葵サイド
薄暗いバス停の前にウインカーを光らせて一台のバイクが停まった。
「シュ―ン。コースの走行中に消えた思ったら、彼女とデートしとったんか?」
フルフェイスのヘルメットを被ったまま黒のレーシングスーツに身を包んだバイクの男性が声を掛けて来た。
「ゲッ。純也さん」
「講師に告げ口するぞ」
「だってさ。今回、アドバンスクラス俺しかいなかったんだよ。後の二人は学校の都合で来られないって言うし。俺だって純也さんと一緒に西コースだけでも走行したかったけど、ベーシックの生徒の面倒見ていたら純也さん、先に走り出しちゃったしさ。たから、つまんないし……」
「なんや……一周、待っててくれたら付き合ったのになぁ」
「でも、ピット内は来週のサンデ―カップに出る純也さんのタイムに神経尖らせているしさ、途中走行申し出る雰囲気じゃなかったよ」
「そっかぁ。お前でも気使うんやな。それより、瞬。その子のバス待ってるんか?」
純也が葵に顔を向けて来たので
「こんばんは」
とペコリと頭を下げた。
「この人ね、俺の先輩レーサーの純也さん。この子は遊園地のバイトさんの葵ちゃん」
瞬が純也を紹介してくれた。
「バス、かなり待つんか?」
「うん。後、十五分待ち」
「家、H町か?俺と一緒の方向やん。これの後に乗ってくか?」
「いいんですか?でも、私、バイクなんか乗った事無いしな」
葵は瞬の顔を伺った。
「まっ。レーサーだからね。バイクをこれ以上、上手く操る人はそういないと思うけど。なんか……鳶に油揚げ盗まれた感じがするな」
瞬が不機嫌そうに純也を睨む。
「葵ちゃん、ここ怒ってええとこやで。葵ちゃんの事、油揚げやって」
純也の冗談に葵の顔に笑みが零れた。そして……笑いが止まらなくなった。この地に来て、初めてお腹を抱えて笑った気がした。
「葵ちゃん……ちょっと受け過ぎ。もしかして、お笑いファン?」
「瞬……俺を芸人にすんな。一応二輪の駆けだしレーサーや」
純也はCBRと書かれたバイクを停止させて、ピリオンシートに括りつけてあった予備のヘルメットを葵に手渡してくれた。ヘルメットを被り、瞬と純也に手伝って貰いながら這い上がるように後部座席に乗った。ヘルメットが意外に重くて、頭がふら付く。首が鍛えられそうだ。
「ちゃんと摑まっててな」
久しぶりに聞いた心地良い関西弁。葵は関西弁を喋るこの純也に興味を持った。
宙を思い出す。瞳を閉じて純也の腰に手を回し、広い背中に身体をピタリと寄せた。
皮製のレーシングスーツが冷やりと頬に感じた。
エンジン音が鳴り響き、バイクが動き出した。思ったより風の抵抗を感じた。列をなして停止している車のヘッドライトが流れるように過ぎて行く。排気音と排気ガスが入り混じる中、車の左脇を器用にすり抜け、赤信号の先頭へと滑り込んだ。信号手前の停止線にバイクを一旦停止させ、純也が振り返る。
「寒く無いか?」
純也が声を掛けてくれた。
「はい。大丈夫です」
「この渋滞抜けたら、ちょっとスピード出すけど振り落とされんようにちゃんとつかまっていてな」
「はい」
葵はそう返事をして、純也の腰に力いっぱいしがみ付いた。
サーキット周辺を抜けると、回りは嘘のように賑やかさを無くして、道路の両側には唯っ広い田園が広がるだけで、辺りは暗くその田園の中にポツリポツリと街燈が所々点いているだけだった。その中を純也はスピードを徐々に上げ、颯爽とバイクを走らせる。体中に風の抵抗を感じた。
着ていたチュニックがバタバタと音を出して風の抵抗を受ける。
純也はその音に怯む事なくバイクを走らせる。一緒に風になった気がした。さっき瞬が言ったように走らせると言うより、操ると言ったほうが合っているように思えた。
今は葵をピリオンシートに乗せているので、本来ならもっと大胆にこの大きなバイクを乗りこなすのだろう。
サーキット内の所々で目にするパネル。車体をギリギリに倒して、身体をもっとアスファルト擦れ擦れまでずらし、ヘアピンカーブをロスする事なく曲がる瞬間の写真パネル。
葵はいつもそのパネルを不思議な思いで見ていた。倒れそうで倒れない、ギリギリのその瞬間。まるで時が止ったような感覚。その未知の世界の中で生きる人物の後に乗りしがみ付いている。多分これは……回りから見ればかなり贅沢な事かも知れないと思った。
宙ならきっと羨ましがるだろう。
H町の駅前のロータリーにバイクを停止させた。
「葵ちゃんの家ってどの辺?」
「うん、駅裏。ここからは歩いて帰ります」
葵はそう言いながらヘルメットを脱いだ。純也は先にバイクから降りて、葵を抱き上げるように座席から降ろしてくれた。
葵からヘルメットを受け取ると純也もフルフェイスのヘルメットを脱いで座席に置いて、葵のヘルメットを後部座席に取り付けた。
「俺のマンションと近いな。また、帰りが一緒になったらいつでも乗せて上げるよ」
駅の構内から漏れる灯りで、純也の顔がはっきり見えた。同じ関西弁を喋っても、やはり純也は宙には似ても似つかない顔立ちだった。きりっとして整った男っぽい顔。
黒のレーシングスーツに、黒を基調としたCBRと書かれたバイクが純也にはとても良く似合っていた。彼はまるで雑誌やバイクのカタログから飛び出て来たような男性だった。
自信に満ちたオーラが体中から漂っていて凡人にはない何かを身に纏っていた。
そんな純也に少しだけ見惚れていると、駅の構内から出て来たばかりの男子高生三人組みが驚いたように純也を取り囲み
「すみません……サインお願い出来ませんか?」
純也はニッコリ笑って
「ええよ。サインペン持ってるか?」
三人組みはガッツポーズを取って持っていたカバンから油性のサインペンを取り出し純也に渡して
「すみません。このジャージにして貰えませんか」
大胆にも着ていた自分の所属するクラブのジャージの肩部分を純也に差し出した。
純也は手慣れた手つきで、三人全員の肩に順にサインを書いた。
この三人組みは他のクラブ仲間にこのジャージを自慢したいらしい。
三人組は純也に深く礼をして握手を求めてから去って行った。




