第一話
意識が、まず先に戻ってきた。次に、床の感触。
さっきまで俺は、深夜のコンビニからの帰り道を歩いていたはずだった。信号が赤に変わって、足を止めて、それから――記憶はそこで途切れた。
事故か。殴られたのか。酔って倒れたのか。可能性を片っ端から並べてみる。だが、どれも違う気がした。頬に触れているのは、硬く冷たい石の感触だ。アスファルトとは明らかに違う、平らで、妙に滑らかな石。
うっすらと目を開けると、視界に飛び込んできたのは見たこともない紋様だった。幾何学的な線が幾重にも重なり、淡い光を帯びて足元から放射状に広がっている。
――夢か。いや、これは。
俺は身体を起こした。石の床の冷たさと、動かすたびに確かになっていく身体の重みが、これが夢ではないという確信をじわじわと強めていく。理性と本能がせめぎ合い、思考がまとまらない。
顔を上げた瞬間、息が止まった。
紋様の中心に、一人の女が立っていた。銀に近い白髪。切れ長の澄んだ瞳。見惚れた、というのが正直なところだった。状況が呑み込めていないはずなのに、彼女を見た瞬間、頭の中の警戒はほとんど意味を持たなくなっていた。自分でも、そのことに戸惑った。
女はパッと表情を明るくして、軽い調子で手を振った。
「あ、起きた起きた。おはよ! 私が呼んだんだけど、イリアーゼって言います。よろしくね」
想像していたのと違う、あまりにも気さくな声色に、俺は面食らった。状況の異様さと、目の前の相手の軽さが、まるで噛み合っていない。
「……え」
「あ、名前聞いてなかった。あなたは?」
「……レオン、だけど」
「レオンね、了解!」
イリアーゼは俺の顔をまじまじと覗き込むと、ニヤッと笑った。
「あ、分かった。文献の記述通りだ。今、私のこと、めちゃくちゃ可愛いなーとか思ってるでしょ」
「……なっ」
図星を突かれた気まずさよりも先に、見透かされたことへの動揺の方が大きかった。
「照れなくていいって。あるあるだから」
イリアーゼはけらけらと笑った。
「異世界人を召喚した直後に起きる、認知の歪みの一種。時間が経てば治るって、本に書いてあった」
あっけらかんとした説明だった。恥じらいのかけらもない笑顔が浮かんでいる。
「それより、大事な話、先にしとくね」
表情を少しだけ引き締める。深刻さよりは、程よい真剣さといった温度だ。
「レオンを呼んだのは、王命でね。ヴァルガっていう魔獣が暴れてて、それを倒したいの。私が精霊呼んで足止めするから、レオンがとどめ刺す、みたいな連携プレー。結構いいコンビになれると思うよ」
「……二人で、魔獣を?」
「うん。私一人じゃ足止めが精一杯だし、レオンだけだと危なっかしいし。二人揃って、ようやく一人前ってやつ」
「危なっかしいって、会ったばかりだろ」
「体格見れば分かるよ。あと、目の据わり方が素人」
異世界に召喚された、というだけでも受け止めきれていないのに、いきなり戦えと言われている。頭の処理が追いつかないまま、俺はただ頷くしかなかった。
「詳しい話はおいおいするから、まずはこっち来て」
促されるまま、俺はイリアーゼの後について光の紋様を離れた。案内された部屋には、見たこともない硝子細工の器具が並んでいる。
「はい、そこ座って。定期健診みたいなもんだから、リラックスしてね」
言われるまま台に腰を下ろす。イリアーゼは手をかざし、鼻歌でも歌いそうな軽さで計測を進めた。
「心拍、体温、魔力耐性、っと。異世界からの召喚って、体に結構負荷かかるからね。ひどい人だと数日で調子崩しちゃったりもするから、ちゃんと診とかないと」
「他の人も、こうやって呼ばれてるのか」
「過去にはね。今回は私が担当。運がいいのか悪いのか」
計測を終えると、小瓶を放るように手渡してきた。
「はい、飲み薬。一気に飲んじゃって。動悸とか変な汗とか、召喚直後によくあるやつ、これで大体治るから」
「変な薬じゃないだろうな」
「変な薬に見える? ただの気付け薬だよ。信用ないなあ」
飲み干すと、確かに鼓動は落ち着いていった。だが、目の前の彼女への感覚だけは、収まらなかった。
「……変だな。動悸は収まったのに」
「ん? まだドキドキする?」
イリアーゼは興味深そうに首を傾げただけだった。恥じらいも動揺もない。ただの観察対象を見るような、屈託のない好奇心だけがある。
「へー、面白いね。まあ、体調戻ったなら良かった」
そう言うと、あっさり次の話題に移っていった。その切り替えの早さに、かえって落ち着かない気分になる。
検査を終えると、イリアーゼは思い出したように付け加えた。
「そうだ、今夜から一緒に寝るから、よろしくね」
「……は?」
「信頼構築のための手順ってやつ。魔力の波長を馴染ませるのに、一緒に寝るのが一番手っ取り早いの。昔からのやり方だよ」
「もっと他に方法ないのか」
「あるにはあるけど、一番手っ取り早いのがこれ。文句あるなら遠回りする?」
「……いや、それは困る」
「でしょ。じゃあ決まり」
案内された部屋で、イリアーゼは寝る前の準備をしながら、世間話でもするような口調で続けた。
「レオンの世界って、寝るときどんな格好するの? こっちだとこんな感じなんだけど」
他愛もない雑談を交わしながら、イリアーゼは寝台に横になった。灯りを落とす仕草にも、何のためらいもない。
俺は隣に横たわりながら、彼女の規則正しい呼吸を聞いていた。衣擦れの音。かすかに香る匂い。そのひとつひとつが、やけに鮮明に感じられる。
眠れるはずがなかった。異世界に召喚された事実。これから魔物と戦えという命令。そして隣で無防備に眠ろうとしている女への、説明のつかない動悸。三つが頭の中でぐるぐると渦を巻く。混乱していると分かっているのに、その一番大きな部分を占めているのが恐怖ではなく、隣にいる女への意識だということに、俺は自分で戸惑っていた。
「……眠れないの?」
暗闇の中、あくびまじりの声が聞こえた。
「いや……別に」
「そっか。まあ、慣れない場所だもんね。おやすみー」
心配しているというよりは、ただの相槌のような軽さだった。それきり、イリアーゼの呼吸はすぐに寝息に変わっていった。
俺だけが、暗闇の中で、収まらない鼓動を持て余していた。
◆
翌朝の検査室。イリアーゼは光の文字を眺めながら、あっけらかんと言った。
「あ、レオン、めっちゃ興奮してるじゃん」
「……」
「体温とか脈拍にはっきり出てるよ。まあ、恥ずかしがることないって。あなたの世界の生き物としては、普通の反応でしょ?」
からかうでもなく、ただの雑談のような調子だった。
「一応、真面目な話もしとくね」
器具を置いて向き直る。
「私たち召喚士は、精霊を呼んで一緒に生きる種族なの。今回は特別な任務で、人間のレオンを呼んだわけ。あ、それと大事な話。私たちと人間って、身体の作りが根本的に違うから、いわゆる性交渉的なやつは、物理的に無理なんだよね」
「……そうか」
「がっかりした? まあ、そりゃそうだよね」
悪びれもせず、けろっとした顔をしている。
「でもさ、任務のための信頼関係と、今レオンが感じてるムラムラは、別物だからね。そこはちゃんと分けて考えてね」
あまりにも軽い調子だった。俺は何を言えばいいのか分からず、ただ頷くしかなかった。
「それでね」イリアーゼは指を三本立てた。「今日から三日間、同調を深めるための時間に充てるから。街を歩いたり、触れ合ったりしながら、じっくり慣らしていこ。魔物退治は、それからだよ」
三日間。区切りがはっきりしたことで、俺は少しだけ、この状況を飲み込みやすくなった気がした。
◆
同調強化期間、一日目。
「手繋いだり、ハグしたり、あとキスとかもね。信頼とか愛着を強める物質が出るらしくて、効率的なんだって」
イリアーゼはあっさりとそう切り出した。
「……キス?」
「そう。恋愛的な意味じゃないから安心して。ウォーミングアップみたいなもん」
「ウォーミングアップでキスする文化、聞いたことないんだけど」
「私たちの文化にはあるの。異文化交流だと思って」
市場を歩くとき、彼女は当然のように手を差し出してきた。
「ほら、手」
握った手は、体温を感じさせるほどに温かかった。イリアーゼはそれを気にする様子もなく、道端の屋台の話や王都の噂話を楽しそうに話し続ける。
宿への帰り道、不意に口を開いた。
「そういえば、レオンには謝っておかないとなんだけど」
「……何が」
「本当はもっと時間かけて、ゆっくり仲良くなるものなんだよね、これ。何ヶ月もかけて。でも今回、王命でめちゃくちゃ急かされてて。だから、こんな駆け足になっちゃってる」
「……急かされてる、って」
「私も、細かい事情までは知らされてないんだけど、とにかく時間がないみたい。だから、レオンには申し訳ないと思ってる」
珍しく、口調に少しだけ真剣な響きが混じっていた。
◆
同調強化期間、二日目。
宿での抱擁でも、イリアーゼの態度は変わらなかった。
「ほい、ハグねー。……あ、レオン、肩めっちゃ強張ってるよ。もっと力抜いて」
「お前が、緊張させてるんだろ」
「私? 私は別に、いつも通りだけど」
心底不思議そうな顔だった。抱きしめられている間、彼女の心臓の音は、拍子抜けするくらい落ち着いている。
その夜、市場からの帰り道で、イリアーゼが思い出したように言った。
「あ、それと。レオンさ、私のこと、恋人だと思って仲良くしてくれて全然いいから」
「……は?」
「言葉の通りだよ。恋人とか、パートナーとか、相棒とか、レオンが呼びたいように呼んでいいってこと。私は、そういう呼び方に、正直こだわりがないから」
「……それで、いいのか。お前は」
「うん。だって、呼び方が変わったところで、私がレオンを大事に思う気持ちは変わらないし」
あっけらかんと言い切るイリアーゼに、俺は何も言い返せなかった。
彼女は今、確かに歩み寄っているように見えた。だが、その歩み寄りの理由が、「恋人」という言葉そのものに、彼女が何の重みも置いていないからだと気づいたとき、俺の中には、温かさよりも先に、言いようのない虚しさが広がっていった。
◆
同調強化期間、三日目。
そして、口づけ。
「はい、じゃあ次いくよ」
イリアーゼは、まるで体操の号令のような軽さで顔を近づけてきた。触れた瞬間、俺の中で何かが弾けるような感覚があった。だが、離れたイリアーゼの顔には、何の変化もなかった。
「うん、いい感じ。同調、順調に進んでる」
そう言って、ニコッと笑った。その笑顔に、他意は一切ない。
湯浴みを終えた夜、俺はずっと引っかかっていたことを聞いた。
「昨日の話だけど。恋人だと思っていい、って言ってたよな」
「言った言った」
「それ、具体的にどういうことなんだ。お前ら召喚士にとって、恋人とか、恋愛感情って、そもそも何なんだ」
イリアーゼは髪を拭きながら、こともなげに答えた。
「私たちには、そもそも『愛する気持ち』自体が、存在しないんだよね」
「……存在しない?」
「うん。恋愛感情っていう機能自体が、種族的にないの。だから、レオンが恋人って呼びたければ呼んでいいって言ったのも、私にとってはその言葉に何の負荷もかからないから」
あまりにもあっさりとした告白に、俺はすぐには言葉が出なかった。
「……なんでだよ。感情がない、って」
「生態が違うから、としか言いようがないかな」
椅子に腰掛けながら、世間話のような調子で続ける。
「私たちには、性別がないの。オスとかメスとか、そういう区分自体が、そもそも存在しない。子孫を残すときは、産卵期っていう時期があってね。その時に、精霊の力を借りて、卵を産むの。誰かとツガイになって、っていう仕組みじゃないんだよね」
「……精霊の力を借りて、卵を、産む」
「そう。だから、恋愛とか、性的な欲求とか、そういうものを持つ理由そのものが、私たちにはないの。進化の過程で、必要なかったんだろうね」
そこまで話すと、ふと俺の顔を覗き込んだ。
「あ、ドン引きした? ごめんね、こういう話、人間からするとグロく聞こえるかもだけど」
「いや……そうじゃなくて」
俺は言葉を探した。
「じゃあ、お前が今まで、俺に触れたり、優しくしたりしてたのは……全部、本当にただの手順でしかなかったってことか」
「んー、手順ではあるけど、嫌々やってたわけじゃないよ? レオンのこと、ちゃんと大事に思ってるし」
「それは、恋愛感情とは、別物なんだろ」
「そうだね。別物」
悪びれもせず、軽く頷いた。
「でも、大事に思う気持ちに、種類なんてそんなに要る? 私にとっては、これで十分なんだけどな」
屈託のない笑顔だった。だがその笑顔の奥にある、俺とは決定的に違う感情のあり方を知ってしまった今、俺はもう、以前と同じようにその笑顔を見ることができなかった。
「……そうか」
短く返すのが、精一杯だった。
イリアーゼは俺の反応に気づいているのかいないのか、そのままいつもの調子で灯りを消した。
「まあ、そういうことだから。深く考えすぎないでね、レオン」
暗闇の中、俺は彼女の規則正しい呼吸を聞きながら、ずっと考えていた。
――恋愛感情がない、ということは、これから先、何をどう積み重ねても、彼女が俺を「そういう意味」で見ることは、永遠にないということだ。
その事実は、悲しみというより、乾いた諦めとなって胸の奥に残った。
同調強化期間、三日目の夜は、こうして更けていった。魔物討伐へ向かう旅は、翌朝から始まることになっていた。




