葵サイド
「有名人なんですね」
「まあね。地元限定やけどね」
「あの……私もサイン貰えますか?」
バイクに跨ってヘルメットを手にしていた純也が
「ペン持ってる?」
「いえ……持ってないです。だから……今度会った時でいいですから。あの……」
「えっ?」
「携帯……番号……無理ですよね」
「へえ。葵ちゃん、大人しそうやのに初対面の男に気軽に携帯番号聞けるんや」
「す……すみません。馴れ馴れしくて」
「ええやん。今時の子らして。ええよ。その変わり悪用せんといてよ」
葵は赤くなった顔を横に振って
「悪用なんてしません。絶対しません」
純也が腰に巻き付けていた小振りのウエストポーチから黒の携帯電話を取り出した。
葵も急いでカバンから携帯を取り出し、赤外線受信を交わした。
「ありがとうございます」
純也に頭を下げた。
「これって瞬には内緒ってことやよね」
「瞬君とは今日、バイト先で声掛けられて、遊園地で遊んだだけだし……」
「じゃあ、瞬の彼女じゃないんや」
「はい……」
「葵ちゃん、おもろいわ。瞬も軽い奴やけどなぁ。つまり、あいつにナンパされたんやね」
純也がヘルメットをパンパン叩いて笑い出した。
「そう……なりますかね」
「じゃあ。今度は俺が葵ちゃんナンパしよか?」
「はぁ?」
私鉄の終着駅でもあるこの駅に電車が到着したのか人がゾロゾロと駅構内から出て来た。
その光景に少し慌てた純也が
「嘘や。嘘や」
そう言いながらヘルメットを被り、バイクのエンジンをかけた。さっきの高校生たちがしたように、気付かれて取り囲まれる恐れがあるからだろう。
そして、一回葵に手を挙げて、あっと言う間にロータリーをクルリと迂回し、県道へと消えた。
葵は久しぶりに聞いた関西弁の純也との別れがとても寂しく感じた。暫く純也が消えた県道の交差点にある信号機を見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。宙とは似ても似つかない純也だったが、今の葵にとってはずっと傍に居て欲しいと思える存在だった。
初対面でどんな人物かも知れないのに、関西弁を喋る男の子なら誰でもいいと思った。そんな軽く、なおも宙を求めている自分に気付き、大きなため息を付いた。葵は手に持っていた携帯電話をカバンに直し、美津子のアパートへと向かった。
二階建ての小奇麗なアパートの階段を上り、二つ目の部屋のドアを叩いた。
「お帰り。意外と早かったね」
「はい、駅まで知り合いにバイクで送って貰いましたから」
「バイクで?」
美津子が驚いた顔をした。
「はい」
「仕事場の人?」
「はい。そうです」
カバンをリビングのソファに置きながら、美津子の顔も見ずにそう答えた。
「今夜はね、ミチルの好きなコロッケ作ったのよ。さっお腹空いたでしょ?食べよ」
自宅に居た時には考えられなかった、あげ膳すえ膳。共働きだった葵の両親との生活では考えられないことで、考えたこともなかった。
学校の授業を終え、宙の家で二時間ほど過ごし、帰りはスーパーに立ち寄り夕飯の買い物をする。帰宅後直ぐに年の離れた弟と妹の夕飯の支度。
そんな生活を繰り返していた葵にとって、それがあたり前のことで、家に帰ると夕飯を直ぐに食せることはピンとこないものだった。
そんな母親としての美津子には感謝している。優しい母性愛を感じていた。葵の母親は家のローンと引きかえに、ゆっくりとした時間と子供に向ける母性愛を無くしたんだと、ここで生活するようになってから、そう思えるようになった。
家を建てると言うことは大変なことで、それでも自分たちの為にと親が建てたのだからと感謝はしている。でも、その為の代償は大きいかも知れない。
成長して大人になり、いずれ家を出ることになるのなら、まだ、子供の内は、この母性愛を感じていたいと、単純にそう思った。
贅沢な家など……いらないんじゃないのだろうか?この綺麗に整理整頓された小さなアパートを見渡しては満足している自分がいた。
葵がこのアパートに住むまでは、遊園地内の和風レストランでパート勤務している美津子の就業時間は五時までだった。それを二時までに変更し、こうして葵の帰宅を待っていてくれているのだ。
嬉しそうに微笑みながら葵の湯飲みにお茶を注ぐ美津子とは本当の親子のような錯覚を起こしそうだった。
夕べ、妹のさくらからメールが届いた。早く帰って来て欲しいとのことだった。葵の代わりをさくらがしているのだろう。学校の授業内容も気になっていた。この休んでいる時間、人におくれを取っているのは確実で、ただでさえ落ちこぼれ寸前組みの葵はこのままここに居つづければ単位を落とし、留年することになるだろう。
前期の中間テストまでには復帰したい。最近はそんな事ばかりを考えている。
後、一週間だけ美津子の傍に居て納得させてから元の生活に戻ろうとそう思いながら手作りのコロッケを頬張った。
「ミチル?今日ね、桂木さんって男の人から電話があったわよ。帰ったら掛け直すっていっておいたから。桂木さんって……もしかして……宙君?」
美津子が夕飯を食べ終えたばかりの葵にそう伝達して来た。
「はい。後で……電話します」
葵はその場を逃げるように、自分に宛がわれた四畳半の和室に閉じこもった。
宙がこのアパートの固定電話に電話を掛けて来た。先日話をした杉本沙耶から聞いたのだろう。
葵はカバンから携帯電話を取り出した。遅かれ早かれ、いずれ宙に言わなければならないこと。聞かなければいけないこと。
携帯を握りしめたまま瞳を閉じた。そして、生前のミチルが書いた宙に宛てた最後の手紙を思い出した。
ミチルと宙の文通は中学卒業と同時に終わっていた。葵の推測だが、二人はきっと同時に携帯電話を購入したのだろう。だから、必ず交わされていた月一の手紙がピタリと終わっていたのだ。携帯があれば文通する必要は無い。その中で、ミチルが最後に宙に宛てた手紙を発見した。
日付が二年前の六月二十五日で、速達の朱印が押してあった。その日はあの惨劇があった三日前。手紙の内容は、とにかく一度宙に帰って来て欲しいと言う内容だった。翼が悪事を働こうとしているのではと言う相談ごとと、その悪事に宙も関係しているのでは無いかと、宙を一方的に責める文面だった。
手紙の中でミチルの写真以外に見付けた物。それはミチルたちの住む地域の最寄の駅のレシート。あの駅は利用客が少なく、無人駅となっていた。その駅の券売機のレシートだった。
レシートの日付は六月二十七日。あの惨劇があった日の前日……宙はあの地で……ミチルに会っていた証拠となる物。その直後……ミチルは誰かに強姦され自殺した。
ミチルの父親は……翼を強姦相手だと確信し銃を持ち出した。そう確信したのはなぜだろう。確信せざるを得ない状況を目撃したからでは無いだろうか?
翼は……その日は警察で事情聴取を受けていた。その日、宙はあの地に帰っていた。ミチルの父親はミチルと一緒にいる宙を目撃したからではないだろうか?
その直後に強姦されたミチルが自殺。
宙を翼と間違えての犯行だったのだ。
つまり……ミチルを強姦した相手は……
葵は大きく深呼吸をした。手の中にある携帯に握力を掛ける。何度も思考を巡らせ、何度もその思考を闇に葬ろうとしていた。
ただの葵の思い違いだと……宙に問い質して、この心中を晴らしたかったが……そのように問い質す勇気など葵にはなかった。
宙はミチルが好きだった。
ミチルに似ている自分を好きだといって恋人にした。
ただ、それだけしか……葵には分からなかった。
宙がミチルを……
葵はその思考を振り払うように何度も首を振ってそれを掻き消そうとした。
ピルピルピル
手の中の携帯が鳴った。
メールが届いたようだった。携帯を開くと相手はさっき駅前で別れた純也だった。
『葵ちゃん。今から出てこれんか?ホタル見に行こうや』
こんな状態での、思いもかけぬ純也からの急な誘い。
宙への疑惑を一時でも忘れたい。
まるでそれに縋りつくような勢いで、返信メールを打った。
『いいんですか?嬉しいです。今から、さっきの駅前で待ってます』
葵は部屋の壁に掛けていたウインドブレーカーを羽織り、
「ちょっと……バイト先の子と遊んできます」
キッチンにいた美津子に声を掛けた。
「えっ? そうなの? お風呂沸いているけど……帰ってから入る?」
エプロンで手を拭きながら、玄関へと向かった葵を美津子が追い掛けて来た。
「はい。直ぐに帰りますから」
葵は美津子のアパートを飛び出した。




