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晴騎サイド


面を付けてから気が付いた。


いちいち対戦した相手の名前など覚えていない竹本晴騎は構えた瞬間相手の事を思い出した。去年のインターハイで対戦して確かに勝利した相手。


この闘志に満ちた瞳は覚えていた。負けた後、悔しそうに何度も晴騎に強い視線を浴びせて来た相手だ。違う、この相手はそれ以前にも中学の全国大会でも対戦した事がある。確かその時も晴騎は勝利していた。


「こいつ……」


ハッと目を覚ました。


二時限目の授業が終わり十分間だけの休憩時間中だった。


晴騎は三週間前にあった全国大会でこの相手に負けていた。


完全に隙を突かれ負けていたのだ。


晴騎はまた、目を閉じて相手の構えを思い出した。


上段に構えていたのか下段に構えていたのかそれさえ思い出せない。


思い出せない時点で既に負けているではないかとため息を付いた。


相手は去年のインターハイからずっと晴騎だけを意識して稽古に励んでいたと見られた。


イヤ、もしかしたらそれ以前の中学の時から晴騎を意識していたかもしれない。


去年勝利した時の異常なまでの悔しさに満ちたあの視線。


「上等じゃねぇか」


今度、相手に会うのは今年のインターハイだ。


「負けた時は相手に自分の弱点を教えてもらったのだと逆に感謝しろ」


コーチには小さい頃からそう鍛えられていた。


晴騎はもう一度目を閉じた。


勝ち誇った相手の顔を思い出した。涙さえ出なかった。そう、まさか負けるとは思わなかったからだ。


「しっかし、腹立つなぁ」


悔しいより腹が立っていた。負けた相手は今までに数多くいるがこんなに印象に残り何度も思い出す相手は今までに無かった。


目を閉じれば浮かんでくる相手に無償に腹が立ったのだ。


「晴騎君?」


聞きなれた声がしてまた目を開けると、目の前に杉本沙耶の顔があった。


「何?」


「機嫌悪い?」


「いや、別に」


そう言って窓の外に目をやった。


「あのね、私、今、家庭科室に居たんだけど、私のクラスの男の子に晴騎君を呼んで来いって言われたの」


「何で?」


「クラスの男の子たちさっきから何度も晴騎君を呼びにこの教室に来ていたみたいなんだけど眉間に皺寄せて寝ているから誰も怖くて声が掛けられなかったらしくて」


「人をライオンみたいに思ってないか?それ。何で俺が国公立進学組に呼ばれなきゃなんないの?」


「うーん。何か喧嘩を止めて欲しいみたいに言ってたけど」


「お前なぁ。それってもの凄く急ぎの用じゃないか?」


晴騎は椅子から立ち上がり軽々と沙耶を肩に担いだ。


「きゃあ。ちょっと何するの」


「お前の足、遅すぎるだろ。まだ、このほうが早いって」


晴騎は沙耶を担いだまま国公立進学クラスへと走り出した。


晴騎のクラスのスポーツ推薦組は二組。国公立進学組は六組と教室がかなり離れている。


長い廊下を行き通う生徒を交わしながら走り抜ける。


「よっ晴騎。彼女担いで保健室か?」


軽いノリのスポーツ推薦組の男子が声をかける。


「まっそんなとこ。しばらく保健室に来るなよ」


「わかった。行かないけど鍵だけは閉めとけよ」


後ろから大声で叫んできた。


「おう、忠告ありがとうよ」


「あーやっぱ声だけ聞かせろ」


「わかった。その代わりマックのバリューセット奢れよ」


晴騎の声が廊下中に響き渡った。


「ちょっとお。そんな事言ったら変な噂立てられるじゃないの」


担がれたままの沙耶が足をバタつかせて抗議してきた。


「じゃ、噂じゃなくて本当にするか?タダメシ食えるぞ。喧嘩シカトして保健室へ直行するか?」


「もう」


六組に着いて入口のドアの前に沙耶を下ろした。


教室の中からこれまた聞きなれた関西弁が聞こえて来た。


「殴られっぱなしが余計に腹立つんじゃ。何か言えや」


中に入ると桂木宙が松本幸也の上で馬乗りになって胸倉を掴んで叫んでいた。


幸也がこめかみと口元から血を出している。宙と幸也と晴騎は幼馴染で今でも仲がいい。


その二人が目の前で喧嘩をしている。


「ひろし。どうしたんだ」


晴騎はそう言いながら二人を取り囲み見物しているクラスの子の輪の中に飛び込んだ。


「晴騎は手を出すな。お前は、教室に戻れよ。変にかかわると試合に出られなくなるぞ」幸也が口から血を流しながら大声で晴騎を制止した。


宙が振り返って晴騎と視線を合わせた。


尋常じゃない宙の表情とどうにでもしろと諦めた幸也の表情。


晴騎はゆっくり宙に近づいて宙の肩を叩いた。


「宙……たまに授業サボってもお前に口出しする教師はいないだろ?俺とちょっと付き合えよ」


幸也の胸倉を離して宙が肩の力を抜いた。幸也が晴騎を睨みつけ何か言いたそうだったが、今は無視した。


晴騎の自宅の前に住んでいる幸也の自宅で今夜じっくり話をしようと思ったからだ。


「わかった。このまま家に帰るわ」


宙は幸也から離れて教室から出て行った。


「この子にも聞きたい事あるさか、連れてってええか?」


宙がドアの前で立ち竦んでいる沙耶の腕を掴んで晴騎に問いかけた。


「どうする?授業大丈夫か?」


「うん、家庭科遅れちゃうけど、家に持ち帰るからいいよ。私も葵の事で聞きたい事あるし」





学校を出て三人は駅前のバーガーショップ向かった。まだ午前中で人は疎らだった。それぞれドリンクだけ注文して席に着いた。


「で、喧嘩の原因は?」


「早退しよう思ってたら、幸也が偉そうに単位取れんようになるから早退は辞めろって抜かしてきて腹立って殴ってしもた」


宙が相変わらず不機嫌な顔をしたまま晴騎と沙耶を目の前にしてそう口を開いた。


「で、早退の原因は?」


「お前、刑事みたいやぞ」


「最近、幸也もお前も様子が可笑しいのは気づいてたけど、幸也は何も言わないしお前とはなかなか会う機会も無いし。何があったか話せよ」


宙は何も話そうとしなかった。


横を向いてぼんやりと窓の外を眺めているだけだった。


そこで沙耶が宙に話しかけた。


「ねぇ、宙君、葵と喧嘩した? あの勉強熱心な葵が二週間も学校休むなんて可笑しいでしょ?」


「ここ二週間、電話もメールも全部スルーされてる」


「心当たりは無いの?」


「ある」


素っ気ない返事に沙耶がため息をついた。


「葵、自宅にいないって事知ってる?」


「うん、何回か家を訪ねたけど留守やって言われた。本当に自宅におらんのか?葵は」


沙耶がカバンの中から携帯電話を出して、液晶画面を宙に見せた。


「夕べ、私、葵に電話したの。心配だったから。電話に出てくれたんだけど途中で切れちゃってね。葵は携帯の電波が届き難い場所にいるらしくて直ぐに固定電話から掛け直してくれたの。その固定電話の番号がこれ」


晴騎と宙は同じようにその液晶画面を覗き込んだ。


「これって他県の番号じゃないのか?どこの県にいるんだ?葵ちゃんは」


「わかんない。聞いたけど言わなかったから」


「つまり葵は俺から逃げたいだけなんやろ」


宙はかなり落ち込んだ様子で、ため息をつきながら深々と椅子に腰を掛け直した。


「何があったんだよ。宙。葵ちゃんはあんなにお前にゾッコンだったんだぞ。他県に逃げ出すほどお前が嫌になった原因はなんだよ」


「俺、医大への進学辞めるつもりなんや。故郷帰って農業の勉強しよう思ってな」


急に立ちあがった沙耶がいつにも無く声を荒げた。


「ちょっと、宙君、それどういう事?葵はどうするのよ。葵は家庭の事情で国公立の大学しか行けないけど出来る限り宙君と一緒に通える大学目指すんだって頑張って来たんだよ。それじゃ、葵と離れ離れになるじゃない」


「うん、そういう事になるな」


宙は冷静にそう答えた。


「親父の後を継いで医者になるつもりじゃなかったのか?」


宙は飲んでいたバニラシェイクをストローでかき混ぜながら


「俺にも色々事情があってな、まっ話せば長くなるんやけど、もう医者にはならん」


「葵はどうするのよ。別れるつもり?」


「いや、別れるつもりとか先の事は決めて無いけど……逃げ出すくらいやから葵は俺に愛想尽かしたん違うか?」


宙のその表情はかなりのダメージを受けた様子だった。


「ヒロちゃんには言わないでって口止めされてたんだけど、葵、最近体調が悪かったのよ。

なぜそうなったか分かる?」


沙耶が宙を睨みつけた。


「イヤ……分からん」


すると沙耶が宙の隣に周り、内緒ごとをするように宙に耳打ちした。


それを聞いた宙がテーブルに顔を伏せて頭を抱えた。


「ほんっとに男の子って歯止めってもの知らないんだから。女の子の身体はデリケートなんだよ。でも、葵は自分を押さえこんじゃう性格だから何も言えなかったんだよ。その上宙君は勝手に自分で進路変更しちゃって、葵は心も体も傷ついてるの。逃げ出したくなる気持ちも分かるでしょ」


宙は顔をうつ伏せたまま何も言わなかった。


「なんだよ……二人で内緒ごとして」



「わたしの口からは晴騎君には言えないよ。葵のことだもん。興奮したらお腹が痛くなっちゃった。トイレ行ってくる」


沙耶がカバンを抱えて席を立った。


うつ伏せたままの宙に

「葵ちゃんの身体のことは仕方ないけど、幸也との喧嘩のわけも医者を諦めるわけも納得いかないぜ。お前があの幸也を人目も憚らず殴るなんて尋常じゃないだろ?」


宙が顔を上げて晴騎に探るような視線を合わせて来た。


「お前、幸也の気持ちに気付いとったやろ?」


晴騎は宙のその言葉にはっとした。その表情を読み取った宙が大きなため息をついた。


「二週間前、カーやんと幸也のキスシーン見てしもたんや」


晴騎は宙のその言葉には驚いた。


「それ、本当なのか?確かに幸也はその……お前の母親の事がずっと好きみたいだったけど、だからってあの、人の何倍も常識を弁えたあの幸也が?信じられん」


「最初に抱きついたのは幸也でキスしたのはカーやんからやった。あー思い出しても鳥肌たつわ。お前、自分の母親と置き換えてみ。俺の気持ち分かるやろ?」


そう言って、宙はまた顔を伏せた。宙の言っている事はよく分かる。


幾ら幸也にとっては魅力的な女性であっても宙にして見ればただの母親に過ぎない。二人の友香子への思いは何処まで行っても平行線のままで分かりあえる事は絶対にないだろう。


晴騎は幸也の気持ちにはずっと前から気付いていた。


それを誰にも気づかれないようにヒタ隠す幸也を可哀相に思っていた。ただの憧れから恋心へと変化した時期は晴騎には分からなかったが幸也なりに真剣で、手をさしだす事さえできないその思いはどれほど苦しかったか計り知れない。


晴騎はそんな幸也の気持ちを知っていたから早く彼女を作れだとか、女を紹介してやろうだとか、冷やかしたりは絶対にしなかった。


そんな長年の思いが何かのきっかけでプツリと切れたのだろう。その場面を一番見られたくない宙に目撃された。諦めた表情を浮かべ口から血を流した今日の幸也の姿が目に浮かんだ。


「俺、なんで幸也はあんなに女にモテルのに彼女作らんのか不思議に思っとった。あいつに合う女ってどんな子やろって想像した事あったんやけど、その時点ではあいつに似合う女がおらんかった。せやけどこの間、カーやんと抱き合ってる姿見て一番カーやんが幸也に似合ってたんや。それってどういう事や?晴騎」


晴騎はコーラの入った紙コップの蓋を開けてそのまま口を付けて一気にそれを飲みほした。


「幸也って俺たちより精神的に大人びたとこあるだろ?」


「まぁな。癪に障るくらいにな」


「俺から見れば好きな人に近づくために無理して精神的に大人びていたように思うんだ。だから、同じ年頃の女子は似合うはずないって俺は思ってたんだけど。そんな幸也の大人びたとこが女子に人気があるんだろう?」


「晴騎、好きな人って軽々しく言うな。俺のカーやんやぞ。今年で四十二歳や。幸也がどんな子好きになっても文句は言わんが、なんで相手が俺のカーやんや?女の子他に腐るほどおるやろ?」


宙は項垂れ、それから喋ろうとしなかった。




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