【 8 】
トシさんの天然級の鈍さには呆れるの一言だ。「僕、もう行くからね?」と言い、ベンチから立ち上がる。
「行くってどこへだい?」
「決まってるじゃん、僕の役目は終わったみたいだから生まれ故郷の星に帰るよ。バイバイ」
歩き出した僕の後を、慌てたトシさんが引き止めに追って来る。
「だって君は帰れなくなったんだろ!?」
「……うん。でも決めたんだ、僕はパラレルワールドをどんどん先に進んでみることにする。だってこの世界に僕のいる場所は無いもん。それにもしかしたらいつかグルリと一周して自分の世界に帰れるっていう奇跡が起こるかもしれないし。じゃあさよなら。真柴さんをちゃんと守ってあげてね」
「待ってくれよ! 今すぐじゃなくてもいいだろ? せめて今日は僕の家に泊まっていってほしい。君ともっと話がしたい」
「ごめん。もしその一日のロスがこの先で何か重大な事に繋がったら後悔しそうだからやっぱり行くよ。行けるところまで進んでみる。でもさ、もしまたこの世界にひょっこり出てきちゃったらその時は一晩泊めてくれるとありがたいな」
僕は笑った。どす黒い気持ち一切無しで笑えた。その事が今は一番嬉しかった。
そして僕の決意が変わらないことを悟ったトシさんは、寂しそうな表情で自分の銀フレームの眼鏡をゆっくりと外す。
「これ、かけてみてくれないか」
「眼鏡を? なんで?」
「実は君と最初に出会った時からずっと思ってたんだけどさ、その眼鏡はあまりにも滑稽過ぎだ。だからこれを君にプレゼントするよ。同じ僕なら度数が合うんじゃないかな。もし合わなかったら元の世界に戻れた時、新しくレンズを新調すればいいし」
んー、そんなにこの眼鏡ってヘンなのかなぁ……。でもそういえば一つ目の並行世界のちょっぴり乱暴な真柴さんにもこの黒ぶち眼鏡が似合ってないって言われたっけ。
トシさんの好意でもあるし、言われたとおりにおとなしく眼鏡をかけかえてみることにした。
わ、スゴイ! 視界がクッキリしたよ!
今までのに比べるとレンズが小さいので視界の範囲は多少狭まっちゃったけど、度は全然大丈夫そうだ。
「どうだい? ちゃんと見える?」
「うん見える見える! 今のよりもはっきり見えるよ!」
「じゃあレンズの度数が合わなくなってきているんだね。でもその眼鏡がよく見えても念のために視力を測り直したほうがいいよ。度の合わない眼鏡をかけていると偏頭痛の原因になるしね」
「うん気をつける。でもこれ貰っちゃったら君が困らない?」
「家に戻れば予備の眼鏡があるからいいよ。それに僕の眼鏡をかけたら君の印象だいぶ変わったよ。少なくともこれから仮装パーティに出そうなおかしな感じは無くなった」
トシさんが楽しげに笑う。
サラサラの少し長めの髪に眼鏡を外したその笑顔は、自分で言うのもあれだけど結構いい感じだった。“ 爽やか少年 ”って感じ?
僕ってもしかしたら自分で思っているほど全然特徴の無い容姿じゃないのかも……。
「気をつけて。元の世界に戻れることを祈っているよ」
トシさんは僕が開襟シャツの胸ポケットに黒ぶち眼鏡をしまうのを待ち、僕に向かって右手を差し出してくる。
「ありがとう」
差し出されたトシさんの手を固く握った。
同じ皮膚を持っているはずなのに微妙に温度が違う。その事が少し意外でちょっぴり不思議だったけど、最後は素直に納得できた。
そんな僕らをベンチから見守っていた真柴さんが、この今生の別れの握手を見て立ち上がる。
「あの、もう行ってしまうのですか?」
「うん。真柴さんとも話せたし、もう思い残すことは無いから僕は僕の星に帰ることにします。後はこっちの勝利があなたを大切に守ってくれますよ。じゃあお幸せに」
真柴さんの顔がぽっと赤らんだのですかさず僕は貰った銀縁の眼鏡越しにトシさんへ最後のアイコンタクトを送った。目配せに気付いたトシさんは、僕を追うために一旦は離した真柴さんの手をまた優しく包み込むように握る。
おーさすが! 以心伝心、ここに見事成功!
これでこっちもめでたしめでたしだ。
真柴さんが今も僕のことをトシさんの親戚だと思っているかどうかは気になるけど、後でSF世界に詳しいトシさんが説明してあげるんだろうな。それを真柴さんが信じるかどうかはまた別次元の話だろうけど。
僕は二つ目の並行世界の二人と別れて歩き出した。
目指す先はもちろんあの例の空き地。
こうなったらとことん行ってみよう。元の世界に辿り着くまで。
ぶっ倒れるまで進んでみよう。僕の気力が持ち続けるまで。