表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【終章 我こそが正義】
39/44

3.いずれは守護する建国王

 国を滅ぼす、なんて簡単に言って簡単にやれたら苦労はしない。

 一国を——それも大国を相手取るには、私たちはまだまだ弱小勢力で、兵も物資も全然足りなかった。だから結局、しばらくは地道に奴隷解放をすることになる。それも、都市部に売られてしまっては手出しできないから、最初のうちは、輸送中の馬車を襲うのがせいぜいだった。

 それが段々と、奴隷商人の拠点を標的にできるぐらいになった。

 助けた奴隷の中には、例によって、私たちについてくる者がいて。いつの間にか、私たちは弱小ではあるものの、無視はできない程度の勢力に成長していた。奴隷の解放は、兵力の増強に繋がっていたのだ。

 力をつけるにつれ、私たちは大手を振って、武力による解放をするようになった。

 奴隷の所有権を主張する主人と交渉し、枷の鍵を渡してもらう。なんてことは、できるはずもないから、枷を壊して主人を殺した。

 帰りたい場所がある者は見送り、ついていきたいと言った者だけを勢力に引き込む。それだけでも充分、一軍と呼ぶのに差し支えないほどの数が集まった。




 小さな町ばかりを巡っていた私たちが、満を持して、領主の居城があるような大きな街に攻め込んだのは、『バフォメット』を壊滅させてから二年後のことだった。

 大陸の中央に位置する、リーフマルジュ領内のサルクの街には、タズィ公という通称で呼ばれる、犬系の獣人領主が住まう。ベスティニア皇国への本格的な侵攻の第一歩として、私たちはその街を選んだ。

 サルクの街は奴隷交易で栄えた街であり、タズィ公自身も奴隷制度を推進している。奴隷を取り込んで膨れた我が軍にとって、これほどあつらえ向きの舞台は、ほかになかった。

 領地を荒らしまわって、敵の主力を罠にはめたのが功を奏したのか。あるいは最近かすかに耳に入ってくる、有翼人の来襲に人手を割かれたのか。街をぐるりと囲う城壁も、防衛のための兵が揃わなければハリボテと変わりない。

 ばらばらと小雨のような矢が降ってくる中、ヴァージニアがお得意の魔法を詠唱すると、市門と一緒にわずかな兵も吹き飛んだ。

 それはもう、ケンタウロス相手なら壁さえあれば防衛できたのか、と慢心が生まれそうになるほど呆気ないものだった。


「同志の保護を優先しろ! 人間は見つけ次第、解放を!」


 城壁の空いた穴から、なだれ込んでいく仲間と一緒になりながら、ダニエルが叫ぶ。

 しかし、街に入るなり、正反対の内容を口にする声が、覆いかぶさるようにして駆け抜けていった。


「奴隷を殺せッ! 領主様のご命令だ! ケンタウロスも人間もみな一緒くたに、殺せ! 領主様のご命令だ!」


 膨れ上がった熱気に冷や水を浴びせられ、皆の顔が急激に強張っていく。

 私たちが奴隷を吸収して大きくなった勢力だということは、相手方もよく知っている。タズィ公の領地内で、私たちは散々好き勝手に勧誘してきたのだから。

 人間以外も殺せ、というのは騒ぎに乗じて暴動でも起こされたら困る、と思ったからか。

 ヴァージニアが街の中に駆け込み、領主様のお布令を声高に告げてまわる獣人に向け、何事かを怒鳴る。その場に、火柱が上がった。

 そして、燃える獣人の悲鳴に負けぬよう張り上げた声は、一時足を止めた人間たちを再び動かす。


「この街の人間が殺されてしまう前に、あの獣面どもを殺せばいいだけの話。兵士だろうと、街の住民であろうと、老人であっても子供であっても、獣人は殺せ! その老いぼれは、これまで私たちの仲間をこき使ってきたんだ! そのガキは、放っておけば人を人とも思わぬ非情に育つ!」


 アラクネに怯えていた娘は、こんなにもたくましくなった。いや、それでも普段の物腰はあの時と変わらないから、今でもその豹変に面食らうことはあるが。

 彼女の言葉に、待ってましたとばかりに一つの槍が踊る。

 たった今、軽やかに城壁をくぐり抜けてきた影が、ヴァージニアに迫ろうとした獣人を、実に鮮やかに突き殺す。

 見覚えのない青年の姿に、ヴァージニアが目を丸める。


「ぎりぎり間に合った! いや、遅刻か? ま、どっちでもいっか! 参加の申し込みはしてないけどっ、飛び入り参加させてもらうぜ! おれはピナレス! この顔と名前を、よーく覚えておくように!」


 金髪碧眼の、そこにいるだけで目を引くような、容貌の整った青年だった。


「おれはいずれ、英雄の右腕になる男だからさ」


 一つにまとめた髪と長い襟巻きをたなびかせ、ピナレスと名乗った青年は、まぶしいほどに白い歯を見せてニッと笑った。

 言いながら獣人の死体から引き抜いたのは、特徴的な二又槍だ。こんな武器を持って暴れられたら、嫌でも目に付く。発言も相まって、私は瞬時に彼のことを覚えた。

 というか、忘れてくれと言われても忘れられないレベルだ。

 ヴァージニアの見開かれた目は、すぐに不服そうな半眼となった。


「勝手にそんなことを宣言されても困ります。右腕はすでに埋まっていますので、この私で」

「左腕もだ」


 ヴァージニアに続いて、ダニエルまでそんなことを言い出す。

 二人の顔を交互に見たピナレスは、そっか、と軽い返事をした。そして深く頷いた後に、胸に手を当て、私の方を向いた。


「では、お背中を守りましょう」

「さらりと良いポジションを取っていくな……」


 二人の剣呑な視線を、機転で受け流すのだから感心する。したところで、無駄口を叩いている暇はないことを思い出す。


「ヴァージニアはこのまま街中で指揮を。ダニエル、それとピナレス、私と一緒に城へ来い。領主、タズィ公を討ち取る」

「え」


 ヴァージニアとダニエルが了承するより早く、ピナレスが呆気に取られた声を出した。

 自分から売り込んできたくせに、これは予想外だったらしい。


「背中を守ってくれるのだろう?」


 少なくとも背中から刺されることはないと、私は知っている。




 かつては舞踏会のような華やかな催しに使われていたであろう広間も、今や死体の転がる空間となり果てた。シャンデリアの下敷きになってうめき声を上げる獣人に、ダニエルがとどめを刺す。

 城攻めのために私が率いてきた手勢が、タズィ公を追い詰めていた。

 タズィ公は噂通りの人物だった。鑑賞されるために存在するかのごとき麗しい容姿は、おおよそ荒事に似つかわしくない。きっと、彼が四つ足で走る本物の犬として生を受けていたとしても、宮廷で愛でられ、野良の苦しみなど知らずに一生を暮らしたに違いない。

 だが、いくら美しかろうと犬は犬だ。それも貴族、王族に飼われるような犬となれば、愛玩犬ではなく狩りのお供だ。

 ひとたび野に放たれれば、執拗に獲物を追いかける。追い詰められれば、澄ました顔など捨ておいて獰猛に牙を剥く。

 それは獣人とて変わらない。

 タズィ公は剣を持って私たちと向かい合っていた。

 美しければ美しいほど、牙を剥いた時の迫力は増す。容姿の話だけではない。武器を持った人間に囲まれた状況下で、彼は、己が盾になってでも守りたい女を背に隠している。騎士道物語のエピソードの一つにでもありそうな光景だ。

 タズィ公と同じく犬系の獣人である女は、彼のそばから離れず、かといって邪魔になるほどの密着もせず。握りしめた短剣を、気丈にも、城に押し入った人間に向けていた。

 弱さこそ悪、という獣人の考え方からすれば、守られるばかりの立場もまた、悪なのだ。

 歯を剥き出しにするタズィ公とは対照的に、彼女はぎゅっと口を引き結んでいた。


「アリオクめ……、奴の勝ち誇った顔が目に浮かぶわ」


 ここにはいない何者かの名前を吐き捨て、タズィ公は皮肉げに口の端を歪める。


「すまない、モニール。こんなことになるなら、君だけでも街の外に逃がすべきだった」

「いいえ、アーキル様。ここに残ると決めたのは私です。いかなる時も共にあろうと、そう誓った仲ではありませんか」


 たとえそれが死に場所だとしても。女の口ぶりでは、そう続きそうだった。

 彼らが覚悟を決めたところで、気の早い青年が一人、タズィ公に向かっていった。武功を立てようと、彼が鼻息荒く剣を掲げたその時、死角で威勢のいい音がはじけた。びくりと動きを止めた彼の足元に、蹴破られた鉄の格子が滑ってくる。すると、青年はいよいよ逃げ腰になる。

 その中途半端さがいけなかった。タズィ公を殺すつもりなら、何を気にすることなく向かっていかなければならなかったし、逃げるなら逃げ腰と言わず、その瞬間に身を翻していなければならなかった。

 強引に窓から飛び込んできた影は、狙いを定めて青年に襲いかかる。

 床に縫い付けられたように動かない青年の背を蹴飛ばし、襲撃者の刃を止めたのは、私の隣に立っていたはずのピナレスだった。槍の柄で刃を押し返すとすぐに、穂先を相手へと向ける。


「うーん、人間の中にも筋の良いのがいるんだな」


 赤茶けた毛並みの、たてがみのない獅子のような姿をした獣人は、おどけたふうに言う。


「ピューマ公……!」


 ダニエルの驚きの声が、周囲に襲撃者の正体を教えた。ここのお隣、これまた広大なクーガバーク領を治める獣人領主の通称だった。

 驚いたのはなにも、こちらだけではない。城の主であるタズィ公でさえ、状況を忘れて一瞬だけ呆けた。


「君、どうやってここまで来たんだ。ここを何階だと——」

「あっはっは、壁を駆け上ってきたに決まっているだろう。おかしなことを言う」


 これみよがしに、ピューマ公は自身の爪をチラつかせる。なるほど、よく見ると彼は裸足で、獣人がよく履いているサンダル履きのようなものもない。


「し、しかし、城の周りには人間がいたし」

「蹴散らしてきたに決まっているだろう! おいおい、我が親友は、俺のことを信用していないのか? これでも、お前に剣術で負けたことは一度もなかったはずだが」

「なっ……、し、信用云々の話ではない! 君は馬鹿だ。こんな死地に飛び込んでくるなんて! 仮に生き延びられたとしても、アリオクがなんて言うか!」

「じゃあ、あの獅子様は大馬鹿野郎ってことでいいじゃねえか。俺は友を見殺しにするような、ひどい奴にはなりたくねえ」


 二又槍を構えたままのピナレスに剣先を向け、ピューマ公は強く言い放つ。


「助けに来てやったんだ、素直に感謝しやがれ」

「……すまない。セラン、嬉しいよ。正直全然助かった気はしないけど、なぜか心強い」

「一言余計なんだよ、まったく」


 ピューマ公がふっと笑う。切羽詰まっていたタズィ公の表情にも、余裕が生まれていた。タズィ公の許嫁であるモニールでさえ、肩の強張りが抜けている。

 反対に、私の仲間たちは及び腰になったようだった。身一つで乗り込んできたピューマ公の身体能力を見せつけられ、改めて人間のもろさを実感したというのもあるだろう。

 だが、それよりも。

 そんな人間離れした敵方にも、人情が——愛やら友情やらのドラマがあることに気付いてしまって、この手でそれを幕引きにすることへの躊躇が生まれた。なんとも優しいことだ。これまで人間は、その優しすぎる性につけ込まれていたに違いない。

 戦場においての冷静さを欠いていなかったのはおそらく、真剣に目の前の敵だけを睨むピナレスと、鼻白んだ様子のダニエルだけだった。

 私はというと、場違いにもタズィ公とピューマ公の友情にまぶしさを感じていた。私には、一緒に死んでくれる友人なんていない。二人が羨ましかった。

 タズィ公に向かって進み出たダニエルは低く、皆に通る声で言う。


「忘れるな。今おまえたちの目の前で、安い恋愛と友情ごっこを見せつけているのは、おまえたちの家族を引き裂いた男だということを。おまえたちの友を売り飛ばした男だということを」


 ピューマ公は苦笑して、ピナレス越しにタズィ公に話しかける。


「あーあ、そうとう恨まれているねえ。だから言ったんだよ、俺は。奴隷制度なんてやめちまえって」

「……私はそうは思わない。この街は奴隷交易によって発展した。私達の安定した生活は、彼らの労働なしにはあり得なかった」


 かたくななタズィ公に、ピューマ公は何も答えなかった。

 正しくは答えられなかった、か。示し合わせたように、ダニエルはタズィ公に、ピナレスはピューマ公に、それぞれ飛びかかっていったから。

 私の目に死相が見えたのは、獣人の方だった。




 主を失った城を出て、静まり返った街を歩く。

 時折響く叫び声は人間のものではなく、私の感情は動かない。首枷をしたまま死んだ人間を見つけた時の方が、よっぽど胸を締め付けられた。虚ろな目が無言の抗議をしてくるかのようで。自分が息をしていることににさえ、罪悪感を覚える。

 そばにしゃがんでまぶたを閉じてやると、責めるような視線から少しだけ逃れられた気がした。

 タズィ公を打ち倒したダニエルは、返す刀でタズィ公の許嫁をも斬り捨てた。誰もやろうとしないことを、彼は率先してやる。それが、彼なりの慈悲だった。

 ピューマ公を刺し貫いたピナレスは、二人の領主の骸を、見せしめとして磔にすることを提案した。賛同する者は、意外にも多くいた。今頃、彼らの死体は、目立つところに引き上げられているはずだ。

 許嫁まで辱める必要はない、と彼女の死体はダニエルが城の外まで運び出した。あとの処理は自然に任せるまま——グールが来るのを待つだけだ。

 死体を食らう精霊は、死者の魂をどこへ運んでいくのか。

 グールに思いを馳せながら通りを歩いていると、すぐ近くから、言い聞かせるような囁き声が聞こえてきた。


「ほら、逃げなよ。できるだけ、人間には見つからない方がいい。……あいつらの中にはさ、お前らがサテュロスだからとか、ケンタウロスだからとか、それだけの理由で殺したいほど憎く思うやつがいる。理不尽だけどさ、しょうがないよな。おれも、気持ちは分かる」


 ピナレスの声だった。

 気配を感じさせないよう近付き、壁の角に隠れて様子をうかがう。

 ピナレスは、囚われたままだった奴隷の枷を、壊してやっているようだった。ただ、その中に人間の姿はない。サテュロスの少年やセイレーンの娘、ケンタウロスの女性といった人種も性別も様々な奴隷が、一つのところにまとめられていた。

 獣人が放置していった奴隷を、ピナレスはもくもくと解放していく。

 私に、それを咎める気はない。


「ああ、安心してよ。この中にはいないからさ、おれの嫌いなやつ」


 若干不安そうな顔をしていた彼らに、ピナレスは穏やかに微笑む。

 二又槍を振り回す姿よりも、こちらの方が、私の中ではより鮮明な印象として残った。

 彼に何度も礼を言った後、元奴隷たちは方々に散っていく。その後、街の中で大きな騒ぎは起きなかったから、彼らは無事に街の外に出られたのだろう。そう思いたかった。



 *****



「あなた、カリム様の護衛につきなさい」

「うぇ?」


 サルクの街で一夜を明かし、使えそうな物資を探している時だった。ヴァージニアとダニエルが一緒になって、ピナレスの前に立った。

 姿と名前を覚えてもらおうと、彼は昨夜から私のまわりをちょこまかしていたのだが、二人に遭遇するとすぐさま回れ右をする。怒られると思ったらしい。

 そこに思いがけずかけられた言葉に、ピナレスは中途半端に振り返る。

 ヴァージニアは眉をひそめた。


「なんですか、その返事は。まさか、不満とか?」

「い、いえ、いやいや、ご不満なわけないっしょ! ただ、ちょっと驚いただけで!」

「きみ、主張が激しいわりに奥手だな」


 ダニエルが不思議そうに彼を見る。

 いや、だって。と言いながら、ピナレスは二又槍の柄を落ち着きなく触り始めた。


「昨日やってきたばかりの、素性の知れない人間に、自分たちの大将を任せちゃうとか、この人たち大丈夫かなって思いますし……」

「客観的によく見ている」


 ダニエルは感心したように頷く。ダニエルの脇腹あたりを小突いてから、ヴァージニアは冗談を抜いた顔で言った。


「獣人を相手に物怖じせず向かっていく。そればかりか、領主をも一騎打ちで討ち果たす。こんな実力を持った人間を遊ばせておく方が、もったいないというものです。あなたがカリム様の護衛になることを、誰も文句は言えません。私が言わせない」


 昨夜、ヴァージニアとダニエルが二人でなにやら話し込んでいたのは、このことだったらしい。

 私にとって護衛が意味のあるものかどうかは疑問が残るところだが、それで二人の気が休まるなら、彼らのさせたいようにさせるだけだ。あとは、ピナレスの気持ち次第だが。

 自分の思い描いた出世とは違ったか、それとも想定通りに行きすぎて面食らったか。ピナレスは熱に浮かされたような顔で頷いた。


「つつしんで、お受けいたします」


 声は抑えたものだったが、握りしめた二又槍は歓喜に打ち震えていた。ダニエルはじっとそれを見つめる。


「その武器も、人の目に留まることを考えてか?」

「え? あ、やっぱ珍しいですかね」

「そんな大層な武器、私は見たことありません。目を引くから、嫌でもあなたのことを覚えてしまう」

「あはは、そんな嫌そうに言わなくても。でも、じゃあ、この槍にも感謝しとかないとなあ」

「ええ、ほんと。そんなもの、いったいどこで手に入れたのやら」


 ほんのわずか、低められたヴァージニアの声にも、ピナレスは動じなかった。


「拾ったんすよ。羨ましいでしょ」


 さわやかな笑顔を返して、彼はそう言い切った。



 *****



 サルク城で見つけた地図は、軍議に使うにはうってつけで、私たちにとってはドワーフによって鍛えられた剣よりも、はるかに価値があるものだった。不足しているものは多々あるが、中でも情報とそれを収集する能力は致命的だ。

 タズィ公が使っていたであろう評議の間で、私たちはテーブルの上に広げられた緻密な地図を、食い入るように見つめていた。虫食い一つない紙に穴が空くほど。


「これで、皇都までの具体的な進路を決められますね」


 ラヌート山からついてきた古株の一人が、興奮気味に言う。

 この場にいるのは彼のような古参が数人と、ヴァージニアとダニエル、そして私に付き従うピナレスだけ。いわば重役が集まるこの状況、軍議にあたるのだろう。この地図と城の前の持ち主からは、ままごとだと鼻で笑われそうでも。


「皇都に赴くには、この砦を避けては通れないようですね」


 ヴァージニアが指差したのは強固な砦のマークで、上にはディニュー砦と記されている。

 ほぼすべての街道がその砦に吸い込まれていくように集結しており、先は皇都までの一本道しかない。逆に言えば、砦さえ抑えてしまえば皇都での戦いはこちらが優位に進められる。流通の要を封じることができるからだ。

 槍を支えにもたれかかっていたピナレスが、神妙な顔つきになる。


「絶妙な位置関係だねえ」

「なに?」

「ほらこの三つ。線で結ぶと、きれいな三角形になるでしょ?」


 ピナレスは地図上のサルク城、クウガ城、ディニュー砦を順に指差す。


「山岳で睨みを利かせるクウガ城と、ケンタウロスの侵攻を防ぐサルク城。この二つも含めて、皇都を守る砦なんだよ。一箇所を攻められれば、あとの二つからすぐに援軍が飛んでくる。たぶん、そういうふうに設計されてる」

「そのわりに、今回やってきたのはクウガ城の主だけだったが」

「あ、ピューマ公ってクウガ城の城主だったんだ? ダニエルさん、よく知ってるね」

「……故郷が奴の治める領地内にある」


 言葉少ななダニエルに、ピナレスはそれ以上踏み込まない。すぐに主題へと戻り、地図との睨めっこを再開する。

 空気の読めない男かと思ったが、戦いだけでなくこういうところの勘も良いらしい。


「それもピューマ公の独断っぽかったし、本当なら誰も援軍に来ない予定だったんだ。どういうことだろう」

「援軍が来ないなら、俺たちにとっちゃ好都合だ。しかも、クウガ城は城主不在。これ以上の好機ないですよ」

「こちらに都合が良いことは疑ってかかるべきでしょう。それが、私たちが生き残ってきた術なのですから。今回援軍がなかったからといって、次もないとは限りません。策とは、常に最悪を想定して立てるものです」


 最近の勢いに調子付いていた男たちに、ヴァージニアは初心に帰れと戒める。流れは自分たちが作ったものではなく、作られたものかもしれないと。

 私自身、背中を押してくる運命に不快感を覚えていた。

 ヴァージニアのように罠を疑っているわけじゃない。予定調和の段取りが着々と組まれていくようで、先の分からない不安がある。

 暗闇を手探りで進んでいる中、光に照らされた道を見つけたら、そこへ向かうしかないではないか。先は分からなくても、せめて足元は明るくあってほしい。そう思うのが、人の心というものだ。

 私を、私たちを、どこに押し進めたいのか。運命に問いただしたかった。

 例のごとく、答えが返ってくるわけではないから、無駄な試みにすぎないが。


「たとえ援軍が来なくても、私たちに要の砦を真正面から落とせるだけの力はない。足りないものぐらい分かるだろう?」

「度胸ですかね」

「いや、勇気でしょう」

「根性に決まってるだろ」

「そういう精神論、嫌いだな。私は」


 自信満々で答えてくるのをやめてほしい。吹けば飛ぶほどしかない私の自信が揺らぐ。


「あなたたちには知恵が足りてません」


 ヴァージニアが呆れ果てて、首を振る。ダニエルはいつもの仏頂面で、ピナレスは苦笑いをしていた。


「私たちには攻城兵器すらない」

「この街でいくつか見つけましたよ!」

「それでもだ。……ドワーフの火薬も使い果たしてしまったし。正攻法なんて馬鹿げてる。もっと別の方法を——」


 言った途端、期待に輝く複数の目が向けられ、私は口ごもった。過剰な期待をかけられるのも苦手だ。


「別の方法とは?」

「う……、それは、これから考える」


 時間が欲しい。このプレッシャーから逃れるためにも。




 息抜きに城を出ると、ピナレスも後をついてきた。彼は私の護衛を言いつかったのだから当然か。この身が他者にとって重要になればなるほど、一人になれる時間は減っていくらしい。

 迷惑だとは思わない。むしろ嬉しいぐらいだ。

 寂しがり屋で孤独が何よりも嫌いなくせに、人が怖くて近付けなかった十代は、あの夢を見た時から過ぎ去った。寄ってくる人間は簡単に好きになる。自分でも危なっかしいやつだと思う。

 城門を抜けて街中に降り立ち、寂れた空気を吸い込む。放置された死体をついばむ、カラスのしわがれた鳴き声が聞こえた。


「考える時間はそれほどありませんよ。彼らが言うように、好機であることに違いはないですし。好機というやつは、一度逃すと二度目はなかなかやってこないもんです」

「そう急かすな。今、この状況であり得る未来を見ているんだから」


 ピナレスは軽く頭を下げ、引き下がる。

 未来予知の魔法を使わなくても、これから先のある程度の予測はつく。運命に翻弄されるとは言うが、不意打ちのような展開はなかなか来ないものだ。必ず、どこかに、ヒントが転がっている。丁寧にこれまでのことを思い返せば、手立ては見つかる。

 現在から枝葉を伸ばして、あの砦を落とす結果を見据えようとするが、どうしても途中の要素が抜け落ちている。

 首をひねって考え込んでドツボに嵌まりそうになった頃、慌ただしく飛び立つカラスの羽音が耳に入った。続いて、嬉しそうな響きを持つ犬の鳴き声が。


「え、うわ、こんなところまでっ」

「ワオン! ワフ!」

「やめろー!」


 騒ぎの方を向くと、ピナレスが犬に襲われていた。後ろ足で立ち上がると体長が、彼の身長ぐらいはありそうな大きな犬に。

 抱きついてきた犬に顔面を舐められまくり、悲鳴を上げる彼はどことなく楽しそうな顔をしている。危機感はまったくない。

 助ける必要がなさそうだったので、思考に戻った。

 でもすぐに、ここでなにかしら聞いておくのが人とのコミュニケーションの取り方ではないか、と思い直した。一人の期間が長かったからといって、そういうのをないがしろにするのはよくない。人付き合いが苦手な人だと思われてしまう。


「その犬、顔見知りなのか」

「道中で餌付けしちゃったんすよねー。野宿してたら、物欲しそうなこいつが寄ってきて」


 それはもしかしたら、野犬がきみを食おうとしたんじゃないか。と思ったが、口には出さないでおく。

 最初の動機がどうであれ、今目の前にいる犬は、大きく広げた口で笑顔を浮かべているだけだ。彼を食そうなんて思いはこれっぽっちもない。犬は犬なりに恩義を感じているらしい。

 じゃれあう彼らを見つめていたら、城からヴァージニアとダニエルが駆け出てきた。


「い、いま、犬の吠え声と悲鳴がしませんでした!? もしや獣人の残党が!?」


 大慌てのヴァージニアは、自力でピナレスと犬を見つける。目を丸める彼女に、なんと声をかけたらいいか分からない。


「だから言ったろ。獣人はあんな声を上げないって」


 無駄足だったと息を吐くダニエルを見上げた後、彼の足元に目を向けて、ヴァージニアは再び目を丸めた。

 どこからわいて出てきたのやら。四匹の子犬が、わらわらとダニエルの足にまとわりついていた。

 無言で説明を求めるヴァージニアの視線に、今度はダニエルも困惑した顔をした。


「ああ、昨晩その子達に食事を分けてくれたのは、そちらの御仁でしたか。どうも、私の子がお世話になりました」


 さっきまで舌を垂らして尻尾を振っていた犬が、急に理知的な顔つきになり、流暢な言葉を操る。

 これにはヴァージニアでなくとも驚いた。ダニエルの貴重な驚き顔もおがめた。


「しゃ、しゃべった」

「あー、うん。こいつら、賢獣なんすよ。山犬の」


 賢獣。言葉を解す獣形態の種族。その知恵は人智と同等とも超えるとも言われる。

 ぐるぐると、賢獣についての知識が頭の中を巡る。


「賢獣の子だったのか」


 まとわりつく毛玉を見下ろし、ダニエルはにわかには信じがたい様子だった。大人の山犬と違って、毛玉たちが人語を話し出す気配はない。


「人の子だって、生まれた瞬間から言葉を話すわけではないでしょう? 元気に走り回っていますが、その子達はまだ赤ん坊なのです」

「ああ、なるほど……」

「え? ちょっと待って、食事を分け与えたってどういうこと? なんの話?」


 立ち直ったヴァージニアがダニエルに詰め寄る。


「軍の備蓄には手を出していない。僕の分の食事を、ちょっとあげただけだ。問題ない」


 言ったそばから、間の悪い腹の虫が鳴く。ヴァージニアはぽかんと口を開けた。


「本当に?」

「問題ない」


 ダニエルは同じ言葉を返すも、顔を背けている。ピナレスが肩を震わせた。

 山犬の賢獣は申し訳なさそうに、くぅんと鳴いた。


「我々は一飯の恩も忘れぬ一族。我々にできることがあるならば、引き受けましょう。施しの礼に」


 賢獣は人とは違う独自の倫理と法則に従って生き、それを曲げることを何より嫌う。

 もし、この山犬の賢獣が、“受けた恩は必ず返さなければならない”という倫理観を持っているとしたら——たとえ恩人が逃げたとしても、地の果てまで追ってきて恩を返そうとするだろう。

 基本的には人同士の争いに介入しない彼らも、己の価値観を貫き通すためなら手を貸してくれる。獣人を乗せ空を舞ったグリフォンのように。

 こんな意味ありげに現れた賢獣が、私たちとなんの関係もないはずがない。


「賢獣が人間に施しを貰うなんて、よっぽどの事情があるように思えるな。そんなに飢えているのか?」

「我々は『犬』ですからな。近頃はすっかり風当たりが強くなってしまって。サンダリオ殿が健在の頃は、まだ待遇が良かったのですがね」

「……? あなたたちが犬であることに、何の関係が?」

「おや、もしやこの国の『犬属』と『猫属』の対立をご存知でない? 力の均衡が崩れて以来、そこらのものを喋らぬ猫どもの方が我らより、よほど肥えている。ひとえに獣人が、似た姿をした四つ足を『兄弟』と呼び、贔屓したばっかりに」


 垣間見えたこの国の事情に、点と点が繋がり始める。

 タズィ公が忌々しげに吐き捨てた名は、猫属の誰かなのだ。そして、その誰かこそが彼を孤立させ、援軍一つ寄越さなかった張本人なのだろう。タズィ公は人間に殺されたのではない。同じ国の獣人に、見殺しにされたのだ。


「獣人たちは一枚岩ではない……?」

「その通り。そもそも軍部の実権が強すぎるのです。『大王』なんてお飾りで——」


 山犬は聞いてもないことを喋り始める。恩を返すとは聞いたが、少し協力的すぎるように思える。

 こちらの怪しむ気配を感じ取ったのか、山犬の口から川のように流れる言葉が一度止まった。


「我々は一度受けた恩は生涯忘れませんが、忘れぬのは恩だけとは限らない。受けた仇も全力で返しにいきます。あなた方が『猫属』に牛耳られるベスティニア皇国を滅ぼしに行くというなら、我々にはなんら止める理由がないのです」

「…………。ディニュー砦について」

「あそこもかつては『犬属』が駐在していたもので、我々もよく遊びに行きました。獣人だけでなく、奴隷の人間にもよくしてもらいましたよ。砦の『犬属』が皆飛ばされて、『猫属』が居座るようになってからは、ご無沙汰していますが。……抜け道、変わっていないといいですね」


 すまし顔で、山犬は言ってのける。

 想像以上だ。普通の人間なら、天の思し召しだと舞い上がっているところかもしれない。

 私からすれば、運命のあからさまな手招きが見えている状態、と言うべきか。そんなことをされなくても、道はそこしかない。だったら、飛び込むしかない。

 ああ、でも、嬉しいことには違いなかった。ようやく、暗闇から抜け出せる。

 呆気に取られているピナレスの肩を強く叩く。


「きみが、今、ここに、来たのにはちゃんと意味があったんだ!」

「よ、よく分かんないすけど、えーと、ありがとうございます?」


 ピナレスは疑問符を浮かべながらも、一緒になって嬉しそうな顔をしてくれる。


「あなた今、賢獣引き換え券として扱われたようですよ」

「えっ」

「引き換え券というか、賢獣のおまけ扱いだな」

「ええっ」


 ヴァージニアとダニエルの指摘に、ピナレスが抗議し始める。

 騒がしい周りを放置して、私は山犬から、さらなる情報を聞き出していた。私たちに不足していた情報と、情報を収集する力、その両方が一度に手に入ったのだ。活用しない手はない。

 思わず普通の犬を相手するように、首に抱きついて頭をなでてしまう。賢獣相手に失礼だったかと思うのもつかの間、山犬はしょうがないなあ、とうそぶきながら尻尾を振っていた。



 ******



 行軍は谷間の道に差しかかった。

 仲間の兵士たちは、サルクの街で手に入れたお古の鎧を身につけて、馬に乗る私とピナレスのあとをついてきている。誇らしげに張った胸で輝いているのが、タズィ公の紋章だというのが切ないところだ。

 寄せ集めの私たちに立派な紋章があるわけなく、統一感がないのは仕方ない。しかし、だからといって。いくらなんでも、討ち取った敵の紋章を借りるのは無しだろう。せめて黒塗りにするよう、後で言っておくとする。

 ヴァージニアに頼めば、旗印の一つや二つ——意気込んで十パターンぐらいは作ってくれそうなものだが、あいにく今は別行動中だった。彼女は軍のおよそ半数である七千の兵を率いて、クウガ城に向かっている。

 必ずしも城を落とす必要はない。ただ、ディニュー砦に出撃してくるかもしれない援軍を牽制するだけでいい。彼女にはそう言った。……のだが、攻められそうな隙や余裕があったら城を落としていいんですね? と聞かれて、好きにしていい、と答えたのはまずかったかもしれない。

 分かりました、余裕作って攻めますね。という、やたら好戦的な答えが返ってきたのが、不安でならない。


「胃がきりきりする。心労で吐きそうだ」

「元気出してください。きっと大丈夫ですよ。そろそろコーディも帰ってくる頃だと思うし」


 コーディというのは、あの山犬の賢獣のことだ。本名はコーデミロンだと名乗ったが、気軽にコーディと呼んでほしい、と言っていた。

 これではまるで、私が、家出した犬の行方を心配しているかのようだ。


「なぜダニエルを行かせてしまったんだろう」

「なんですか、それ。そばにいるのが、おれでは不満ですか。めっちゃ分かります。ダニエルさんって頼りがいありますもんね!」

「そばにいるのはきみがいい。元気が出るから」

「あー、たしかに。カリム様とダニエルさんって、二人して落ち込んでそう」

「きみは失礼だ。褒めるか貶すか、どちらかにしろ」


 ダニエルも、私たちとは別行動をしていた。もう半年ほど、顔を合わせていない。

 彼は一足先に、ディニュー砦にたどり着いている。砦内部で働く奴隷として。

 ディニュー砦で人間の奴隷が働かされていると知った時、これしか方法はないと思った。内部の人間を味方につけ、砦を内側から食い破るしかないと。私たちが外から攻めると同時に、ダニエルが先導して奴隷が反乱を起こす計画だ。

 本当なら、その役目は私がやりたかった。だが、仲間の猛反発を食らって、やらせてもらえなかった。

 私の代わりに手を挙げたダニエルは、ほかに四人の男を共として選んだ。彼らは人間の難民を装い、奴隷商人の馬車が通ると、あらかじめ分かっていた街道で、野犬の群れに襲われた。

 野犬の群れは、コーディ率いる山犬たちだ。もちろん、事前に打ち合わせた通りの段取りだった。

 ディニュー砦に向かう奴隷商人の情報も、コーディが持ってきた。『猫属』の支配下に入ってからというもの、ディニュー砦はよく奴隷の買い入れをしているらしい。

 通りかかった馬車は野犬を蹴散らし、拾い物をする。人間の奴隷という商品を。

 こちらは余談であるが、人間の中には、自分から望んで奴隷に身を落とす者もいると聞いた。それほど、ベスティニア皇国で生きる——あえて、こう表現するが——野良人間は貧しいのだ。奴隷になれば、少なくとも食いつなぐことはできる。明日の死と天秤にかけた結果だ。

 奴隷商人の馬車に拾われた後はもう、大人しく運ばれていくだけだ。商魂たくましい獣人は、必ずディニュー砦に連れて行ってくれる。

 ダニエルたちが馬車に詰め込まれるまでは、私も隠れて見届けていた。


「私が行った方が絶対良かった。そしたら、今みたいに心配で死にそうになることもなかった」

「少しはダニエルさんのことも、信頼してあげてくださいよ」

「信頼とか、そういう問題じゃないんだよ。暇つぶしに奴隷を鞭打つような連中に囲まれるんだ。彼の身を案じるのは、当然じゃないか」

「で、カリム様はご自身の立場を理解したうえで、そういう場所に行こうとしたんですか。ずいぶんな自己犠牲精神っすね」

「私なんかは傷付いていい人間なんだよ。どうせ——死なないんだから」


 どうせ死ぬんだから、と続けようとして途中で思い直す。やたら不遜な台詞になってしまったことは、口にしてから気付いた。

 ピナレスは呆れ顔で首を振る。


「心配で死にそうになっている人が、敵地に侵入して死なないと断言するんですか。自信があるんだかないんだか」


 自分が死なないのは——近いうちに死ぬことがないのは、分かっている。だが、ダニエルはどうなるか分からないのだ。ヴァージニアだってそうだ。

 実際に、生きて動く彼らに再会するまで、私の不安は払拭されない。


「そんなに気になるなら、いっそ、別のことを考えましょうよ。……えーと、なにか面白い話はなかったかなあ。あ、カリム様は〈追い剥ぎ〉の噂を聞いたことがありますか?」

「珍しくもないだろう、盗賊なんて」

「そこらの、金品を奪うだけのやつらと一緒にしてはだめです。そいつは、襲った獣人を皮まで剥いでいくんです。まるで外套を剥ぐみたいに、ぺろりと。なんと、そいつは集めた毛皮で衣服を作り、自分を着飾っているそうですよ。怖いですね。最近、巷を騒がす——獣人の間では、噂の殺人鬼」

「……きみ、気を紛らわせる話題として、最悪のものを選んだな」

「え、なんでっすか。こういう話って、わくわくしません?」


 彼がどういう育ちをしているかは分からないが、世間一般とは感覚がずれているようだ。




「カリム様、砦の内部より書簡が届きました」


 それからそう時間が経たないうちに、ピナレスが筒状の書簡を手に声をかけてきた。

 コーディが、ダニエルの綴った書簡を持ち帰ってきたのだ。山犬が昔使っていた抜け道はまだ残っていたらしく、もう何度も、こうやって砦内部とやり取りをしている。

 人間が通るには狭い穴らしいので、侵入には使えない。どちらにしろ、“正式な手続き”を踏んで砦に入った方が、怪しまれないのは確実なのだから、私たちのやり方は間違っていないはずだ。


「これで最後か」

「そうですね。協力者を得ることにも成功しましたので」


 ピナレスから書簡を受け取り、その内容について、いくつか確認を済ませる。

 今は同行していないが、山犬たちも砦攻めに協力してくれる手筈になっていた。


「彼らとはいつ合流することになっている?」

「この道を抜けて——」


 答えようとして、ピナレスはふいに声を止めた。訝しく思い、彼を見ると、彼は頭を動かさず横目で崖上の茂みを睨んでいた。


「……ちょっと待ってくださいね」


 声色が固くなり、ぴりっとした緊張感が走る。

 あたりにざっと視線を走らせてから、ピナレスは腑に落ちない顔で意識を前方に戻した。


「どうした?」

「いえ、少し気になることがあって」


 ピナレスは馬を寄せてきて、声を潜める。


「誰かにつけられています。さっきからずっと、視線を感じるんです」

「相手は複数か?」

「確証はないですが、おそらく一人かと。……それと、人間じゃあない。あんな手練れの雰囲気、人間には出せませんよ」


 首を傾げ、思い当たる節を考えてみるが、まったく思いつかない。仮に刺客だとしても、私にとっては何の問題もないのだが、周りの者たちにしてみれば放っておくわけにいかない。

 いや、もしかしたら、この半端なタイミングでデュラハンがやってきたのか。

 普通に考えると、これから一戦交えようとしているのだから、死ぬ可能性は十二分にある。だが、私がなしたことを考えると、中途と言わざる得ない。

 まだ早すぎる。


「そいつは生きていると思うか?」

「生きてない可能性があるんですか? 死体が動き回って、殺気を送っているとでも?」

「いや、死霊術師の知り合いはいない。忘れてくれ」


 殺気を感じたというのが確かなら、まず間違いなく、精霊ではない。彼らのような存在が、個の強すぎる感情を前面に出すはずがないからだ。

 息する者が相手なら、対処できる。


「ついて回られると鬱陶しいな。砦攻めの前までに、おびき出すとするか」

「そんなことできるんですか?」

「私が囮になる」

「ま、また! そういうことを言う!」


 大声を出したピナレスに対し、唇の前で人差し指を立てる。ぐっと声量を落としたピナレスは、情けない顔で訴えかけてくる。


「そんなことしたら、おれが、ダニエルさんに絞められます。ヴァージニアさんにいたっては殺されますっ。ほんと、カリム様の最前線で戦おうとする精神には頭が下がるんですけど、少しは安全地帯で指示を出すことも覚えてください」

「それでは私が生きている意味がない。——大丈夫だ、私は死なない」


 心配で死にそうなどとほざいていた男の言葉に、どれだけの説得力があったかは分からない。

 だが、ピナレスは気圧されたように口を閉ざし、それ以降は反対の声を上げなかった。



 *****



 砦攻めの前夜、私はそれと出会った。

 継ぎ接いだ毛皮を被る、ケンタウロスの娘と。


「噂をすれば、というやつですか……。おれが呼び寄せちゃったのかも」


 全身に矢を突き立てられ地面に横たわる娘の死体は、噂の〈追い剥ぎ〉だったものだ。

 穴という穴から流れ出た血が足元まで広がってきて、私を血の泉に引き込もうとする。まるで、矢を射られた後も、驚くべき執念で手を伸ばしてきた彼女自身のように。

 ピナレスから話を聞いた時は、どこか遠くの、時代も違う怪奇伝説のように思えたが——生々しくやってきたそれを目前にして、とてもそんな感想は出てこない。

 動物と獣人の毛皮なんて、比べても見分けが付かないのではないかと思っていた。そんなことはなかった。

 間違いなく人の皮だった。この娘がまとっていたのは、憐れな人から剥ぎ取ったものだった。

 対峙すると、毛皮に染み込んだ怨嗟に立ちくらみを起こしそうなほどに。


「こいつは通り魔なんかじゃない。明確に、私を狙っていた。だから、たぶんピナレスが気付く前から、ずっと後をつけてきていたんだ。……私も、ついに人に恨まれるぐらいにはなったか」


 この分だと、私の死因は他殺になるか。ぐっと死が歩み寄ってきている。

 人気のない森の開けた場所までおびき出した後は、隠れて待機させておいた弓兵たちが、襲撃者を狙う。私が一人で仕留めると言ったら、猛反対したピナレスが提案してきたものだ。これでも、大分妥協したと言っていた。おもに私を囮に使う部分を。

 彼らからしてみれば、当然の反応だ。だが、私はそれが無意味に思えてならない。

 私を守って周りの者が死ぬなんて、本末転倒なことが、あってはいけない。私は私が死ぬまでの間、その命を彼らのために使うと決めているのだから。


「しかし、まさか女だったとは。この死体、どうします?」

「埋葬する義理も、時間もない。このままにしておく」


 夜営地へと戻るため、ケンタウロスの死体に背を向ける。ピナレスもすぐあとを追ってきた。

 夜の森に、フクロウの鳴き声だけが響く。遠くに見える砦では、赤々と灯りの火が燃えていた。


「ケンタウロスは理知的で、人情にあふれた民族だって聞いたんすけどね」


 背後を気にするように振り返りながら、ピナレスは切り出す。

 エルフのように博識を鼻にかけることもなく、有翼人のように他者を見下すこともない。サテュロスほどの無茶はせず、ほどよく羽目を外す心得もある。他人種の友人を作れと言われたら、まず間違いなくケンタウロスを選ぶ。

 それも、まあ、昔の話だが。


「たった一人の猟奇的な行為で、その認識を覆すのもどうかな」

「おれの両親は、ケンタウロスに殺されたらしいんすよね」

「それは、……そうか。私はまた、無神経なことを——」

「ああ、そういうんじゃないんですよ。ただ、多くの人がそう思っていた、きっとケンタウロス自身もそうあろうとした姿が、崩れつつあるのは、なんでだろうって。彼らを——彼女を、狂わせたものはなにか、って思っただけです」

「……恐怖。鬱憤。愉悦。感情に絞らないなら、貧困や差別か? ……なんだっていい、なんでも理由になる」


 納得する答えを、勝手に決めればいい。

 そもそも、今まで装ってきたものが、この戦乱で剥がれただけの話かもしれない。人間にしても、大人しく従順な民族、ということで評判だったのだ。特に、奴隷を買うような獣人層に。

 今、剣を持つ私たちと、どちらが本性かなんて、言えない。

 ピナレスは肩をすくめ、同意を示した。


「おれが生まれた村は、ケンタウロスの賊に襲われてなくなりました。さっきの奴みたいな、猟奇的なのじゃなくて、普通の。財産と命と貞操を奪っていく、特段珍しくもない連中に。……といっても、おれはほんの赤ん坊だったので、その時のことは全然覚えてないんですけど」

「でも、きみは助かっている」

「おれは床下の物置に隠されていたそうです。両親がとっさの判断でそうしたんでしょうね。赤ん坊一人ぐらいなら、入る隙間があったんだ。で、両親は襲撃で死んだ。壊滅した村にたまたま立ち寄って、その赤ん坊を拾ったのが、おれの育ての親です」


 ピナレスはそこで少し笑みを浮かべた。育ての親のことを、本当に慕っている様子が伝わってくる。


「ちょっと話がそれましたけど、おれが言いたいのは、だからといって、ケンタウロスのことをそれほど憎んでいるわけじゃない、ってことです。そんな理知的な人種が狂うほど、今の世の中おかしいんだ、って思うだけで」

「…………」

「おれは、世界を正すために貴方のもとに来ました」


 人の狂い方もそれぞれだ。そう思わずにはいられなかった。

 澄んだ目で、希望に輝いていると言ってもいい。なるほど、育ての親は、実にまっすぐ彼を育て上げたようだ。意図した結果ではないかもしれないが。


「きみを育てた人は、いい人に違いないな」

「少し話しただけでも、父さんの良さは伝わっちゃいますか! そうなんすよ、父さんは良い人なんです。優しくて頭が良くて強くて、ついでに格好良い! この槍も、父さんから貰ったものなんです!」


 誇らしげに、ピナレスは二又槍を掲げた。

 こんな立派で目立つ武器を持っていた、という彼の養父に、多少の疑心は抱いたものの、その場では特に追及しなかった。ヴァージニアに対して、「拾った」などとあきらかな嘘の説明をしていたことも、些細な齟齬だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ