべてから見限られました。」
「北の塔……ですか?」
私は父上の言葉を繰り返した。
王城の執務室。国王である父上は、机の向こうで静かに頷いた。
「そうだ。お前の王位継承権を剥奪し、今後は北の塔に幽閉する」
「お待ちください! 王太子の地位を失うだけではないのですか!」
「王太子の地位も、王位継承権も失う。そして、お前が自由に王城を歩くことも、二度とない」
私は立ち上がった。
「なぜです! 私は父上の息子です! この国の王子なのですよ!」
「だから、生かしておく」
父上は、まるで明日の天気でも話すように告げた。
その言葉の意味が、私にはわからなかった。
◇
私は、セレスティアが嫌いだった。
公爵家の令嬢であり、幼い頃から私の婚約者だった女だ。
学問、礼儀作法、外交、政治。何を学ばせても、彼女は優秀だった。
私は王太子として、誰よりも優れた教育を受けていた。教師も教材も、望めば最高のものが与えられた。
それなのに、試験ではいつもセレスティアが上だった。
私が一週間かけて理解したことを、彼女は一日で理解した。私が教師に尋ねた問題を、彼女は自分で調べて答えを出した。
父上も母上も、彼女を褒めた。
「セレスティア嬢は実に優秀だ」
「将来の王妃として、これほど頼もしい方はいませんね」
私は、その言葉を聞くたびに腹が立った。
将来の国王は私だ。王妃は国王を支える存在であり、国王より優秀である必要などない。
だが、セレスティアは私を立てようとしなかった。
いや、正確には、彼女は礼儀正しく私を立てていた。それが余計に腹立たしかった。
私が間違ったことを言えば、人前では決して否定しない。後になって、二人きりの場で訂正する。
「殿下、先ほどの件ですが、実際の税収はその数字ではございません」
「細かいことはよい」
「ですが、その数字を前提に予算を組めば、財政に支障が出ます」
「お前はいつも、私の間違いを探しているな」
「そのようなつもりはございません」
彼女は困ったように微笑んだ。
その顔が嫌いだった。私を馬鹿にしているのだと思った。
何より嫌だったのは、彼女の指摘が正しいことだった。
だから、私はセレスティアと話すことを避けるようになった。
◇
ミリアと出会ったのは、そんな頃だった。
男爵家の令嬢で、王立学院に入学してきた少女。
彼女は、私の言葉を何でも褒めてくれた。
「殿下は本当に素晴らしいお方です!」
私が政治の理想を語れば、目を輝かせた。
「そんな国になったら、みんな幸せですね!」
私が新しい政策を思いつけば、手を叩いて喜んだ。
「さすが殿下です! わたくしには思いつきません!」
私は、彼女と話すのが楽しかった。
セレスティアと違って、私の間違いを指摘しない。難しい質問もしない。私が未来の国王として優秀だと、心から信じてくれているようだった。
やがて、ミリアはセレスティアから嫌がらせを受けていると訴えるようになった。
「身分の低い女が殿下に近づくな、と……」
私は怒った。
セレスティアは、ミリアに嫉妬しているのだ。
そう思うと、胸がすくようだった。
あの完璧な女にも、私を奪われることへの恐れがある。私が選ばなければ、彼女は王妃になれない。
その事実を、ようやく思い知らせてやれる。
「安心しろ、ミリア。私がお前を守る」
ミリアは涙を浮かべた。
「ありがとうございます、殿下……!」
私は満足した。
これこそ、私が求めていた関係だった。
◇
だが、父上は私たちの関係を認めなかった。
「セレスティア嬢との婚約を軽んじるな」
「私はミリアを愛しています!」
「ならば、まず婚約解消について正式に申し出なさい」
「セレスティアはミリアをいじめているのです!」
「学院の調査では、その事実は確認されていない」
私は苛立った。
まただ。父上も教師たちも、いつもセレスティアの味方をする。
彼女が優秀だからだ。何をしても、あの女の言葉ばかり信用する。
「セレスティアが証拠を隠しているのです!」
「そう判断した根拠は何だ」
「ミリアが訴えているではありませんか!」
「訴えがあったから調査した。その結果を、お前はなぜ認めない」
私は答えなかった。
父上は深く息を吐いた。
「お前は、信じたい話だけを信じている」
その言葉に、私は激しい怒りを覚えた。
父上まで私を愚か者扱いするのか。
私は王太子だ。この国の未来を担う存在なのだ。
私の判断が、いつまでもセレスティアの判断より軽く扱われるなど、あってはならない。
そんなとき、私は一つの可能性に思い至った。
セレスティアは、私を王太子の座から引きずり下ろそうとしているのではないか。
彼女は優秀だ。父上からの信頼も厚い。公爵家という強力な後ろ盾もある。
私を失脚させれば、王家の政治に大きな影響力を持てるかもしれない。
そう考えると、すべてがつながった。
私はミリアに相談した。
「セレスティアは、私の命まで狙っているのではないか」
ミリアは怯えたように目を伏せた。
「わたくしには、わかりません。でも、セレスティア様なら……」
やはり、そうか。
私は仲間たちに協力を求めた。
宰相の息子は、私の疑念を裏づける報告書を用意してくれた。
神官の青年は、神もセレスティアの罪を認めていると告げた。
騎士団長の息子は、彼女を拘束するための騎士を集めた。
商会の跡取り息子は、調査のための資金を用意した。
そしてミリアは、私を信じ続けてくれた。
私は確信した。
セレスティアを断罪すれば、すべてが解決する。あの女を失脚させれば、誰も私の判断に口を挟まなくなる。
私はようやく、真の王太子になれるのだ。
◇
卒業パーティでの断罪は、完璧なはずだった。
私が婚約破棄と国家反逆罪の告発を宣言し、仲間たちが証拠を示す。
セレスティアは罪を認め、ミリアは私の新たな婚約者となる。
だが、現実は違った。
父上が現れ、私たち六人を拘束したのだ。
しかも、セレスティアは何一つ慌てなかった。
私があれほど重大な罪を告発したというのに、彼女は落ち着いた顔で父上に一礼した。
その姿が、今でも忘れられない。
まるで、こうなることを最初から知っていたかのようだった。
◇
「父上。私は騙されていたのです」
私は必死に訴えた。
王城の執務室。父上の前には、学院と王城が集めた調査記録が並んでいた。
「ミリアが嘘をついていたとは知りませんでした。宰相の息子が作った報告書も、私は本物だと信じていたのです!」
「そうだろうな」
父上はあっさりと認めた。
「お前が事実を確かめていなかったことは、十分にわかっている」
「でしたら!」
「それが、お前の罪だ」
私は口を閉じた。
「お前は王太子として、無実の者を国家反逆罪で告発した。証拠を調べる権限も、正式な調査を命じる手段も持ちながら、それを使わなかった」
「私は、仲間たちを信じて……」
「信じることと、確認しないことは違う」
父上は書類を一枚取り上げた。
「学院から、お前への警告が何度も届いている。宰相も、私も、事実を確認するよう命じた。それでもお前は、すべて無視した」
「ですが、セレスティアが!」
「まだ、あの娘のせいにするのか」
父上の声が低くなった。
「お前は、セレスティア嬢が自分より優秀であることを、ずっと認められなかったのだろう」
私は息を呑んだ。
「何を……」
「お前があの娘を嫌っていたことは知っている。だが、ここまで愚かな行動に出るとは思わなかった」
「私は愚かではありません!」
「ならば、なぜ無実の人間を国家反逆罪で告発した」
私は答えられなかった。
父上はしばらく私を見つめ、やがて静かに言った。
「セレスティア嬢は、私たちより優秀だった」
「……は?」
「少なくとも、お前の資質については、私たちより正確に見抜いていた」
私は耳を疑った。
父上は続けた。
「私たちは愚かにも、お前をあの娘が補佐すれば、国を治められると判断していた」
「それは……王妃が王を支えるのは当然でしょう!」
「違う」
父上は首を振った。
「お前が国を治めるために、あの娘が必要だったのだ」
私は言葉を失った。
「お前に足りない知識を補い、誤った判断を正し、政治の実務を支える。あの娘なら、それができると考えた」
「そんな……私は……」
「だが、私たちは一つ、大きな間違いを犯した」
父上は、机に置かれた書類を指先で押さえた。
「あの娘は、自分がどれほど補佐しても、お前に国を治めさせることは不可能だと見抜いていたのだ」
「……何ですって?」
「お前は助言を聞かない。間違いを指摘されれば怒り、都合のよい言葉だけを信じる。どれほど優秀な補佐役がいても、最後に決断する国王がそれでは国は治められない」
父上は深く息を吐いた。
「私たちは、あの娘がいれば何とかなると思っていた。だが、あの娘は最初から、何ともならないことを理解していた」
私は何も言えなかった。
「だからこそ、セレスティア嬢はお前を見限り、婚約を解消するための準備を進めていたのだ」
父上は、机に置かれた書類を一枚取り上げた。
「お前の言動を記録し、学院への報告を重ね、婚約を解消するための準備を進めていた。ミリア嬢からの虚偽の訴えについても、すべて調査を求めている」
父上は私を見据えた。
「お前が卒業パーティで何をするつもりかも、事前に王城へ報告されていた」
「そんな馬鹿な!」
「私たちは、あの娘からの報告を受けて調査を進めていた。お前たちが用意した証拠の問題も、すでに把握していた」
私は震えた。
「では……父上は、あの日……」
「お前が自分の意思で告発するのか、最後に確認した」
父上は淡々と答えた。
「誰かに強制されたのではないか。自分の行動が何を意味するか、理解しているのか。お前は自信満々に、自分の意思だと答えたな」
私は思い出した。
卒業パーティ。父上は、私たち六人に尋ねた。
自分の意思で行動したのか、と。
私は胸を張って答えた。もちろんです、と。
「あれは……私を試したのですか」
「お前に、自分の行動を説明する機会を与えたのだ」
父上は首を振った。
「セレスティア嬢は、あの場でお前と争うつもりなどなかった。証拠を残し、正式な機関に判断を委ねていた」
私は拳を握り締めた。
あの女は、私に勝とうとすらしていなかったのか。
私が必死に彼女を失脚させようとしていた間、彼女はすでに私を見限り、婚約を解消するための手続きを進めていた。
私が断罪するつもりだった相手は、私の断罪など必要としていなかった。
「父上……それでも、私はあなたの息子です」
「そうだ」
「もう一度、機会をいただけませんか。今度こそ学び直します。王太子として……」
「王太子には戻れない」
父上は即答した。
「王族会議の決定は覆らない」
「では、せめて地方の領地を! そこで実績を積めば……」
「お前に領民を預けることはできない」
私は絶句した。
父上は最後の書類を開いた。
「お前の処遇について説明する」
◇
北の塔は、王城の敷地の外れにあった。
かつて王族の幽閉に使われた建物だと聞いたことがある。高い壁に囲まれ、外から中の様子を見ることはできない。
私は父上を見つめた。
「そこで、何年暮らせばよいのですか」
「期限は定めない」
「十年ですか。二十年ですか」
「生涯だ」
私は目を見開いた。
「生涯……?」
「お前は二度と、自由の身にはならない」
「それでは、私は何のために生きるのです!」
父上は少しだけ目を伏せた。
「王家の血を残すためだ」
私は意味がわからなかった。
「……血?」
「王家の血統を維持する必要が生じれば、お前に子をもうけさせる。そのための相手はこちらで選ぶ」
「な……!」
「お前に婚姻を決める権利はない。子が生まれても、その養育に関わることは認めない」
私は椅子から立ち上がった。
「私は家畜ではありません!」
「お前を王族として政治に関わらせることはできない。だが、王家の血を引いていることも事実だ」
「そんな扱いが許されるはずがない!」
父上は私の叫びに答えなかった。
「そして、王家の血統が十分に確保され、お前を生かしておく必要がなくなった場合は、毒杯を与える」
私は、しばらく何も聞こえなかった。
毒杯。その言葉だけが、頭の中で繰り返された。
「……父上」
ようやく声が出た。
「私は、あなたの息子なのですよ」
「わかっている」
「あなたの息子を、そんなふうに……」
「だからこそ、私が決めた」
父上の表情は変わらなかった。
「国王として、お前を再び国政に関わらせるわけにはいかない。父親として、お前がここまで愚かだったことを悔やんでいる」
私は首を振った。
「嫌です……」
声が震えた。
「そんなところには行きたくありません!」
「決定は覆らない」
「父上! お願いします!」
私は机にすがりついた。
「何でもします! 勉強もします! セレスティアにも謝ります! ですから!」
父上は、静かに目を閉じた。
「それを、もっと早く言ってほしかった」
その言葉を最後に、父上は衛兵を呼んだ。
◇
北の塔には、窓が一つだけあった。
高い位置に設けられた小さな窓だ。外の景色は、空しか見えない。
部屋には寝台と机、椅子が用意されていた。食事は運ばれてくる。衣服も清潔なものが与えられる。
不自由はない。
ただし、扉には外側から鍵が掛けられていた。
私は何度も衛兵に尋ねた。
「父上に会わせてくれ」
「許可がありません」
「セレスティアに手紙を出したい」
「認められておりません」
「ミリアはどうなった」
「お答えできません」
誰も、私の命令を聞かなかった。
私は王太子だった。
この国の誰もが、私に頭を下げた。
私が声を掛ければ、騎士が動いた。私が望めば、商人が金を用意した。私が正しいと言えば、仲間たちは賛成してくれた。
それなのに、今は扉一つ開けられない。
私は机に座り、紙と筆を手に取った。
父上への謝罪状を書こうと思った。セレスティアへの謝罪状も必要だろう。
何度も頭を下げれば、いつか許してもらえるかもしれない。
だが、筆は動かなかった。
私は、何を謝ればよいのだろう。
ミリアを信じたことか。セレスティアを嫌ったことか。父上の忠告を聞かなかったことか。
それとも、王太子として正しい判断ができなかったことか。
私は紙を見つめ続けた。
やがて、廊下から足音が聞こえた。
私は顔を上げた。扉の向こうで、衛兵が交代しているらしい。
私は思わず尋ねた。
「……今日は、何か知らせがあるか」
「ございません」
「そうか」
足音が遠ざかっていく。
私は窓を見上げた。青い空が見えた。
この国のどこかでは、今日も人々が働き、暮らしているのだろう。
私が国王になるはずだった国。私が治めるために生まれたと信じていた国。
だが、その国にとって、もう私の判断は必要なかった。
必要なのは、私の血だけだった。
私は窓から目を逸らした。
父上は、王家の血が必要になれば女を寄越すと言った。そして、必要なくなれば毒杯を寄越すとも言った。
どちらが先になるのか、私にはわからない。
決めるのは、私ではない。
私は、将来この国のすべてを決めるはずだった。
今では、自分の最期さえ決められなかった。




