エピローグ
旅立ちの朝は、抜けるような青空だった。
「リーフさん、気をつけてね」
エリィに渡されたかばんひとつで、リーフは港に降り立った。
船に乗ろうとしている人々はまだ見ぬ町への希望に胸を膨らませ、船から降りる人々は懐かしい再会や新しい出会いに笑みが溢れている。
波間に透きとおる海が輝き、やわらかい潮風が春の訪れを告げる――世界はこれほどまでに平和で穏やかだというのに……いや、だからこそなのか……遠くふり仰いだ空のあまりの蒼さに、リーフは胸を貫くような痛みを感じずにはいられなかった。
科学の発展だけでなく環境にも目を向けるようになり、自然は少しずつだが回復しようとしている。
「クランちゃん、この木に花が咲くのを楽しみにしていたのよ。あたしがもっといっぱい増やしてあげるから、早く見に来るように言っておいてちょうだい☆」
森の植生調査と近海の水質改善研究に多忙なラザルス博士……もとい、キャサリンは、自然愛好仲間への言づてだけを言って、また自転車をとばしていった。
革命を起こした民衆によって軍事政権が倒されたモルディア国では、すべての戦争を停止し、各国との和平協定に奔走している。ケ=ドルセの山脈に木を植える協力を申し出たコルスコート国王は、国交回復のためのむずかしい政務を調整していた。
「この仕事が一段落したら、わたしも一度町に出てみたいな。そのときは、ぜひクラン殿に案内をお願いしたいものだ」
困難な内政にも複雑な外交にも精力的に取り組みながら、アルベール王はいつか聞いた市井の話を楽しみにしていた。
平和になったのは現実だけではない。夢も静かになり、悪夢を見る者が少なくなった。おかげで……と言っては問題があるのだが、『夢殿』はすっかり仕事がなくなってしまった。
「まぁいい。こうなった今度は、『いい夢見られます』って宣伝で売り出してやる。『夢旅行』ってツアーもいいな。クランのヤツに女客でも集めさせるか」
ウィルドは早くも、次の売り出し文句に頭を悩ませていた。
シアは、今年から学校に行くことになった。屋敷に戻り貴族の教育部に通うことは、彼女が自分から選んだことだった。
「いっぱいべんきょうして、えらくなって、クランにおいしいごはんを作ってあげるの!」
エリィについて料理の練習をしているが、勉強の意味をやや取り違えている気がして、まだまだリーフの頭を悩ませた。それでも、彼女なりに将来を考えているならば自由にさせてやりたいと思った。
愛によって解放された“聖獣”の力で、世界は淀んでいた願いと希望を取り戻した。だが、すべてがよい方向に変わったわけではない。
あの白い夢から還ってきたのはリーフとイオリだけで、助けようとしていたエリィも気が付かないうちに、シグルドとカリーナの姿はなくなっていた。
あれ以来、二人を見た者はいない。というより、誰も彼らのことを覚えていなかった。自らの意志で世界を見限ったのか、世界の意思で存在ごと消えてしまったのかはわからないが、彼らが理想として目指したもの――みなが正当に評価され、誰もが尊重し合えるという理想は、残った者たちが引き継いでいかなければならない。
それが、同時にあれきり現実から消えたミヌイ族への贖罪でもある。
リオタールもソエルも、夢に還っていった。快活だった少年に刻まれた苦悩の表情は、兄を失った悲しみと世界が救われた安堵の他に、時折よぎる後悔の陰とその意味を知る者はいない。
集落には戻らずどこかへ姿を消した彼より少し後に、リオタールは長を辞して旅に出た。夢の一族が現実に現れることは二度となかったが、“聖獣”が再び黒く染まることがないよう二つの世界を見守っていくつもりだと、一度だけかつての友の子孫の夢に現れてそう告げた。
そして……やはり、クランの姿もなくなっていた。
あの夢での出来事は確かに夢ではなかったのだという現実を突きつけられ、イオリはまた長い間言葉を封じてしまった。リーフもあのときのことは……剣を貫いた感触、倒れた体の重さは、今もはっきりと覚えている。それが彼の願いだったとはいえ、相棒をこの手にかけた後悔と罪悪感は一生消えないだろう。それを背負って生きていく覚悟はあっても、やりきれない悲しみはぬぐえない。
なんとなれば、クランは最期に笑っていたのだ。何に満足していたのか、おそらくそれさえもわからないまま。そして、笑顔はときに涙よりも哀しい別れとなるということも。
リーフは屋敷に戻り、政務に没頭する日々が続いた。今までずっとそうだったのに、明らかに違う日常。そこにあるのはぽっかりと穴の開いたむなしさ――虚無。
そんなある日、彼は夢を見た。
見渡す限りの真っ白な世界に、独りたたずむ影。それはゆっくりとふり返って、何かを言いたげに微笑んだ。この上もなく優しく、この上もなく哀しく。
「……!」
気が付いたら、痛いほど目を見開いて、息をするのも忘れていた。何を考える間もなく、リーフはすぐに動いた。
夜中にもかかわらず国王に謁見するというだけでも無礼極まりないのに、前置きもなくしばらくの暇乞いを申し出た。しかしアルベール王は少し顔を曇らせただけで、快く城を離れる許可を出した。ただ一言、帰ってきたら必ず相棒も連れてくるように、という厳命に、リーフは感謝で顔を上げることができなかった。
こうして、リーフは一人旅立つことにした。
クランは、必ずどこかで生きている。
“聖獣”とともに世界の想いが解放されたとき、確かに彼らの願いも……みなが悲しまないで済む道も、確かに拓かれたはずだからだ。
必要なのは願うこと。希望を持って思い描くこと。それを信じること。
夢は想いの世界であり、思いは現実を形作る。
解夢士として誰よりもわかっているはずなのに、そんなことも忘れてしまっていた。相棒の笑みは、そんな彼を見かねて苦笑していたのだろう。考え込んでばかりいないで、さっさと探しに来い、と。
「イオリ、待っていろ。必ずクランを連れて戻ってくる」
恐るおそる、イオリは口を開いた。
「私、クランと約束したの。声が戻ったら、歌を聞かせてあげるって。だから、練習して待ってるって……私……」
「あぁ、そう伝えておこう。もしも約束を忘れて遊びほうけていたら、俺が殴り飛ばしてでも引きずってくる」
かすかな希望に、イオリの笑い声を初めて聞いた。エリィもなぜか、隣でクスクス笑っている。
「式を遅らせてすまない。俺が帰るまで、待っていてくれるか?」
「シアちゃんと母子家庭になっちゃってるかもね」
一瞬、『おじさん誰?』と言われる父親像が頭によぎって、リーフは本気で早く帰ってこなければと思った。
「大丈夫、クランさんは私たちの大事な友達なんだから。みんなで待っていれば、絶対にまた会えるわ。……でも、せめておばあちゃんになる前にウェディングドレスを着させてくださいね」
リーフはわずかにエリィの肩を抱き寄せて、耳元で一言だけささやいた。すぐに顔を上げて船に乗り込んだが、察したイオリが真っ赤な顔のエリィをからかっていた。
「いってらっしゃい! 私、待ってるから!」
「クランをお願いね、リーフさん!」
「あぁ、行ってくる」
別れの言葉はなかった。またここに、相棒とともに帰ってくる。リーフは船べりに手をかけて、いつまでも見送る二人の影が遠ざかっていくのを見つめていた。クランの数奇な運命が始まったあの夜のように、彼もまた、ここから始まるのだろう。
願わくば、誰もが笑って過ごせる世界を。ありふれた日常が、再び続くことを。
ときにぶつかり対立することもあるだろうが、思いが強ければ必ず叶う。世界の想いを白くするのも黒くするのも、世界の一部である彼ら自身なのだから。
今もどこかの夢を渡っている“聖獣”と、遠い空にたたずむ相棒にこの声が届いていることを、リーフは確信していた。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。人サマにお見せするのは初めてだったのですが、とてもよい勉強と刺激になりました。クラン達登場人物には深い愛情を持っているので、彼らの笑いと涙(?)が少しでも皆様に伝わっていれば幸いです。来訪された読者様、貴重なご意見をくださる方、公開の場を与えてくださった管理人様、すべてに感謝とお礼を申し上げます。