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4章-5 殺人のハードル

 僕の考えをいち早く見抜いたのは、やはり司馬だった。


「なるほど。試してみる価値はありそうですね。枯れた川なら、それはすなわち道になる。少なくとも、山を越えていくよりはいい」

「警戒はされているでしょうが、幸いにも僕たちは探知機からは逃れられます。危険だと思う場所だけ山を通って行けば、上手くいくかもしれないと考えたんです」

「いや、いい考えだと思いますよ。第一、わたしたち全員が助かろうと思えば、こうするより他はないわけですからね」


 僕は重々しくうなずいた。が、内心では、この場にいない人間のことを考えていた。


 自分でも愚かだとはわかっている。相手は殺人に手を染めた人間で、その殺意は今や僕にも向けられているだろう。

 なのに僕の胸中には、未だ香澄への想いが強く残っている。

 ゴールには、香澄がたどり着けばいい。そのためにも僕は、自力で脱出しなければならない。


「では方針が決まったところで、早速、参りましょうか」


 白々しい科白を吐きながら、ひとり意気揚々としている司馬にうながされ、僕たちは橋まで進んだ。


 たどり着いた橋は、これまで村の中で見かけたどの橋よりも、幅が狭く、また向こう岸までの距離が短かった。この川は村の中央を流れていた川から分岐した支流であるだけに、さほどの水量はなかったのだろう。


 橋の上から川をのぞく。地上とは比べるべくもない濃い闇が、長々と横たわっていた。両岸から伸びた木々が影を落としているため、暗さが一層増しているのだ。

 それでも、ぽつりぽつりと月明かりが差し込み、枯れた川底を浮かび上がらせていた。底までの深さは七、八メートル、川幅は十メートルあるかないか、というぐらいだ。


 こんなところを進んで行って、本当に脱出できるのだろうか。そんな思いが胸にさざなみを立てる。見つかりにくいが、襲われたときは窮地に陥る。ましてや前後から挟み撃ちを受ければ、どこにも逃げ場はなくなってしまう。


「おや、方針変更ですか」


 僕の心を読んだかのように、司馬が言う。


「やっぱりゴールを目指しますか?」


 僕は憮然となって言い返した。


「馬鹿なことを言わないでください。僕は人殺しをしたくないですからね」


 都合のいいことに橋の袂近くには、階段が設けられていた。木の板を地面に打ち付けただけの簡単なものだったが、造りはまだしっかりとしていて、おかげで僕たちはらくに斜面を下りることができた。


 上から見ていたときは真っ暗闇だと思えていたが、川底に立つと、意外に光が届いてることがわかった。転がっている石につまづかないように気をつけていれば、川をたどって進んでいくのは難しいことではなさそうだった。


 僕たちは先ほどまでと同じ順番で、また歩き始めた。すなわち先頭に僕と司馬、次に咲が続き、最後尾が美濃部という順だ。


 地面は大小の丸い石に埋め尽くされ、ときに僕の背丈ほどもある岩も転がっていたが、足場は思ったほどに悪くはない。ほとんど普通に歩くのと変わらぬ速度で進んでいける。注意を払う必要があるのも、自分たちの前後と頭上だけなので、精神的な面からすれば、疲労は少なくて済むと感じた。


「ところで、ニトさん」


 司馬がいきなり話しかけてきた。


「お渡ししておきたいものがあるのですが」


 僕は警戒の目を向けた。立場は逆になっているが、ほんの少し前、同じような場面があった。


「仕返しってわけじゃないでしょうね」

「ご冗談を。ただ、これをニトさんに持っていてもらおうと思いましてね」


 そう言って司馬が差し出してきたのは、ボウガンだった。たちまち困惑と不審が僕の神経をざわめかせる。


「どういうつもりです?」

「そのままの意味ですよ。ニトさんにも武器を持っていてもらいたいだけです。命をともにする仲間なんですからね」

「でも僕は……」

「大丈夫ですよ、他にも武器は持っていますから。それにわたしは、探知機にも気を配らなくてはなりませんからね。ニトさんの方が先に、敵に気づくことは十分にありえるわけです。そのときに素手でいたのでは話にならないでしょう?」


 司馬の言うことは理にかなっていた。自分でも身を守る道具は必要だと痛感していたのだ。なのに、僕はボウガンに手を伸ばせなかった。


「どうしました?」


 司馬は僕をのぞき込むようにして囁いた。


「まさか戦えない、なんて言うんじゃないでしょうね? わたしひとりに全部任せて、ご自分は隠れているつもりだったとか?」


 かっと顔が熱くなるのがわかった。


「見くびらないでください」


 僕は奪うようにボウガンを受け取った。

 直後、後悔した。こんなものを持って、どうする気だ?


「安心しましたよ、ニトさん」


 司馬は満足そうに微笑んだ。


「守る覚悟はあっても、戦う覚悟はないなんて、嘘っぱちもいいところですからね」

「嘘?」

「だってそうでしょう? 誰かを守ろうと思えば、敵を倒さなくちゃならないんですから」


 司馬は歩きながら、世間話をするような調子で続けた。


「逃げるだけで、大切なものを守ろうなんて、虫が良すぎるというものでしょう」


 僕は内心で激しく動揺していた。それを悟られないために、精一杯、声に力を込めた。


「だけど逃げることで、戦うことを回避することはできます」

「もちろんです。わざわざ無駄な戦いをするのは愚かですからね。逃げることもひとつの手ですよ。でも、逃げられない場合だってある。たとえば今、前後から敵が襲ってきたならどうします? やはり逃げますか?」

「それは、そのときの状況によって……」


 あまりに弱々しい僕の反論に、司馬はゆるく首を振った。


「ニトさん、そういうことじゃないんです。わたしが言っているのは覚悟の問題なんですよ。いざというときに、戦う覚悟ができているのかどうか、ということです」


 何も言えないでいる僕に、司馬は流れるように続ける。


「ひどい傷を負うかもしれない。運がなければ死ぬことだってありえる。でも武器を持って立ち向かう。相手を、敵を傷つける。打ち倒す。場合によっては、殺す。そういう覚悟があるのかどうかと、そう言っているんです」


 殺す。その一語が僕の中で大きく反響した。

 同時に、ユマノンが遺した言葉が、再び甦る。


 ――自分が生き残るために、誰かを殺す。その覚悟がある。そういうことだと思うわけです。


「覚悟をした上で、逃げると決断するのはいい。なぜなら逃げることも、戦いの中の一手ですからね。でも覚悟がなくて逃げるのは、ただの逃避です。逃げ惑っているだけだ。あまりに無様で愚かです。ねえ、ニトさん、そうは思いませんか?」


 うるさい。戦う覚悟ならできている。そう言い放ちたかった。


 多賀に弓矢で狙われたときは、マグライトを投げて反撃できたし、咲を助け出したときは、危険を承知で校舎に戻った。襲ってきたエルフェンを撃退することだってできたのだ。僕だってやれる。いざとなれば、勇気を奮い起こして戦うことができるのだ。


 本当にそうか?


 多賀のときは咄嗟の行動だった。咲のときは、たまたま途中で誰とも会わずに済んだだけだ。そしてエルフェンのときは――。


 隙を突いて催涙スプレーを吹きかけたまでは良かった。でもそのあと、僕はどうしたか。あるかどうかもわからない脱出口を必死に探していた。運良く、縄梯子を発見することができたものの、墜落死するかもしれない危険な目にもあった。


 そう、あのときの僕は、確かに逃げ惑っているだけだった。覚悟をするのが怖くて、ただ逃げようとしていた。

 僕はちゃんとわかっていたのだ。もっと簡単で安全な方法があることを。すなわち、苦しみうずくまっていたエルフェンを――殺す。


「おや、ニトさん。何だか顔色が悪いようですけど」

「ちょっと疲れているだけです」

「そうですか。とにかく誰かが襲ってきたときは、お願いしますよ。みんなの命がかかっているんです。ためらうことなく攻撃してください。手加減なんて考えないで。殺意をもって、確実に――」

「もう黙っていてください」


 追い詰められた気分だった。逃げ場はもちろん、どこにもない。

 誰のせいでもない。自分のせいだ。決断するのをずっと後回しにしてきたツケが、とうとうやって来ただけのことだ。


 で、どうする? 三影平介。腹は括ったか? 覚悟は決まったか?

 このまま何事もなく、無事に逃げ切れるかもしれないなんて、馬鹿な考えはもう捨てろ。わかっているはずだ。それが都合のいい妄想だということは。


 いくら答えを延ばしていても、じきにそのときはやってくる。そうなってからでは、もう遅い。

 二者択一の単純な問題だ。


 あなたは自分が生き延びるために、ひとを殺しますか? 殺すことができますか?


 僕は不意に思った。殺人にはハードルがあるのだと。

 誰もいない、無人のトラック。観客や審判はもちろん、競争相手もいない。自分ひとりが立っている白い空間。真っ直ぐにコースが伸びていて、ひとつのハードルが立てられている。それが殺人のハードルだ。


 普段はそんなハードルを意識する必要はない。ハードルがあることにも気づかない。気づかないままで、一生を終える者もいる。

 でも、いつかどこかで、スタートの号砲を耳にする者がいる。


 誰かは走り出す。ハードルを飛び越えるには助走がいるのだ。

 加速する。自分の意思ではどうにもならない。号砲が鳴った以上、立ち止まることも、コースからはずれることもできない。どんどんハードルは迫ってくる。


 その瞬間、人殺しが罪だとか、悪だとか、道に外れたことだとか、そんなことは一切関係なくなる。

 ただ、やるのか、やらないのか。


 そこで大きな違いが出る。とうとう越えられない者もいれば、軽々と飛び越えてしまう者もいる。

 そう、ハードルを飛び越えるのに必要な助走の長さや勢いは、ひとによって違うのだ。


 だが自分にとって必要な助走がどのぐらいなのかは、そのときになってみなければわからない。きっと、飛び越えたときに初めて気づくのだろう。


 だけど、僕は――。


 父の顔が浮かんだ。笑っている。

 吐き気がした。ボウガンがやけに重い。できるなら、すぐにでも放り出したい。


 喘ぐように息をしたとき、青い光が見えた。

 司馬が手の中の探知機を指す。ずっと消滅していたランプが、青く灯っていた。

 

 


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