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3章-9 廃校⑨ ~狂気の神官~


 エルフェンが滑るような足取りで、僕たちの前に立った。相変わらずの無表情が、僕たちをじっと見つめている。


「しばしお待ちを。今、精霊を召還します」

「え?」


 言葉ははっきりと聞こえたが、意味が理解できなかった。だが問い返せなかったのは、エルフェンがその手に注射器を持っていたからだった。


 ぞくりと背筋が粟立つ。まさか毒物か何かだろうか。

 ゲーム開始時のことを思い出す。魔術師の香澄と僧侶のエルフェンには、ポシェットが支給されていた。

 香澄に支給された中身が花火と火炎瓶だったことを考えれば、同等に危険なものが入っていたとしても不思議ではない。


 だがエルフェンがその針を突き立てたのは、自分の腕だった。注射器の中の液体を、親指がゆっくりと体内へ押し込んでいく。


 ふう、と息をつきながら、エルフェンは空になった注射器を投げ捨てた。

 冷や汗がにじむ。もはやエルフェンがどういう人間なのか、疑う余地はなかった。


「召還完了。魔眼を発動させます」


 再びエルフェンの視線が僕たちを射抜く。その眼光はさっきまでの茫洋としたものではなかった。静かだが、どこまでも見通すような鋭さがあった。


「……全てを理解しました。その少女、財宝ですね?」


 鼓動が大きく跳ねる。

 エルフェンは手に持った鎌を前に突き出した。その刃は、少女へ真っ直ぐに向けられている。


「神官である私よりも、穢れのない美しい姿。しかしその存在はひとを堕落させる……」


 相変わらず言っていることはわからなかったが、エルフェンの様子がおかしいことは明白だった。そしてそのこと自体が、彼女が何者なのかを雄弁に物語っている。

 ディスクの情報にあった“重度の薬物中毒者”。それがエルフェンなのだ。

 

 危険な気配を察し、僕は少女をうしろにかばうように引き寄せた。

 司馬と目が合ったが、肩をすくめただけで動こうとはしない。どころか、エルフェンの変貌を楽しんでいるようでさえある。


「すいません。彼女がこうなったら、誰にも止められませんよ。先ほども“怪物”三体をおひとりで倒されたんですから。僕はただ後ろに隠れてついて行っているだけでして」


 エルフェンが奇声を発した。天に祈るかのように、両腕を大きく開いて頭上に掲げる。が、神聖な気配が微塵も感じられないのは、その手に鎌が握られているからだ。


「下がって」


 少女をうしろへ押しやろうとしたとき、エルフェンが叫んだ。


「エステマン神の御名のもと、このエルフェンが悪魔を浄化いたします!」


 こちらに向き直ったエルフェンの顔に、僕は唖然とした。

 今までの無表情が一変していた。かっと見開かれた目には怒りが満ちていた。鼻にしわを寄せ、唇をまくれ上がらせて歯を剥き出しにしている。ふーっと呼気を高鳴らせる仕草は、猫の怨念にでも取り憑かれたかのようだった。


「エルフェンさん、聞いてください。この子は確かに財宝のひとつとして、閉じ込められていました。でも五千万円を手に入れるための鍵は他にあるんです」


 僕は必死に呼びかけた。司馬に聞かせたくない情報でもあったが、今はなりふりかまっていられない。


「残念です」


 エルフェンが深々と息を吐き出した。


「あなたは神官であるこの私が、金銭ごときに目がくらむとでも?」

「え……?」

「あなたもすでにその悪魔に魅入られているようですね。でも安心して下さい。あなたの魂も私が浄化して差し上げます」


 僕は目の前が暗くなった。

 エルフェンは僕たちとは全く違う思考で物事を捉え、全く違うものを視ている。もはや言葉が通じる相手ではない。


 エルフェンはゆっくりと一歩ずつ、足を踏み出し始めた。両手の鎌に黒いドレス姿があいまって、巨大な黒いカマキリが迫ってくるようだ。

 

 鬼気さえ漂う雰囲気に圧倒され、僕たちは後退った。だが階段はエルフェンの背後だ。うしろに下がったところで逃げ道はない。屋上へ続く扉があるだけだ。

 

 屋上? その言葉に、僕は引っ掛かるものを感じた。屋上という言葉に神経のどこかが反応する。いつ、どこで、それを?

 電光が頭を走り抜けた。そう、パソコンにあった情報だ。賢者の塔。その最上階には――。

 

 不意にエルフェンが咆えた。人語では解せない叫び声だった。

 僕が身構えるよりも早く、エルフェンが飛びかかってきた。

 

 咄嗟にモップを横にひと振りさせた。反射的な行動だったが、逆に手加減はなかった。

 木材と鉄がぶつかり合う、乾いた音が鳴る。手のひらに、じんと衝撃が伝わった。

 

 交差させたふたつの鎌に、モップは難なく受け止められていた。にっとエルフェンが笑う。

 慌ててモップを引き戻した。その瞬間に、エルフェンが大きく一歩を踏み込んでくる。

 高々と振り上げられる三日月形の刃。

 

 声にならない悲鳴を上げながら、水平に持ったモップを前に突き出す。今度は僕が鎌を受け止める格好となった。

 僕は力任せに押し返そうと、腕に力を込めた。刹那、ふっと抵抗が消えた。

 

 エルフェンがうしろに飛び退いていた。行き場を失った力の勢いに、僕の身体は前へよろめいた。

 まずい。戦慄が背筋を冷やす。と同時に、少女の声が聞こえた。


「危ない!」


 無我夢中でモップを一閃させた。

 空気を裂くような音が、辺りを震わせる。僕の一撃が、窓ガラスを粉々に砕いていた。

 ガラス片が舞い落ちる向こうで、鎌を交差させながらエルフェンが微笑んでいた。


「精霊の召還を受けた私を傷つけることは不可能です。怖がることはありません。ヘブレイムの丘で幸せに暮らしなさい」


 ぞわりと新たな恐怖が忍び寄る。言葉とは裏腹に、エルフェンからは濃密な殺意が流れ出していた。

 

 僕はモップを引き戻し、竹刀の要領でそれを構えた。毛のついたモップ部分を手前にする。長い棒状のものは、重量のある側を手元にした方が扱い易い。中国のカンフー映画から教わった知識だ。

 

 気づくと司馬の姿が消えていた。悔しいが、懸命な判断だろう。争いの声や物音が、いつ“怪物”役たちを招き寄せるとも限らない。

 

 僕たちも早くここから離れるべきだった。だが階段にたどり着くには、エルフェンをどうにかやり過ごす必要がある。だが、どうすればいい?

 

 迷ったのは数秒。深く考えている時間はなかった。

 エルフェンとにらみ合ったまま、僕は少女に向かって言った。


「屋上へ逃げるんだ」


 すぐに背後で少女が動く気配があった。ドアが開かれる軋んだ音。途端に夜風が入り込んでくる。


「お兄さん、早よ!」


 僕は正面を向いたままゆっくりとニ歩下がり、三歩目で身を翻した。


「待ちなさい!」


 エルフェンの怒声を無視して、一気にドアをくぐり抜ける。僕が屋上に出たところで、少女がドアを閉めた。

 僕はドアのすぐ脇の壁に、背を張りつかせた。ポケットを探る。今こそ、これが役に立つ。


 間髪入れずに、再びドアが開いた。僕は前に飛び出した。

 驚いたエルフェンの顔。僕は右手をエルフェンに向かって突き出した。


 ――そこでコツなんだけど、まず相手の胸元を狙って噴射するの。それから腕を真上に振り上げる。するとそのまま相手の顔面に催涙液がヒットするってわけ。ちなみにボタンを押す指はひとさし指じゃなくて、親指の方がいいんだって。


 香澄の教えに従い、親指でボタンを押して催涙スプレーを噴射する。

 思った以上の勢いで、催涙液が飛び出した。最初は胸を狙い、そのまま腕を真っ直ぐ上へ。催涙液は一筋の線となって、エルフェンの胸から顔面を濡らす。


 絶叫が上がった。エルフェンが顔を抑えながら、その場に崩れる。

 すぐにエルフェンは激しくむせ始めた。叫び声と息づかいが混然となって、狂乱した動物の鳴き声のような嗚咽に変わる。


 僕は指が固まってしまったように噴射ボタンを押し続けていたが、すぐにスプレーは沈黙してしまった。もともと手のひらに収まるような小さな品だけに、噴射の持続時間も短いらしかった。


 催涙スプレーの威力は抜群だった。エルフェンは激しく暴れているものの、まともに立ち上がることができない。


 ただエルフェンは、ドアの前からは動こうとはしなかった。服の袖で必死に顔面を拭いながら、もう片方の手で、鎌を無茶苦茶に振り回している。エルフェンは目を閉ざされ苦悶しながらも、絶対に逃がさないという執念を全身から発散させているようだった。


 僕は唇を噛んだ。できれば隙を見て、エルフェンのかたわらをすり抜け、階段まで戻るつもりだった。

 しかしエルフェンは出入り口を完全に塞いでいた。無理に突破するにも、あまりに危険過ぎる。鎌の一撃を喰らうだけで大怪我は免れないし、運が悪ければ致命傷になるだろう。


 残っている手はひとつしかない。あまりに不確定な要素ではあったが、それにすがるしかなかった。

 


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