3章-7 廃校⑦ ~財宝の間~
運動場を横切り、僕は最初に入った通用口へと回った。四階へ行くには、この通用口から入り、階段を上っていくのが最短距離となる。
モップを両手で持ちながら、今度はひとりで、同じ手順を繰り返していく。通用口の壁から広間をのぞき、ひとの気配がないことを確認してから足を進める。メッセージの書かれた黒板の前を通り過ぎ、廊下も警戒しつつ、壁際に沿って階段を上っていく。
大して動いていないのに、すぐに息が上がり始めた。
緊張と不安に押し潰されそうだった。ひとりになったという事実が、肌に迫ってくる。一歩進む重圧が、比べものにならないぐらいに大きい。
ほんの数秒経つだけで、一度確かめたはずの場所に誰かが潜んでいる気がしてくる。物陰から誰かが襲ってくるのではないか。後ろから不意を突かれるのではないか。
さっき水を飲んだばかりなのに、もう喉が渇いていた。ふいごのように息が音を立てている。
二階を過ぎ、三階へ到達した。
初めて踏み入る階層だ。地上から離れる分、危険度が増すように感じる。が、目指すのはさらに上だった。
急がなくてはならない。その思いが、僕を内面で追い立てていた。
学校を早く離れたいこともある。“怪物”役や、冒険者である他のメンバーに遭遇したくないというのも正直な気持ちだ。
しかし何よりも僕が怖れているのは、香澄と対峙することだった。
もう一度、香澄と向き合ったとき、僕は何を言えばいいのか。何を言うことができるのか。
もう一度、香澄が殺意を向けてきたとき、僕はどうすればいいのか。どうすることができるのか。
わからない。でもひとつだけはっきりと予感するのは、どういう形になるにしても、お互いにとって、もはや悲劇にしかならないだろうということだった。
壁に背を張り付かせ、三階の廊下をのぞこうとした。不意に遠くで何かが壊れる音と、叫び声が聞こえた。
息を押し殺しながら、顔半分だけを壁からずらし、廊下の先を見た。
遠くに人影を認めることができた。冒険者側の誰かが、“怪物”役と死闘を繰り広げているに違いない。
僕は香澄でないことを祈った。
それは無自覚の思考だった。そしてひとの命を天秤にかける行為でもあった。
ひとを殺すところを目の前で目撃し、自分自身が殺されかけた今であっても、僕にとってはやはり香澄の存在が一番大きかった。他のメンバーのことは、ほとんど脳裏をかすめさえしなかった。
人間が感情の動物だとは、よく言ったものだ。感情に左右され、ときにひとは憎むべき相手を愛し、ときに発作的な衝動に駆られて愛すべき相手を殺すのだ。
僕はきびすを返し、いよいよ四階へ向かった。壁面の色が途中から白っぽく変わる。やはり四階部分だけ、のちに増築されたもののようだ。
階段を上り切ったそこは、小さなT字型の空間となっていた。
運動場側となる正面の壁面には窓が並び、左右に短い通路が伸びている。
右側の奥にある扉は方向的に屋上へ出るものだろう。鉄線入りの曇りガラスをはめ込んだ、分厚い鉄のドアが鎮座している。その手前にはトイレが造られていた。
そして左側の奥には教室がある。無論、僕が向かうべきは左の扉だった。
プレートを一瞥したが、そこには何も記されていなかった。無地のプラスチック板が掲げられているだけだ。
扉は他の教室とは違い、小さな小窓のついた開閉式のものだった。僕は小窓の隅から中をのぞいた。
図書室でのことを繰り返さぬように、誰かに待ち伏せされていないかを確かめるつもりだったが、そんな必要はなかった。ひと目で、人間が隠れられる場所など、どこにもないないことがわかった。
扉をそっと開き、中へ足を踏み入れた。部屋が最上階であることと、左右に窓が並んでいるために、今までのどの教室よりも明るかった。
僕は改めて部屋を見回した。
無慈悲に思えるほど、何も置かれてはいなかった。机や椅子、ロッカーはもちろん、黒板さえこの部屋には存在していない。あるはずだと思っていた“財宝”さえも。
そんな……。内心のうめきとともに、焦りが急速に広がった。もしかして、思い違いだったのか。
目の前が闇に閉ざされるような感覚があった。今からまた校舎の中を駆けずり回り、“財宝”を探さなくてはならないのか。それで本当に間に合うことができるのか。
いや、冷静になれ。パソコンの情報では、確かに財宝は塔の最上階にあると記されていたのだ。ならばここで間違いはないはずだ。
“財宝”が二種類あることを、もう一度考える。小切手だけなら、ちょっとした隙間にでも隠すことは可能だ。しかしもうひとつの“財宝”が僕の思っている通りのものであるのなら、そういうわけにはいかない。段ボール箱でも駄目だ。もっと大きい空間が必要になる。
と、なれば――。
僕は電流を受けたように、顔を跳ね上げた。そのままきびすを返し、部屋を飛び出す。階段の前を横切り、向かった先はトイレだった。
男性用と女性用が隣り合っている。
思った通りだった。緊張と焦りで見落としていたが、女性用トイレの扉の取っ手が鎖で巻かれて施錠されていた。錠前がぶら下がっており、てるてる坊主を思わせる形の鍵穴が開いている。
急いで鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。祈りを込めるように、ゆっくりとひねる。
鈍い金属音が響き、鍵が外れた。よし、と胸中に叫んだ。錠前といっしょに鎖をほどくと、ようやく扉が自由になった。
もはや条件反射的に警戒しつつ、中へ足を忍ばせた。当たり前だが、女性用トイレに入るのは始めての経験だ。どこか背徳的な気分になってしまうのは、男に生まれた性だろうか。
トイレ内の闇は濃密だった。扉を閉めてすぐ、僕は頭のライトを点けなくてはならなかったた。曇りガラスの小窓が奥に備わっているだけで、通気性も悪い。こもった熱に、すぐに息苦しくなる。
だがトイレ自体は比較的新しい造りの、きれいな内装をしていた。大きな鏡の前に洗面台がふたつ。個室は手前から奥に向かって、みっつ並んでいた。
僕は個室の前へ回った。ライトの光が真ん中の個室の扉を照らした。マジックで書かれたメッセージが浮かび上がる。
『 財宝の間 鍵を手に入れし勇者よ、汝の欲する財宝を左右の間からひとつ選べ』
僕は一瞬ためらってから、入り口に近い左の扉を開いた。
洋式の便座。閉じられた蓋の上に、小さな箱が乗っていた。金庫だった。
僕は金庫を持ち上げてみた。見かけ以上に重かった。
金庫はトイレの壁に打ち付けられた鎖につながれていた。試しに引っ張ってみたが、とても壊せそうにない。
金庫を振ってみた。何の音も聞こえなかったし、感触も伝わってはこなかった。が、この中に五千万円の小切手が入っていることは間違いない。
金庫には不釣合いなほど大きな錠前が付いていた。やはりそこには、てるてる坊主の形をした鍵穴がある。
魅入られるように、僕はじっと鍵穴を見つめた。ここに鍵を突っ込むだけでいいのだ。そうすれば五千万円が手に入る。五千万円さえあれば――。
ふと過ぎった暗い考えを、僕は慌てて追い払った。そんな必要はないのに、右手に持ったままの鍵を思わず背中に隠した。
金庫のある個室をあとにして、僕は一番奥の個室の前に立った。
すぐに扉を開くことはできなかった。目の前にあるのは、ただのトイレの扉だ。でも僕にはそれが、とてつもなく大きな扉に思えた。
それは僕にとってのパンドラの箱だった。一度開けば、運命も変わってしまうような、巨大な不安があった。ちゃんと最後に、希望は残っているのだろうか。
僕は取っ手に手をかけた。難なく扉は開いた。
限界まで見開かれた双眸とぶつかった。
ひとりの少女がいた。個室の隅にうずくまっている。
下着姿。口にはタオルの猿ぐつわ。怯え切った表情で、小刻みに震えている。
不自然に片手を上げているのは、手錠につながれているからだった。手錠の先は、金庫と同じように壁に打ち付けられている。
驚愕はあったが、それはあらかじめ予想していたものだった。運転手の男が言い残した言葉から、僕は悟っていた。この少女こそ、もうひとつの“財宝”なのだ。
静かに。そう伝えようと、僕は口元に指を立てた。
少女は許しを請うように首を振った。鼻息が荒いリズムを刻む。少女の瞳には涙がにじんでいるのがわかった。
僕は慌ててヘルメットをはずした。逆光となり、少女からは僕の顔が見えていないことに気づいたからだ。
ヘルメットを脇に抱え、今度は小声で言った。
「静かに。落ち着いて。僕は君を助けに来たんだ」
僕は腰をかがめ、少女の目線の高さになって話しかけた。
「いいかい? 声を出さないで。何もしないから、安心するんだ」
どれだけ伝わるかと危惧したが、少女は怯えた目をしながらも、すぐにうなずいてくれた。
「よし、いい子だ。まず口のタオルをはずすよ。怖がらないで」
少女がもう一度うなずく。僕は笑みで応えてから、少女の頭に手を回し、タオルをはずした。
ぷはぁ、と少女が大きく息をついた。余程、息苦しかったに違いない。少女は喘ぐような呼吸を繰り返した。
「大丈夫かい? すぐに手錠もはずすから」
僕は少女の左手を拘束している手錠を手に取った。
「お兄さん、誰なん?」
少女の第一声だった。妙なアクセントがある。すぐに関西弁だと気づいた。
「自己紹介はあとだ。今は急いでここを出なくちゃいけない」
僕がそう言うと、少女は「ん、わかった」と素直にうなずいてくれた。
急いで僕は手錠に鍵を差し込んだ。慎重に回す。小さな手応えとともに、手錠が弾けるように開いた。
鍵を抜こうとしたが、不可能だった。錠前が鍵に喰らいついたように、もはや微塵も動かない。なるほど、“財宝”をつないだどちらかの錠前を開錠すると、鍵は使い物にならなくなる仕掛けなのだろう。冗談でも金庫の方の錠前で試さなくてよかったと、僕は胸を撫で下ろした。
少女に早く行こうとうながしかけて、僕は思い止まった。
少女は手錠のかけられていた手首をさすりながら、所在無げに体を小さくしていた。当然だろう。少女は下着にスニーカーを履いただけという姿だった。
よくはわからないが、細い手足からすると、十ニ、三才というところだろうか。裸同然の姿でいるのは苦痛であるに違いない。
「ちょっと待って」
僕はリュックをまさぐって、雨合羽を取り出した。山の天気は変わりやすいからと、持参してきたものだった。
「これを着るといい。ちょっと暑いだろうけど」
雨合羽は上下が別になっているものだったが、少女の背丈からすれば、上着だけで十分、股の下までを隠すことができた。
「おおきに」
小さな声で言って、少女はぺこりと頭を下げた。
「行こう。ここにいると危険なんだ」
僕が危惧しているのは、香澄とここで、再び出会ってしまうことだった。
僕の考えを聞いていた香澄は、必ずこの四階へやって来るだろう。香澄がどういう経路でここを目指しているのかはわからないが、たどり着くのはそう先のことではないはずだった。
出口に向かいかけた僕を、しかし少女が呼び止めた。
「あの、ちょっとトイレ……。かまへん? すぐ済むし」
少女は申し訳なさそうに、上目遣いで言った。が、今は一刻を争うときだった。
「悪いけど、もう少し我慢できないかい? ここを離れればすぐにできるから」
「でも、ここ水が出えへんし、ずっと我慢してて」
恥ずかしそうに少女がうつむく。僕もそれでやっとわかった。水が流れないトイレ。誰かがやって来るかもしれない状況。そのふたつの要素が、少女にトイレをすることをためらわせていたのだろう。
僕はちょっとうろたえながら言った。
「わ、わかったよ。外で待ってるから」
少女の表情がぱっと明るくなる。
「おおきに。すぐに終わるさかい、ちょっとだけ待ってて」
「あ、これを」
僕はヘルメットのライトと、水筒をひとつ手渡した。
「明かりと水。手を洗わないと、気持ち悪いだろ」
もう一度、おおきに、と言ってから、少女は個室に入った。僕は何だか落ち着かない気分でトイレの外へ出た。
ほんの刹那、僕は今自分が置かれている状況のことを忘れそうになっていた。




