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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【終章 我こそが正義】
38/44

2.いずれは異端を狩る局長

 弱者ゆえに苦しい生活を強いられている人間は各地にいて、ひとたび世の情勢に目を向ければ、そんな光景は嫌というほど見ることができた。こちらから情報収集しなくても、いくらでも話は飛び込んでくる。

 傭兵崩れのリザードマンから略奪される村や、獣人兵士によって徴発と称して物資を強奪される集落。逆らったら殺されるのは目に見えているから、人間は大人しく従うほかない。備蓄を差し出せば、今年の冬を越えられるかどうかも分からないのに。

 明日死ぬか、寒い冬に飢え死にするかの選択の日々。

 私たちは困窮する村々に出向いては、盗賊を撃退した。主力はヴァージニアによる魔法で、アラクネの時と同じ、火を使った騙し討ちが常だった。

 ただ、純粋な魔力だけでは、力不足を痛感することが多く、より効率のいい燃料を探し求めるようになった。酒を使えたのは、彼女たちを助けた時の一回限りだ。

 行き着いた先が、ドワーフの火薬だった。たまたま、手に入れる機会があった。運命の後押しというやつだ。警備がザルなのが悪い。

 これが、爆発的な火力を出す。戦略の幅は大いに広がり、ついでに派手になった。

 助けた村の中には、感銘を受けたとか言って、私たちについてくる物好きもいた。最初は二十人だった集団が、今では五十人近くになっている。

 ヴァージニアが積極的に、私のことを『英雄』などと喧伝するものだから、噂が一人歩きしているらしい。最近では、向こうから助けを求めにくる人間も増えた。

 『英雄』という象徴であろうとして、一人称を「私」と改めてしまう自分も自分だが。

 死ぬまでの、つかの間のごっこ遊びだ。本物の英雄になんて、なれるわけがないから。




 そして今、私の前には直立不動の男が一人いる。

 椅子をすすめた声は無視され、こちらを品定めするような視線で見下ろしてくる。ヴァージニアは早くも、不愉快そうに机のささくれをいじり始めていた。

 いつものように賊を追い返して、町の宿で一息ついているところだった。宿の主人が客人の来訪を告げに来た時は、また近隣の村から助けを求めに来た人間だろうと思った。が、どうやら違うらしい。

 その男は、これまでの臆病な村人とは雰囲気が異なっていた。すがりつき、泣きついてくるような様子は微塵もない。私たちが役に立ちそうにないと判断したら、そのままふいと帰ってしまいそうな感じすらある。

 村の者にちょっとおつかいを頼まれた、というわけでもなさそうだ。

 くたびれた服はあちこちほつれ、無精髭は生え放題。自分の身だしなみにとことん無頓着なようで、さらに言うと、人に会うのだから少しぐらい身なりを整えよう、とは考えなかったらしい。灰褐色の髪はぼさぼさで、無造作に伸びた前髪が顔に影を作る中、琥珀色の目ばかりがぎらついていた。

 野性的ともいえる目であからさまに観察され、息が詰まる。今なら、狼に睨まれた小鹿の気持ちが分かる。

 自分の泊まっている部屋が、まさかこんな気詰まりする空間に早変わりするとは。好奇の目にさらされても、一階の食堂で会うべきだった。今さら後悔する。


「部屋まで押しかけるような真似をして申し訳ありません」


 長い沈黙を経て、男は低い声を出して頭を下げた。


「『英雄』と名高いあなたを見込んで、ぜひお手を貸してもらいたく、やってまいりました」


 話し出すと意外にも男の物腰は丁寧で、それだけで私はほっと安堵する。

 ヴァージニアは机のささくれいじりを止め、むすっとした声を出す。


「村が賊に襲われそうで大変です。助けてください。たった二言、そう言うだけで済む話ではありませんか。何をこんなに時間をかける必要があったのですか? あと、最初に自分の名前ぐらい名乗りなさい。カリム様が椅子をすすめているのだから、座りなさい。無用な遠慮こそ、失礼というものです」


 当然のように私の隣に座るヴァージニアを一瞥した後、男はこちらに視線を戻した。

 見事な仏頂面だ。自分よりあきらかに年下の女に、刺々しく指摘され、さすがに怒ったか。内心でどきどきしていると、男は素直に椅子を引いて座った。

 そして、もう一度頭を下げて名乗る。


「ダニエルといいます。失礼いたしました、カリム様」

「やればできるではありませんか。カリム様、この人、良い人ですよ。助けてあげましょう」

「助けるのは構わないけど、きみ、単純すぎやしないか……? 今の会話のどこに、人の善悪を判断できる要素が? ……あ、ダニエルさんのことを疑っているわけではないですよ」


 一変してご機嫌になったヴァージニアの判断基準に困惑しただけで、彼を悪い人だと断ずる基準は、もちろん、私にもない。


「敬称はなくてかまいません。それと、僕なんかに敬語を使う必要も」

「それを言うなら、私だって様付けされるような人間じゃない。普通に話してくれ」

「はあ、それはまあ、考えておきましょう」


 こころよく了承されなかった。

 まるで、仏頂面が眉をひそめるぐらいの難しい要求を、私がしたみたいになっている。衝撃を受けて口を開けなかった間を、ダニエルは、こちらが本題を聞く姿勢になったと見なしたらしい。

 彼は手を組み、話し始めた。


「カリム様は『バフォメット』という集団をご存知ですか」

「……バフォメット?」

「そういう名の、サテュロスの徒党です。そこらの賊よりも悪質で、最低な」


 そこでいったん、ダニエルは言葉を途切れさせた。

 表情はもとから固いため、ほとんど変化なかったが、組んだ手が自らの甲に爪を立てていた。爪の中にまで入り込んだ汚れが、力の入った指先で際立つ。

 ふと、それがただの泥ではないような気がした。

 ヴァージニアは首を傾げる。


「あなたの村が、そいつらに脅されていたり、襲われそうになっているのですか?」


 悠長な問いかけに、ダニエルの口の端が引きつった。


「僕の村は連中にめちゃくちゃにされた。今さら、助けようがない。修復しようもない。……僕は助けを求めに来たんじゃない。『バフォメット』を一匹残らず殺す手伝いをしてくださいと、頼みに来た」

「私たちに復讐の手伝いをしろというのですか」

「僕自身に復讐のつもりはない。もちろん、胸の中に憎悪がないと言えば嘘になるが……。考えてみてくれ、連中を放っておけば、同じ被害を受ける人や村が増えるばかりだ。僕は、彼らが悲痛な叫びを上げるより前に、連中の凶行を防ぎたい」

「その凶行というのは、具体的にどういうものなんだ?」


 ダニエルはヴァージニアを気にするように見た後、できるだけ事務的に、たんたんと語っていった。


「『バフォメット』は各地の女性を、人種の隔てなく、陵辱してまわる暴漢の集団です。それ自体が目的なんです。金品には見向きもせずことに及ぶんだから、そうとしか考えられない……。女は手籠めにされ、男は赤子であろうと老人であろうと殺されます。——僕はその時、たまたま村を留守にしていたので、生き残りました。暴漢のサテュロス共は、自分たちの気がすむまで村に居座った後、女を放って出て行きます。残された女の腹には、否応なく押し付けられた子が宿っている場合もある。それが、『バフォメット』のすることのすべてです」


 爪を立てた甲から血がにじみ出ても、彼は気にすることなく——気付いている様子もなく、さらに深く爪を突き入れようとした。ヴァージニアがとっさに伸ばした手に握られてやっと、ダニエルははっと組んだ手を解いた。

 ヴァージニアは真剣な目でダニエルを見据え、一切の拒否を許さない声で言う。


「カリム様、次の目標は『バフォメット』を壊滅させることです。この世に存在すべきでない命があるのなら、私たちはそれに自ら手を下しましょう」

「それが私のやるべきことだというなら、やってみせるとも」


 幸い、首無し馬の蹄の音はまだ聞こえない。アラクネの生け贄になる運命だった娘を助けただけでは足りない、というなら、サテュロスの悪漢どもだって退治してみせる。

 ダニエルは言葉を詰まらせて、頭を垂れた。

 ヴァージニアは立ち上がって、彼の側に寄り添う。そして、最初とは比べものにならないほど優しくなった声で、彼をうながした。


「とりあえず、身なりを整えましょう。たしか、宿の裏手に井戸があったはずです。髪を切って、髭を剃って……服は私が繕ってあげますから」

「あ、ああ」


 言われて初めて、ダニエルは自分の状態に気付いたような声を出す。気にしていなかったのではなく、気にかける余裕もなかったのだ。

 恥じ入るように唇を噛む彼の背を押して、ヴァージニアは部屋を出て行く。

 一人残された私は、想像以上に腐敗していた世の中に驚愕し、それを正すことに積極的になっている自分に気付いた。



 *****



 生きている意味なんてないもの。

 『バフォメット』の足取りを追う過程で立ち寄った小さな町で、獣人の女は言った。男の影のない町は、どこぞの神話に残るような女だけの楽園とはほど遠く、重苦しく荒んだ空気に満ちていた。

 決して、男の目を気にする必要がなくなって、身なりを好き放題にしているわけではないだろう。破れたような服を、いっそボロ布を肩にかけているだけと言ってもいいような格好を、さらしている女たちは、数週間前のダニエルを彷彿とさせた。

 髭を剃り、無造作に伸びていた髪を散切りにした彼は、初めの印象とは段違いに若々しく見えた。聞けば、私より二歳年上なだけだった。

 『バフォメット』に襲撃された村や町は、どこも同じように、生気の失せた女たちがさまよっていた。数少ない男の生き残りであるダニエルが、彼女たちと決定的に違うのは、その目に宿る光の強さ——生きる気力そのものだった。

 彼にはまだ、生きている意味があった。

 それがたとえ、負の側面が強い動機であったとしても。成し遂げるまでは、彼は自ら死を望んだりしない。

 『バフォメット』の行方を尋ねた私たちを、獣人の女は品定めするような目で、とりわけダニエルを注意深く——観察して、疲れたように笑んだ。


「私達を殺していってくれないかしら」


 そしたら、あなた達の欲する答えを教えてあげる、と。

 獣人の女は、己と路傍で寄り添ってすすり泣く娘たちを、指差した。

 ダニエルの肩が強張り、ただでさえ表情に乏しい顔が硬くなる。彼女が私ではなく、ダニエルに頼んでいるのは目線からして明白だ。他の誰であってもいけない、という強い意思を感じ取れる。

 ダニエルは押し殺した声をしぼり出す。


「死にたいなら、勝手に死ねばいい。なぜ、人の手を借りようとする」

「獣人にとって、自殺は禁忌なのよ。だから、死ぬには人の手がいる」

「人に頼んで殺してもらうのは、禁忌じゃないっていうのか」

「そうよ、抜け道ってやつね。どう? 私達を救うと思って」


 顔を歪め、ダニエルは非難がましく言う。


「おまえも、僕に嫌なことをさせるのか。自分ではやりたくないからって、汚れ仕事を押し付けるんだな」


 獣人の女は悲しげであったが、申し訳なさそうではなかった。ただ、頷く。


「旦那のもとへ行けるなら、人間にだって頭を下げるわ。……ただ、こんな邪魔なものを抱えていくわけにはいかないから、“こっち”もちゃんと始末を付けてね」


 言いながら、獣人の女は膨らみのない腹に爪を立てた。内臓にまで突き立てる気は、もとよりないくせに。

 ダニエルの目はその瞬間、睨むようなものへ変わった。『バフォメット』に向ける憎悪の、十分の一くらいは、獣人の女にあてがわれたようだった。


「その前に『バフォメット』の行った先を教えろ。そしたら、僕が殺してやるからちゃんと死ねよ」


 剣の柄に手を置き、ダニエルは吐き捨てた。




 血塗れの拳を握りしめ、ダニエルは自分の足元に転がる死体を見下ろしている。裂かれた獣人の腹の中は、私からは見えないし見たくもない。そもそも、本当にそこに何かが在ったかどうかも、知りたくなかった。

 手出しは獣人からもダニエルからも許されず、私はただ、一部始終を目に収めることしかできなかった。

 他の仲間が吐きそうな顔でその場を逃げ去る中、視線を下に向けていたものの、ヴァージニアだけは私と同じように、彼のそばに居続けた。彼が剣を抜いて、すべての女の腹を刺し貫くまで。

 ふいに、表情なく佇んでいたダニエルがつぶやく。


「この世に存在すべきでない命があるのなら、それに自ら手を下す。なるほど、こういうことか」

「わ、私はそういう意味で言ったのではありません! あなたや彼女たちを、ここまで追い詰めた悪漢に対して——」

「いや、“こういう意味”でいい。だって、コレにはその悪漢の血が流れているんだから」


 ヴァージニアの否定をさえぎって、ダニエルは死んだ女の腹を剣で指し示す。

 寒気を覚えたのは、彼に対してではなかった。まだ、自我も芽生える前の段階であっただろうもの。その存在を、おぞましいと感じてしまった。

 彼や、死んだ獣人の女に、共感する自分が欠片でもいることが、空恐ろしい。これから先、自分たちのやっていくことが、未来を見なくとも見えた気がした。

 絶句したヴァージニアも、数秒後には、躊躇混じりの同調をする。


「——それなら、仕方ない……のかも、しれませんね」


 彼女は、とある山で、大量のアラクネの卵を燃やした時のことを、思い出したのかもしれなかった。



 *****



 それからというもの、ダニエルは頼まれようと頼まれなかろうと、『バフォメット』の痕跡を残す女たちを、人種問わず——殺していった。彼らが蒔いた種を、一つ残らず潰すように。

 そうしてやっと追い詰めた『バフォメット』を壊滅させた夜も、ダニエルの表面上は何も変わらなかった。皆が祝賀ムードで、地元の人間に振る舞われた料理を囲う中、彼はいつもの仏頂面を崩さず、一人片隅で水を飲んでいた。そして、気付いたらその場から姿を消していた。

 探しに出たのは、彼がそのままどこかへ行ってしまう予感がしたからだ。

 ダニエルは自分の目的を果たしたのだし、ここに残る理由はない。出て行くというなら止めないが、一言もなく黙って、というのは少々つれない。

 彼の高い背は、町外れの厩舎で見つけた。馬房から顔を突き出す馬のあごをかいてやるダニエルの顔は、こちらからはちょうど影になっている。

 近付いていく私には、馬の方が先に気付いた。


「自分の村に帰るつもりか?」

「帰る場所なんて、ありません」


 馬をなでる手を止め、ダニエルは私を振り返る。暗い双眸と目が合った。

 『バフォメット』の首領を崖から突き落とした直後、ほんの少しだけ見せた達成感も、塵となってかき消えてしまったようだ。『バフォメット』との戦闘中の、憤怒に彩られた形相の方がはるかにマシに思えるぐらい、今の彼は空虚だった。


「あそこにいたら、妹のことを思い出して気が狂ってしまう。それに、あそこに僕の居場所はない」


 『バフォメット』の首領と向かい合った時、彼は叫んだ。妹はきさまらに殺されたようなものだ、と。

 ダニエルに妹がいたことは、その時初めて知った。それまで、彼は私たちとの間に見えない壁を作り、自分の領域には決して踏み込ませなかった。

 その壁が決壊したように。ため込んでいたものが流れ出たように、彼は口を開いた。


「妹は『バフォメット』に穢され、運悪く奴らの子を孕んでしまいました。妹だけじゃない、村にはそういう女性がほかにも大勢いました。腹に子がいなければ無事かといえば、決してそんなことはなくて。残った男達で、彼女達全員を支えていかなければならなかった」


 ダニエルは言う。

 けれど、女達の中には男性そのものに恐怖を覚えるようになってしまった者も少なからずいて、彼の妹も例外ではなかったと。


「声をかけただけで体をびくつかせたり、ひどい時は悲鳴を上げられたりして、僕もつらかったけど妹はもっとつらかったに違いないんです。そういう時、妹は決まってすぐに謝って、本当に申し訳なさそうな顔をしていました。彼女は何も悪くないのに」


 一度吐き出すと、言葉は止まることを知らない。


「腹の膨らみが目立つようになったある日、妹は家に帰りませんでした。慌てて探しに出て、ようやく見つけた妹は森の中で首を吊っていました。彼女は、日に日に大きくなっていく腹に耐えられなかったのです。地面から浮いている妹のつま先の下には、赤く濡れた肉の塊のようなものが落ちていました。近付いて見ると、それが成長途中の胎児であることが分かりました。でも、人間とはあきらかに形が違うんです。歪な脚は、たしかに蹄の形をしていました。そんなものと妹が、へその緒でいまだに繋がっているのが許せなくて、小刀で繋がりを断ち切りました。そんなことをしなくても、それはすでに死んでいたとは思うんですけど。念には念を入れようと思って、僕は胎児の腹を裂きました。それでも足りないと思ったから、ずたずたにしてやろうとしたところで、一緒に妹を捜索してくれていた村の男達に見つかって、止められました」

「ダニエル——」

「妹がいなくなったからといって、僕は村を離れるわけにいきませんでした。傷付いた女達を、皆で支えていこうって決めていたから。臨月に入っていよいよ陣痛が始まった時は地獄でした。なんで悪魔の子を、この人達は腹を痛めて産まなければならないのか。本当は、股の間から頭をのぞかせた瞬間に、引きずりだしてやりたかった。それができないから、生まれたやつから順に絞めていきました。たいていは無言で子どもを渡してくれたけど、中にはそれを嫌がる女もいました。どんな経緯であれ、どんな姿であれ、自分の子どもであることに違いはないと言うのです。あれが、『バフォメット』の首領が妄信し崇拝していた母性だというなら、僕には理解できない。僕には、度重なる不幸でおかしくなった女の言葉にしか、聞こえなかった。男は男で、彼女がそんなに強く言うのなら……と及び腰なんです。僕はカッとなって、泣き叫ぶ母親から子どもを引き剥がして、刃を突き立てました。母親からの罵倒なら、受け入れられた。でも、男達も一緒になって僕を非難するんです。顔ではあきらかにホッとしているのに。思えば彼らは、一度として自分で赤子に手をかけたことはありませんでした。僕の怒りとやるせなさが向ける刃は、彼らにとっては都合の良いものでしかなかった。口で綺麗事ばかり言って、実際には汚いことを何一つ背負えない連中だった」

「ダニエルッ!」


 うつむき加減に語り落としていくダニエルの肩をつかんで、なかば無理やり顔を上げさせると、彼は泣きそうな目をしていた。


「それに比べると、ここに連中は気持ちがいい。綺麗事は鼻で笑うし、僕がやることにも口出ししない。あなたの許しが貰えるなら、僕はここにいたい」


 彼にそのつもりがなくとも、それはある種の脅迫に聞こえた。

 このまま彼をどこかに行かせてしまうのは、見殺しにするのと同義だと思った。生きる意味をなくしたダニエルが行き着く先は、妹と同じ場所に決まっている。

 死に向かうための道を歩んでいる男が、今まさに、死にそうになっている男を押し止めるなんて。まったく、可笑しな話だ。だが、どれだけ矛盾していようと、私はダニエルが惜しい。それがすべてだ。


「きみが残ってくれるなら、大助かりだよ。きみは人をまとめるのに長けているから。これからも、私の手伝いをしてくれると嬉しい。……といっても、具体的なことは何も決まってないんだけど」


 当面の目的だった『バフォメット』の壊滅は果たしたし、また地道に人助けをしていくことになるか。

 そんなふうに考えていると、急き立てられた馬の荒々しい足音が、急速に近付いてきた。ダニエルと私が、そちらに目を向けた時には、すでに荒い息遣いをする馬の顔がはっきり見えた。

 その背に乗った男が、転がり落ちるようにして馬から下りる。そして、血走った目で私たちを見た。


「この町に! 『英雄』がいるとっ、聞いたのだが!」


 息も絶え絶えに、男は口を開く。馬の方は、乗り手がいなくなったと悟るなり、まっすぐ水桶に向かって顔を突っ込んでいた。

 あまりの気迫に、私は小さく手を上げることしかできなかった。


「ああ! あんたか!」


 私の控えめな挙手と、冴えない顔には、なんの疑問も抱かなかったらしい。すぐさま私を求めていた人物だと認めると、がしりと両腕をつかんできた。食い込む指の力の強さに、思わず顔をしかめる。

 男はそんなことはお構いなしに、すがりついてくる。


「妻が奴隷商人にさらわれたんだ! 頼む、助けてくれ!」

「奴隷商人?」

「ベスティニア皇国の奴隷商人だよ! 獣人に連れてかれたんだ! あんたなら、なんとかしてくれるんだろ!?」


 もどかしそうに、男は言い募った。

 ダニエルは合点がいったようで、すっと目を細めた。


「……カリム様、すべきことが決まったようですね」

「この男の妻を取り返すことか?」

「奴隷商人の壊滅では?」


 首を傾げたダニエルは、あの強すぎる目の光を取り戻している。

 少し考えて、私はやんわりと訂正する。


「そこは、奴隷の解放を目的としておこう」

「なるほど」


 男は私たちのやり取りの意味が分からず、焦れったそうにそわそわしていた。

 獣人が治めるベスティニア皇国では、多くの奴隷が働かされている。仕入れ先は戦場であったり、周辺の村落であったり、様々だ。敵対勢力であるケンタウロスやリザードマンといった捕虜が、見せしめに奴隷に落とされるのは、乱世においてはある程度、仕方のないことかもしれない。

 だが、細々と暮らしているだけの、人間をはじめとした弱小人種が奴隷狩りに遭うのは、理不尽極まりない。

 獣人の価値観からすれば、弱さこそ悪、なのだろうが。

 ならば私は、『英雄』として、弱き者の味方をしよう。奴隷解放。デュラハンも満足の、いかにも英雄らしい行動だ。


「奴隷の解放を目指すなら、やはり、ベスティニア皇国を滅ぼすのが手っ取り早いかと」

「あ、あんた、なにを言って——」

「かの国の奴隷文化は、それだけ根強い。根元から断ち切りたいのなら、獣人の『大王』の首を断ち切るぐらいの意気込みが必要です」

「奴隷商人の壊滅以上に、難しいことになったな」

「目標は大きく持つべきです」


 ダニエルは、冗談を言っている口調ではなかった。妻を助けてほしかっただけの男は、ぽかんと口を開けている。

 あの夢を見ていなければ、私だって、何を馬鹿な、と言っていたところだ。だが、それぐらいの大それたことをしないと、デュラハンは迎えに来ないのかもしれない。

 幸か不幸か、いまだ死の宣告者からの音沙汰はない。鎖に繋がれた人々を助けるぐらいの時間は、ありそうなのだ。


「それが私のやるべきことだというなら、やってやる」


 降りかかる火の粉を払っているだけでは、間に合わない。だから、火の粉をまき散らす火の元を消しに行く。

 特に、ベスティニア皇国は現状の戦乱の発端でもある。その一国を潰すというのは、突飛であるものの理にかなっているように思えた。

 すべては人間の安穏な生活のために。

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