第十三章:「たった一分なのに」と賑やかなレジ前で涙するママへ
「だめぇぇ! 裕太が先! 裕太が一番なの! おじさん、どいてぇぇぇ!!」
土曜日の午後二時。
週末の賑わいを見せる大型文房具店のレジ前で、裕太の鋭い叫び声が天井の高い店内に響き渡った。
この日、支援センターで使うための新しいスケッチブックを選び終え、お会計のためにレジ列に並んでいた時のことだ。
裕太の目の前には、仕事帰りらしき中年の男性が一人、先に並んでいた。
それが、ASDの「一番・先頭への強烈なこだわり(順序の変更に対する激しい恐怖)」と、ADHDの「衝動的な待てなさ(報酬遅延に対する脳のパニック)」の導火線に火をつけた。
裕太は前の男性のコートの裾を強引に引っ張り、自分が前に出ようと激しく暴れ始めた。
驚いた男性が「なんだ、この子は!」と不快感を露わにして振り返る。
真依は真っ青になって、裕太の小さな体を後ろから羽交い締めにするようにして引き剥がした。
「裕太、ダメ! 順番でしょ! 前のおじさんが先なの! 離して!」
裕太は自分の思い通りにならない世界のルールに絶望したように、床にひっくり返って手足をバタバタと暴れさせ、自分の頭を床に打ち付けようとする。
周囲の買い物客たちが「親のしつけがなっていない」「大きな声を出すなんて迷惑ね」と言いたげな冷ややかな視線を、一斉に真依へと浴びせかける。
(どうして……。ただ、スケッチブックを一枚買うだけなのに。なんで『順番を待つ』っていう、誰もが普通にやっている簡単なことがこの子にはできないの? 私がもっと早くレジに来ていればよかったの? 世間のお母さんたちは、子供と手を繋いで静かに並んでいるのに。どうして私だけが、こんな公衆の面前で泥棒でもしたみたいに冷たい目で見られなきゃいけないのよ……!)
世間の「普通」という高い壁に阻まれ、母親としての自信を完全にへし折られた真依の胸の奥から、底知れない孤独感と、「私は間違っていない、誰か助けて」という悲痛な承認欲求が溢れ出し、視界が涙で滲んだ。
そこへ、手に「作戦ノート」をしっかりと抱えた高野が、すたすたとした正確な足取りで列の後方から割り込んできた。会社の昼休みに、二人の様子を心配して駆けつけたのだ。高野は裕太の暴れる視線と、レジの進行スピードを鋭く観察し、脳内のエラーログを高速で立ち上げた。
「真依、パニックにならないでくれ。状況はシステム論的に完全に説明がつく。これは時間認知の『ブランクパニック』と、順序の『絶対的一番の固執』のバグだよ」
高野は真依の隣に屈み込み、自分の眼鏡の位置を直しながら、数式を解くように早口で言った。
「高野くん……裕太、ただ一分待つだけなのに、なんでこんなに狂っちゃうの……?」
「裕太の脳にとって、『順番を待つ』という状態は、何も起きない真っ暗な宇宙に放り出されたような恐怖なんだ。ASDの特性として、彼は『自分が一番にレジに行く』という脳内プログラミング(仕様書)を確定させていた。それが前のお客さんによって突如『二番目』に書き換えられたことで、世界が崩壊したようなパニックを起こしている。さらにADHDの特性で、彼には『あと一分で順番が来る』という未来の予測時間がまったく体感できていない。だから、今すぐ一番になれないストレスが暴走しているんだ。……僕も小学生の頃、給食の配膳列で二番目になった時、自分の存在が消滅してしまうような恐怖で前の同級生を突き飛ばし、大問題になった。周囲の大人には『我が儘な乱暴者』と断罪され、僕は自分が世界で一番悪い人間なのだと、自分の髪をむしりながら泣き続けた。あの孤独な恐怖を、僕は今でも覚えているんだ……!」
高野は自らの血の滲むようなトラウマを吐露し、我が子の脳の痛みを我がことのように感じて顔を歪めた。彼の心の声は、父親としての執念に燃えていた。
(わかる、わかるよ裕太。お前は意地悪をしているんじゃない。ただ、時間が目に見えないから、いつ自分の番が来るか分からなくて怖くてたまらないんだよね。僕が、お前の脳に『見える順番のハシゴ』を架けてあげなきゃいけないのに……!)
しかし、理屈が分かったところで、この混雑するレジ前で裕太をどうなだめればいいのか、高野の論理回路にも即座に有効な解決のコマンドは浮かばなかった。
その時、パタパタと軽快なサンダルの音と共に、あの救世主の声が響き渡った。
「あらあらあら! レジの関所で、可愛いお猿の親分さんが一番乗りしたくて大噴火ねえ!」
エプロン姿の美佐子が、どこからか「数字の書いたカラーカード」を手に持って、あはははと笑いながら現れた。買い物のついでに様子を見に来てくれたのだ。美佐子は周囲の冷たい視線など一瞥もせず、ズカズカと裕太の前にしゃがみ込んだ。
「美佐子さん! すみません、裕太が順番を待てなくて……」
「真依さん、謝るんじゃないわよ! この子は今、世界で一番難しい『時間のトンネル』をくぐり抜けてる最中なんだから! 応援してあげなきゃ!」
美佐子はそう言うと、持っていた赤い「1」のカードを前のおじさんの背中に向け(実際には見せずに裕太に見せるように)、青い「二」のカードを裕太の胸にペタッと当てた。
「ほら、裕太。今は『一番のおじさんのロケット』が発射準備中だよ。裕太は『二番のジャンボジェット機』。おじさんロケットがレジの宇宙にビューンって飛んだら、次は裕太ジェット機のカウントダウンが始まるからね。ばあちゃんと一緒に、ロケットの発射を見守る『管制官』になってちょうだい!」
美佐子は裕太の目線を覗き込み、不敵にニィッと笑ってみせた。
その瞬間、裕太の激しい足踏みが、ピタッと止まった。
裕太の視線が、脳を縛り付けていた「理不尽な待ち時間」から、新しく出現した「一番と二番のカウントダウンゲーム」という視覚的な役割へと移動したのだ。
順番待ちという「終わりの見えない恐怖」が、カードによって「自分の番が必ず来るロケットの発射ショー」へと上書きされた瞬間だった。
裕太はきょとんとした後、おずおずと立ち上がり、前のおじさんの背中を見つめながら「いちばん、はっしゃ……?」と呟いた。
「え……!? 待てた……! 暴れないで、前の人をじっと見てるわ、高野くん!」
真依は歓喜の声を上げ、自分の両手で口を覆った。
「あははは! 大成功! お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその十一!『見えない順番の恐怖は、数字の視覚化と役割の付与(ゲーム化)で楽しいカウントダウンに変えよ』!」
美佐子は前のお客さんのお会計が終わった瞬間、「それ、一番ロケット発射! 次は二番の裕太ジェット機、離陸どうぞ!」と手を振った。
「この子たちはね、時間が目に見えないの。だから、あと何人で自分の番が来るのかを、数字やカードで『見える化』してあげるのよ。そして、ただ待たせるんじゃなくて、『前の人を観察する管制官』っていう役割をあげるの。そうすれば、ADHDの衝動性が『任務遂行』のほうにピッピと切り替わって、静かに待てるようになるのよ!」
高野は作戦ノートに、凄まじい熱量でペンを走らせ、魂の底から揺さぶられていた。
(素晴らしい……! 抽象的な時間概念をデジタルな順序構造に置換し、さらに社会的役割を付与することで、自己統制能力を劇的に向上させた。母さんのこの現場対応力は、最高峰の認知行動療法だ……!)
真依は、美佐子の魔法のような手法と、高野のロジカルな解析を、頭の中でしっかりと復習した。
すり減ってボロボロだった彼女の心に、母親としての新しい血が巡るような、確かな手応えが満ちていく。真依は涙を拭い、美佐子と高野に向かって、毅然とした笑顔で言った。
「……分かりました! 順番が待てなくて暴れる時は、『我慢しなさい!』って子供の感情だけを抑え込むんじゃなくて、裕太が感じている時間のパニックを理解して、カードや指を使って『あと何人だよ』って終わりを視覚的に見せてあげればいいんですね。声掛けも、『割り込んじゃダメ』じゃなくて、『前のロケットが飛んだら次だよ!』って、ワクワクするゲームに変えてあげる……。美佐子さん、これで合ってますよね!?」
「三千万満点! 真依さん、もう我が家のチーフ・管制官決定ね!」
美佐子は真依の背中をガツンと叩いて豪快に笑った。世間からの冷たい目が、もう今の真依には全く怖くなかった。
自分たちには、この凸凹の道を一緒に歩んでくれる最高のチームがいるのだから。
「さあ、レジ待ちのバグはこれにて完全クリア! 裕太、かっこよくスケッチブックを買えたから、今夜はみんなでお家で大お絵描き大会の始まりだよ!」
美佐子の号令に合わせて、裕太はスケッチブックを大事そうに抱えながら「にばん、りりく! おえかき!」と嬉しそうに歩き出した。
高野と真依は、お店の外に広がる青空の下で深く見つめ合い、お互いの存在への感謝を込めて、力強く、深く頷き合うのだった。




