第一楽章:悲劇の導入部——それは故郷の子守唄から
セルゲイの家は帝都にほど近い地主だ。そこより少し田舎に領地をもつ男爵家の娘が嫁に来てセルゲイが生まれた。
社交シーズンが終わり、春になると母は時々母方のウサードバに連れて行ってくれた。
祖母は夫を亡くし息子に爵位が移ったあと、ウサードバでずっと暮らしていた。
祖母はとても優しい人で、「可愛いセリョージャ」そう呼んで、細い目をさらに細くして頭を撫でてくれる。眠る前は子守唄を歌ってくれた。「僕そんなに小さい子じゃないよ」少しむくれてセルゲイはそう言ったが、祖母は「そうかい、そうかい」と言って歌い続けた。セルゲイはいつしか眠っていた。
領地には教会がある。貴族も庶民も領地ではみなそこに行き、司祭の教えを聞き、神に感謝をする。祖母は気取りがなく、隣に農民が座ろうが、恐らく農奴が座っても気にもとめないような人だった。
祖母と母の子守唄に包まれて育ったためか、セルゲイは音楽が好きだった。教会の聖歌、帝都の流しのヴァイオリン、そのどれもが彼の心を沸き立てた。
だが、父のミハイルはあまりいい顔をしていない。ミハイルは息子に法律学校に行ってほしいのだ。セルゲイも父が渋い顔をしていることにすでに気がついていた。
祖母の領地では父の目から解放される。大声で歌っても、ヴァイオリンをかき鳴らしても、祖母の館のピアノで思いのままに奏でても誰も咎めない。ここは天国だ…!
週末の教会、信徒は集まり、説法を聞き、皆で聖歌を歌う。正教では人の声こそ天上にささげる最も美しいものとする。横では祖母の昔よりしわがれてしまった声、後ろからは小さな女の子の甲高い声。その隣からは鉱夫の低いざらついた声。少し離れたところでは若い男のか細い声。一人一人の声はけして美しいとは言えず、また音程も正しくはない。それでも皆の声が聖堂に響き渡ると、神が喜ぶのはこの美しさなのかとセルゲイは胸を熱くした。
教会の横には集会所があり、そこの片隅に古いオルガンがあった。手入れもろくにされていないようだが、踏んでみるとペダルはスムーズに動いた。
これなら弾けそうだ。セルゲイは和音を押さえる。楽しくなって、セルゲイは知っている曲を弾き始めた。
気がつくと、鍵盤の陰にすっぽり隠れるほど小さな女の子が横に立ってセルゲイを見ていた。手をとめると女の子は言った。
「あのね、子リスのゆりかごひける?母さんが歌ってくれたの」
「子リスの揺りかご?」聞き返すと、女の子が甲高い、少し舌足らずな声で小さく歌ってみせた。音程はとんでもなくずれているが、そのリズムは祖母が眠りにつくセルゲイをやさしくあやしながら歌ってくれたものに間違いなさそうだ。
「いいよ」セルゲイはペダルを踏み込んだ。
女の子は、教会で父親と二人で来ていた。もう彼女のためには誰も歌ってくれていないのかもしれない。
セルゲイは会うたびに彼女にオルガンを聴かせた。時には女の子を膝に乗せ、弾き方を教えることもあった。
◆
セルゲイがギムナジウムに通うようになっても、音楽への傾倒は続く。楽器が弾けるなら、と古びたピアノが置いてある酒場へでも出入りした。学校では友もできた。酒場に行くのも一緒だ。
「神は我らに杯をお示しになった。苦くとも飲み干すのが神の教えに従うことだ!」並々と酒の入ったカップをセルゲイに押し付けて悪友はこう叫んだ。こいつは詩ばかり書いている。おまけに言葉が湧き出す泉だと言って、足繁く女のところに通い、愛をささやき、挙句の果てには決闘を申し込んでいる。いつか銃か酒かでやられるぞ、どちらにせよ女のせいだろう。周りからは揶揄されているが、いい奴には違いない。
酒場の親父が歌いたいらしい。頼まれて、店にある音の狂ったピアノを弾いた。
親父は歌う。セルゲイの伴奏に合わせて。お世辞にも上手いとは言えず、声もしゃがれているが楽しそうだ。それに酔っぱらった兵士が続く。日雇いの男も歌い出す。女給も料理を配りながら歌った。尻を触る手を払い除けながらも笑顔だ。いつの間にか店のみんなで大合唱。悪友もセルゲイの肩を抱きながら歌った。「見ろよ!俺の詩なんかよりお前の伴奏はよっぽど届いているぜ!この野郎!」
セルゲイは、祖母の領地の教会の、あの聖歌の響きが浮かんだ。誰も上手くはない。だが温かく、聖堂が光に満ち、神のみもとへと届くあの音楽――。
セルゲイは悟った。そう、自分にはこの道しかない。
「音楽家になります」
邸宅に戻り、セルゲイはついに父ミハイルに告げた。
ミハイルにも薄々わかっていたのだろう。息子がこの道を選ぶことを。
「そうか。好きにするがいい。だが進んで支援はしない。自分の選んだ道だ。まずは自分でやってみろ」
父はそれだけを言った。




