狐の妖怪
雪也は逃げ続ける少女を追って走り続けていた。
(あいつ、滅茶苦茶速いな)
遠ざかり続ける少女を見つめる瞳に青い光が灯る。
雪の妖怪の力は、雪を操るのではなく周囲のものを氷らせる力なのだと、母は言っていた。
『『氷らす』ことへのイメージ、意思、自信で力の大きさは変化する。雪也の場合、その3つが圧倒的に欠けている』
昔、そのような指摘を受けた。当時は『氷らす』ことができるからと言って、社会に出て何の役に立つんだと反論した。『氷らす』ことができなくても学校は卒業できるのだ。
しかし、今になって親の言うことに従って多少は雪の妖怪の力を身に付けておくべきだったと後悔もした。この世は何があるのか分からないのだ。
少女の足元に集中し、『氷れ』と念じた。少女の足元に氷の塊が現れる。少女はバランスを崩し、盛大に転んだ。
その隙に、少女の手足も氷らせ、地面とくっつける。
「俺の名前は氷室雪也。氷と雪を操る、雪男だよ」
訳が分からないと困惑している少女に、雪也は自己紹介をした。
ビクビクとした少女に名を尋ねると「ミラ」と答えてくれた。それから財布を返してもらい、氷を解いた。
「今日はどうしてここにいるの?」
「えっと、その、あの、『ヤオヨロズ』に外出の許可を貰いまして」
「ふーん。そうなんだ」
ミラが日本を理解し、話せることに驚嘆した。彼女と出会ったのは、二カ月のことだ。その時は全く言葉が通じなかった。語学が苦手な雪也からすれば、こんな短期間で日本語を解するのは偉業に思え、ミラに対して畏怖のようなものを感じてしまった。
「礼子という職員と一緒に来たのですけど、はぐれてしまったようです。どうしましょう」
「どこではぐれたの?」
「先ほど、雪也様と会ったところです」
雪也に手を引かれ、ミラは元来た道を戻ることになった。
「にしても、どうして僕を怖がるの?」
「それは、そのぉ、夢の中に雪也様と似た人が出てくるんです」
「へぇ」
「その人は、とても怖い人で、たくさんの人間を殺していて」
「そいつと僕が似てるんだ? ちょっと嫌だなぁ」
「すいません」
「まぁ、夢の話だからいいけど。でも、どうしてミラの夢に僕が出てくるんだろう。不思議だね」
「えっと、夢というよりは、昔の記憶のような気もして。それで、その人の名前は『殺戮王』って言って」
『殺戮王』その言葉を聞いた瞬間、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。その言葉を雪也は知っている気がした。脳裏に、一人の少年の姿が現れる。少年の姿形は霧にまみれ、おぼろげだ。彼に向って雪也は手を伸ばす。どれだけ手を伸ばしても、声を張り上げても彼のもとまで届かない。それでも雪也は彼に引きつけられ、追い続ける。
「どうかしましたか?」
心配そうなミラの声に、雪也は現実に戻された。
引きつった顔で、大丈夫だと笑った。
「それよりも、その何とか王だけど」
「『殺戮王』です」
「うん。そいつについて詳しく教えてくれ」
必死な形相で雪也が頼み込んだ。何故、自分がこんなにも一生懸命になるのか理解出来なかった。腹の底から妙な熱が湧き出てくるのを感じた。
「『殺戮王』を調べるのは止めた方が良い」
いつの間にか、雪也とミラの前に青年が立っていた。
真新しいスーツを着た若い男だ。新社会人、そんな印象を雪也は抱いた。
男は人当たりの良さそうな笑みを浮かべ、「『殺戮王』を調べるのは止めた方が良い」ともう一度言った。
「貴方は誰ですか?」
「おや、よく見ると君は雪女さんのところの坊ちゃんじゃないか。そんで、そっちの娘が『漂流者』かぁ」
「祖母を知っているんですか? それなら名乗る必要は無いですね、名も知らぬ怪しいおじさん」
「あぁ、失礼。俺は妖孤で、名を白狐って言う。九尾の狐の弟子って言った方が分かるかな? ちなみにまだ二十歳だから、おじさんではないよ」
九尾の狐、と聞いて雪也は背筋が震えた。一国を滅ぼすほどの力をもつ、大妖怪だ。
「僕は雪也、こちらはミラと言います」
「雪也君に、ミラちゃんね、よろしくぅ」
へらへらと笑って、握手を求めてきた。雪也は応じず、質問をした。
「白狐さんは『殺戮王』を知っているんですか?」
「全く知らない」
「それなら何故、調べてはいけないと言うんですか?」
「調べることを禁止されているからだよ。『殺戮王』はこの世界を壊すかもしれないタブーの一つだ」
「世界を壊す?」
「この世は俺達、妖怪を中心に回っていることは理解してるかな?」
「ええ。この世界を壊すのも壊さないのも、貴方達妖怪によって決まるってことですよね?」
「いやいや、違うよ。いくら大妖怪達でも、この世界を壊すことのできる奴なんてどこにもいない。俺の師匠は遠い昔いくつも国を傾けたし滅ぼしてもきたけど、その影響力は所詮一国のみだ。世界となるとあまりに広い。八百万の大妖怪達が一丸となって『世界を滅ぼしましょう』って力を合わせても難しいんじゃないかなぁ」
「でも、『殺戮王』は世界を壊すことができると?」
「『殺戮王』個人が世界を壊すわけじゃないよ。『殺戮王』を調べることで、この素敵な悪夢から目を覚ましてしまう可能性があるんだよ」
「悪夢?」
「そうだよ。この世は全部が全部悪夢なんだ。俺が妖怪なのも、君が人でも妖怪でもないのも、全部が全部悪い夢だから安心してほしい。本物の俺達は遠い世界で暮らしている」
そう言って白狐はミラに視線を向けた。
「そうだよ。ミラちゃんがいた世界こそが本物の世界なんだ。俺達は夢の中の存在にすぎない。でも、そんなくだらない夢でも、俺達妖怪は壊れないよう護らないといけない。少なくとも俺はそう考えている」
「な、何を言っているんだ?」
「『殺戮王』が本物の世界で撒き散らす恐怖はあまりに巨大だ。その恐怖がこちらまで伝播し、本物の世界での出来ごとを意識する者も出始めた。このままだと非常にまずい。夢が醒めて、世界が壊れてしまう」
白狐はミラを見てニタリと笑った。
「だから夢を醒ます原因は排除しないとねぇ」