4章-2 怪物の正体
悲鳴をひきつらせる咲に、僕は人差し指を立てた。
もちろん僕も、内心では驚きの声を上げていた。だが咲の存在が、僕の心を奮い立たせているようだった。目の前の少女を守れるのは、僕しかいないのだ。
僕は目と耳に神経を集中させながら、リュックをかつぎ、水筒をヒップバックに収めた。
相手は“怪物”役か、それとも冒険者の誰かだろうか。狐や狸などの動物である可能性も十分に考えられるが、そうと期待するのは虫が良すぎるというものだろう。
長居をし過ぎてしまった。とにかく安全なルートを見つけ出し、一秒でも早く、この場を離れる必要がある。護身用具のひとつもない現状では、誰かと遭遇しただけで、重大な危機に陥ってしまう。
戦う気がなくとも、武器となるものは必要だと痛感した。武器がなければ、自分たちを守ることさえできない。だが後悔したところで、今はどうにもできない。
たっぷりと一分は息を潜めていた。静寂が続く。相手もこちらに気づいていると考えるべきだろう。
迷った末、こちらから動くことを決意した。幸い、周囲に生えている草の背は高い。姿勢を低くしていけば、容易に位置を悟られることはないはずだ。
僕は足元に落ちている石を数個、拾い上げた。手に余る分は、ポケットに入れておく。
「いいかい? 僕が走り出したら、あとを付いて来るんだ」
咲がうなずくのを見てから、僕は遠くの草むらの中へ、石をまとめて放り投げた。石たちは宙で散り散りになり、それぞれが別の場所で茂みを揺らす。
刹那、僕は石を投げた反対側へ走り出した。
走りながら、さらに石を背中越しに投げていく。その度、草むらの何箇所かがいっせいに騒ぐ。
単純な方法だが、相手の目を眩ませる効果はあるはず。そう信じて、僕は走った。
「た、助けてくれぇ!」
唐突に叫び声が僕の耳朶を打った
「お願いです。殺さんでください!」
僕は思わず立ち止まっていた。男の声だ。しかもかなり近い。
誰だ。さっきの物音を立てた相手だろうか。見当をつけていた場所からは、随分とずれている。罠かもしれない。だが男の声には、真の恐怖が感じられる。
どうする? 焦りが鳩尾から這い上がってくる。このまま叫ばれているのはあまりにも危険だ。他の誰かに、見つけてくれと言わんばかりだ。
無視するのが最善の策だ。理性はそう訴えている。見捨ててしまえ、と。
咲がすがるように僕を見上げている。
迷いが増幅する。咲を危険な目に遭わせるわけにはいかない。しかし――。
「くそっ」
僕は舌打ちし、声のする方へ走った。目指す場所はすぐにわかった。泣き声のような悲鳴とともに、野原のとある地点が激しく揺れ続けている。
身を隠したまま近づくと、草々の隙間から、わめく男の顔が見えた。痩せこけた顔にしわが走っており、髪は伸び放題で乱れている。初老と言ってもいい年頃だろう。両手を挙げ、恐怖に引きつった顔をきょろきょろと動かしている。
僕は背後から近づき、声をかけた。
「静かに。静かにしてください」
男はひときわ高い悲鳴を発した。四つん這いになって逃げようとする。
「た、助けて。見逃してください」
「黙って。声を上げないで」
僕は右手の人差し指を口元に当てながら、左手を宙を押さえるように動かし、男に落ち着くようにと伝えた。
男は目を限界まで見開いたまま、声と動きをぴたりと止めた。僕の努力の甲斐はなく、男を黙らせたのは咲の存在だったらしい。男は「どうして女の子が……」とつぶやいて、目をしばたかせた。
僕は男のそばに片膝をつき、ゆっくりとした口調で言った。
「僕たちは敵じゃありません。あなたを襲うことはない。だから騒がないで。いいですね?」
言葉の意味を飲み込むような数秒のあと、男はこくこくと首を縦に動かした。
男は長袖のシャツにジャージのズボンという格好をしていた。武器となるようなものを隠せる場所がないのはひと目でわかった。だが、念には念を入れる必要がある。
「一応、あなたの体を調べさせてもらいます。そのまま動かないで」
男が再びうなずくのを確認したところで、僕は見よう見まねで男の体の各部を軽く叩き、順に調べていった。
大丈夫。男は何も隠し持ってはいない。僕はようやく肩の力を抜くことができた。
何から訊ねるべきか迷った挙句、僕はまず名乗った。
「僕は三影です。この子は咲。あなたは?」
「わしは美濃部です」
男は罪を白状するかのように、小さくなりながら続けた。
「宿なし職なしのモンです」
「え?」
一瞬、戸惑ったあと、僕は男――美濃部がホームレスであることを理解して、小さくない衝撃を受けた。
「どうしてこんなところに?」
美濃部は僕の顔色をうかがうようにしながら、ぼそぼそと答えた。
「連れて来られたんです。いい仕事があるからと聞かされて」
「仕事?」
「一晩で最低十万。うまく働けば、もっと貰えるって話でした」
「その話はどこで?」
「わしらが寝泊りしている橋の下に男が来よったんです」
スーツ姿で、気味が悪いぐらいにこにこと笑っている男だったと、美濃部は話した。
佐々木だ。直感したが、美濃部たちには「鈴木」と名乗ったということだった。おそらくはどちらも偽名なのだろう。
「裏のある仕事だとは思いましたけど、十万は魅力でした。美味いモンにもありつけるし、その……」
美濃部はちらりと咲のことを見てから、恥じ入るように付け加えた。
「久しぶりに、風呂にも行けるって」
美濃部の言う“風呂”がどういうところなのかは察したが、それはどうでもいいことだった。問題なのは、その“仕事”の内容だ。僕は胸が悪くなるだろうことを予感しながら、問いを重ねた。
「仕事を受けたんですね」
「はい。人手がいるってことだったんで、近くに住む仲間たちといっしょに。前金で二万貰った上、酒と食事もついとって、わしらはみんな喜んでました」
「全員で何人だったんです?」
「わしらの仲間だけで五人。他のところから呼ばれて来た連中もいたので、二十人ぐらいはいよったと思います。言葉を聞いてるだけで、色々なとこから集められたんだとわかりました」
そう言う美濃部の言葉にも、妙なアクセントがついている。が、それがどの地方のものかは判別できなかった。
「それで?」
「酒に酔っ払って眠っているうちに、わしらはこの山ン中まで連れて来られてました。車を降りて案内された先には、異国のもののような変わった格好をした連中が待っとりました。そこでわしらは頭巾の付いた外套を着させられたんです」
美濃部はゆっくりと思い出すように、言葉を続ける。
「どういう仕事なんだろうと首をひねっておると、今度は物騒なモンを渡されました。刃物やバット、弓矢みたいな道具です。これはただ事じゃないぞと気づいたときには遅かったです。わしらはようやく聞かされました。これは人殺しをする仕事なんだと」
そして仕事の全容を聞かされたという。廃村を舞台とした、殺人ゲームのことを。
美濃部が訴えるように話すのを、僕は奥歯を噛み締めながら聞いていた。
「ここでは何をやっても罪になることはないと言われました。だからためらったり、怖がったりすることはないんだと。けれどもそんなことで納得できるわけはない。そんでひとりが言いよったんです。俺は仕事を下りる。金は返すから、町まで送れと。するといきなり……」
美濃部は額に手をやり、言葉を絞り出した。
「撃たれたんです。鉄砲で。信じられませんでした。だけど目の前で撃たれた男は、そのまま二度と起き上がりません。連中は言いました。もう後戻りはできない。生きて帰りたいなら、誰かを殺すんだと」
「……」
「もう逆らうことなんてできません。ゲームの参加者の誰かがゴールすれば、わたしたち全員が殺されるという決まりでした。参加者を殺せば、ひとりにつき百万の賞金が出るってことでしたが、そんなことはもう関係なかったです。自分が生き延びるために、わしらは人殺しの道具を手にしたんです」
僕は激しく憤る思いをため息に変えた。このゲームを仕組んだ連中に対する、ぶつけようのない怒りとやりきれなさが胸の中で暴れている。
一方で、抱き続けていた“怪物”役への怖れは、急速に薄れていった。自分が襲われたにも関わらず、恨みや怒りも湧いてこない。
“怪物”役に仕立て上げられた人たちも、同じ被害者なのだ。ホームレスという社会的弱者であることを利用され、無理矢理に殺人ゲームに引き込まれてしまった。
僕は自分が遭遇した“怪物”役たちのことを思い出していた。もちろん、ゲームに乗る気になった者もいたかもしれない。でも多くの者は恐怖に縛られた上での、選択肢のない行動だったのではないだろうか。
「わしらは幾つかのグループに分けられて、それぞれの持ち場につかされました」
「持ち場?」
「ようわからんのです。とにかく村のあちこちに連れて行かれ、その場で待つように言われました。どこからどこまでと動ける範囲も指定され、その場所から出るのは駄目だということだったです」
僕はその意味がすぐにわかった。怪物の出現範囲だ。
『ウロボロス』では、迷宮のどこにどんな怪物が出現するかは、あらかじめ設定されている。そのデータに合わせて、“怪物”役の行動範囲も決められていたのだろう。
「美濃部さんはどこに?」
「わしは仲間の三人といっしょに、小学校近くの空き地が持ち場でした。そこで待ち構えて、ゲームの参加者が来れば襲うように言われたんです」
ジャンヌがやられていた場所だと察した。土管や鉄パイプが放置されていた広場のことだ。
「最後まで迷ってました。どこかまだ、信じられん気持ちもしとったんです。そこへ四人の参加者がやって来ました。みんな、震えました。けれど、やらんと自分が殺されるぞ言うて、ひとりが飛び出し、わしらも続きました」
美濃部は固く目を閉じ、声を震わせた。
「すぐに何がなんだかわからんようになりました。叫び声がそこらから聞こえて……。倒れた仲間には矢が突き刺さってました。わしは怖くなって逃げました。仲間がどうなったのかは、わしにはわかりません。それからわしは外套も刃物も放り出して、ずっと隠れとったんです」
僕はそっと悲嘆の息を吐いた。あの現場には、三人の“怪物”役たちの亡骸が転がっていた。すなわち美濃部以外の全員が命を落としたということだ。伝える必要はない。そう考え、僕は口をつぐんだ。
美濃部は全ての告白を終えたことで気が抜けたのか、しわの深い目元に涙をにじませた。
ただひとつ気になることがあった。
「持ち場が決められたのはいいとして、そこに参加者が来なかった場合はどうなったんです? 場所によっては、参加者が誰一人来ないこともあるわけですよね」
目頭をシャツの袖で拭ってから、美濃部は言った。
「そんときは、みんなで追いかけることになっとりました。仲間のひとりが無線機を渡されとったんですけど、それに連絡があるってことでした。それを聞いて、みんなで参加しとるモンを追いかけろと」
美濃部はあっさりと言った。もはや自分には関係のないことだと思っているのだろう。だが僕は胸の中に、冷気が満ちるのを感じた。
「それは、いつからなんです」
「午前二時です」
僕は慌てて携帯電話を取り出し、時刻を確認した。表示は『01:47』。“怪物”役たちの追跡が始まるまで、あと十三分しかない。
僕は血の気が引くのを感じながら、立ち上がった。