1.いずれは人々を導く教皇
覚悟を決めると、空気の読めない腹が恨めしそうに鳴いた。それはともかく、なにか食ってくれ、と主張するように。
ヴァージニアは目を丸めた後、おかしそうにくすくす笑った。周りの連中も遠慮がちに笑い始めるものだから、顔がかあっと熱くなる。
「腹が減っては戦ができぬ、ですね。どうぞ、そこの食事をいただいてください」
「……これ、一人分なのか?」
ヴァージニアが手で指し示した長机には、皿に盛られた料理がずらりと並んでいた。
生野菜のそのまま盛りの隣には、刻んだ野菜をふんだんに放り込んだ吸い物。中央では、川魚の塩焼きと煮付けが、それぞれ主役のような顔をして鎮座する。一方で、食後の甘味であろう果実の蜜漬けは、机の角にありながら数で勝負しようとしている。
端的に言うと、量が多い。
前菜と吸い物、メインとデザート、すべてが三皿以上ある。
「ええ、私の一食分らしいです。祝祭の日が近いので、少しでも肥え太ってほしいのでしょう。私はまったく手を付けていませんので、どうぞ、カリム様がお食べになってください。冷めてしまっているものもあるかもしれませんが……、律儀にすべて食べる必要はありませんよ」
毎日これだけのものを食べていたら、あっという間に太る。
ところが、ヴァージニアも若者たちも太っているどころか痩せ型で、心労のせいか頬がこけていた。彼らにできる数少ない反抗の手段が、不食だったのだろう。美味しくなさそうでいようとした努力が垣間見える。
食事に手を付けながら、俺は彼らからアラクネの情報を教えてもらい、作戦を考えた。
いくら自分が死なないからといって、無鉄砲に突っ込むわけにはいかない。この里までは、わりと考えなしに来たから、反省するところだ。下手をすれば彼らに被害が及ぶ。俺の体一つで、大量のアラクネを食い止めるのは不可能だ。
食事の味付けが意外に塩辛くて、水を求めて杯に手を伸ばす。その時、部屋の片隅に積まれた酒樽が目に付いた。
「その酒は?」
「米で作った蒸留酒です。クモ女どもに捧げるやつですよ。俺たちを肴に飲まれる酒を、自分たちで作らされてるというわけです。しかも、俺たちは禁酒のおまけ付き」
若者の一人が、肩をすくめて答える。それから、にやっと笑って言った。
「飲みます?」
「いや、酒はあまり……」
「そうですか。いやあ、前にちょろまかしたことがあるんですが、俺はまったく飲めませんでしたね。喉が焼き切れるかと思いました。しかもその後、ゲーゲー吐いたし……ほんと、ひどい目に遭った」
「こんな強いお酒をがぶ飲みするからです」
ヴァージニアが呆れた声を出す。
自分は別に、酒に弱い体質というわけではなかったが、飲むことを避けていた。現実から逃れる味を覚えたら最後、溺れてしまうのが目に見えている。帰ってこられなくなる自信があった。
「酒樽はこれで全部か?」
「いえ、蔵の方にもまだ……。もしかして、酒を使うつもりですか? どっかの国のおとぎ話みたいに、怪物に酒を飲ませて、酔わせてから倒すとか?」
相手がマザー一人だったら、その方法もあり得たかもしれない。だが、彼女には手下の娘たちがいる。
まどろっこしいことはしてられない。話はもっと簡単だ。
「酒をまいて火をかける。山火事を起こして、アラクネを一網打尽にする」
若者は怪物と言ったが、アラクネだって人だ。火に焼かれたら死ぬ、煙を吸い込んだら死ぬ。
人間でも、勝てる相手だ。
*****
朝焼けが山を燃やしているようだった。
煙は黒々と盛り上がり、山より高く昇っていく。火に焼かれ黒焦げた木が、幹のあたりからみしみし音を立て、隣の木へ寄りかかる。支えに使われた木も、しばらくは持ちこたえるが、しだいに耐えきれなくなり、最後には共倒れとなる。
そうして、どんどんと火は燃え広がりながら、着実に頂上へ向かっていた。
離れていても、熱気に肌を焼かれる。煙を吸ってしまわないようマントで鼻と口を覆い、俺とヴァージニアは、火だるまになっていく山を最初から最後まで、見守っていた。猛る炎の唸りを、聞いていた。
俺は目に焼きつけるように、彼女は見とれるように。
共通しているのは、この光景を忘れないという思いだけだ。二人とも煙に目をうるませていたが、瞬き一つしなかった。
「あいつらは自分たちが焼き肉になるなんて、思いもしていなかったでしょうね」
隠れた口元で彼女が笑みを作っていたとしても、咎める気にはなれない。
アラクネを焼き肉にしたのは自分たちだと、そう心に刻んでいれば、それでいい。
夜が明ける前に、里の若者たちに手伝ってもらって、蔵という蔵から酒樽を運び出した。里の年配の方々には散々わめかれたが、直接自分の生死が関わっている若者たちの方が必死だった。今は、空になった蔵の中には、年配の方々が詰め込まれている。すべて終わったら、ちゃんと出してやるつもりらしい。
それから、手分けして山の木々に酒をまき、酒樽の中身をすべて燃料へと変えた。
火を操る役目は、俺がやるつもりだった。だが、魔法を使うことを口にすると、自分にもできるからやらせてくれ、とヴァージニアが進み出てきた。
「きみが魔法を使えたことには驚いたよ」
「人前でこんな大々的に使ったのは初めてです」
自らの成果に驚くように、彼女は言った。
さすがに、熟練の術者でも、一人で山一つを燃やすのは難しい。だから、若者たちに松明を持たせ、全方位から一斉に火をかけてもらった。術者が必要なのは、その後だ。
火がアラクネをうまく閉じ込め、逃げ場をなくすよう調節する。頂上へ向かっていくように誘導する。細かい調節をしたのは、すべてヴァージニアだった。
「独学か?」
「いえ、教えてくれた人がいます」
その情報に、ますます驚く。
独学というなら、俺の方が独学だった。それも、最低限のことを学んだだけで、あとは感覚頼りという危なっかしさだ。
自動的に発動してしまう未来予知を制御するため、魔法のことをもっと知ろうとした。そのために、文字も覚えた。人間の子供に魔法の指導をする魔術師など、この時代にいないからだ。文字に起こされた情報だけが頼りだった。
だが、行商人から買い取れるような本は、初歩も初歩の内容が書かれたものばかりだった。つまり、魔力の器を持っていなくても、獣人貴族の子弟なら知っておくべき教養、といったところだ。
本当なら、ちゃんと呪文を唱えなくてはならないのだろう。だけど、俺はそれすらしていない。ちょっと強く意識すれば、火が出る。なら、それでいいと思った。
おそらく、呪文を知ることさえできれば。あの忌まわしい未来予知を完全に封じ込められる。今は強く強く意識して、やっと遠のかせている状態だ。
「羨ましいな。たぶん、きみの方が俺より器用に魔法を扱えてるよ」
人には向き不向きがある。魔法は、そのことがはっきり表れる分野だ。
生まれ持った魔力の器がなければ、一生魔法を使うことはできない。器を持っていても、魔力が微弱であれば魔術師として大成することはない。さらに、扱える属性の種類と数は、人によって違う。
俺が魔術師としてどの程度かは分からないが、予知が珍しい属性であることは、なんとなく分かる。だから、人には言わない。この魔法の実態を知らない者が、あの手この手で利用しようとするのが分かりきっているから。
「五年前……十二歳の時、初めて魔法に触れました。その時まで、私はそんな世界があることすら知らなかった」
「どんな人だったんだ? 魔法を教えてくれた人は」
「獣人の魔術師でした。白金色の毛並みの、狐の獣人です。その人は、ラヌート山に近付こうとしてアラクネに捕まった、と言っていました。アラクネは、捕らえた者を保存食として里に置くことがあるんです。軟禁された彼の世話は、里の子供たちがしていました」
「ラヌート山が危険だってことを知らなかったのか?」
「いえ、知っていましたよ。人喰い人種がいるってことは。でも、どうしても、山中に生えている薬草が欲しかったのだそうです。母親の病を治すために」
そこで、ヴァージニアはちょっと理解に苦しむ顔をした。
「私が知ったのは魔法だけではなかった。里の外には、親子の愛情が存在するのだと知りました。アラクネのそれとも違う、陽だまりのような繋がりがあることを。他にも、国というものや、王様の話など……本当にいろいろ、教えてくれました」
「彼はなぜそんなことを?」
「きっと、退屈だったのだと思います。里にいてもやることがなくて。だから、暇つぶしに、世間知らずの田舎者をからかうことにしたのでしょう」
口元は見えなかったが、ヴァージニアは目を細めて笑んだようだった。
「知らない世界の話をして、様々な反応をする私たち——子供たちの様子を楽しんだ後、彼は魔法を見せてくれました。もっと、私たちから驚きを引き出したかったのでしょう。それはもう、驚きましたとも。でも、私たちは子供ですから。その後すぐ、自分にもできるか、と彼に群がって困らせました。その反応は計算外だったみたいです」
「彼は退屈ゆえに魔法も教えた、と」
「ええ。といっても、適性があったのは私だけでした。筋がいい、と褒めてくれて。それまで、こちらを驚かせるばかりだった彼が驚く顔を、初めて見ました。それからは、私一人に、魔法の稽古をしてくれるようになりました。……ただ、本当に必要な時が来るまでは、誰にも魔法を使うところを見せないこと、それが条件でした。練習も一人の時にするように、と」
おそらく彼は、魔法を使う彼女を、アラクネが脅威とみなすことを警戒したのだ。そのうえで、いつか彼女が自分の意思で抵抗できるよう、必要な術を教えた。
いったい運命というやつは、いつから仕組まれているのか。彼女に魔法の才があり、火属性の適性があったことも、獣人の魔術師がこの土地を訪れたのも、すべてこの時のためか。
自分で決めて進んできたつもりなのに、運命が後押ししているようで、気分が良くない。
だがもちろん、この感情に、彼女個人は関係ない。
「その人は結局、どうなったんだ?」
「里を脱出しました。やろうと思えばいつでもやれた、なんてうそぶいてましたけど、どうでしょうね。彼が魔法でちょっとした騒ぎを起こしたのは事実ですが、抜け道は私が教えてあげましたから」
「抜け道があったなら——」
「私も逃げればよかった、と言うのでしょう? 実際、彼も連れ出そうとしてくれました。けど、抜け道を知っていて使わなかった、というのが私の答えなんです。里から逃げるだけでは、アラクネから逃れることはできない」
「……すまない。無神経だった」
「いえ……、きっと彼も、もどかしかったと思います。彼の目には、私たちは大人しすぎるように見えただろうから。せっかく里から逃れたのに、わざわざ山に向かうような人です。どうしても薬草を諦められない、と言っていました。自生する場所を知っているか、私にも聞いてきました。けど、私は山中のことはなにも分からないと……答えるしか、なかった」
「じゃあ、その人は……」
「分かりません。アラクネを攪乱して、無事に薬草を手に入れたかもしれない。アラクネに再び囚われて、今度こそ食べられてしまったかもしれない。そもそも、そんな薬草、どこにも生えていなかった可能性だってある。私には、知りようがありません」
会話はそこで途切れた。
二人して黙り込み、山が燃えるさまを見続けていた。しだいに火が衰え、余燼がくすぶるようになるまで。
太陽が空高くに昇りきった頃、俺は思い出したように言った。
「煙がもう少し落ち着いたら、山に入って確認しよう」
喉が張り付くほどに乾いていて、何十年ぶりかに喋ったみたいに声が掠れた。
ヴァージニアは弱々しい笑みを浮かべる。
「アラクネがちゃんと焼き肉になっているかどうか?」
「生き残りがいたら始末する。きみはついて来なくても大丈夫だ」
「いえ、私も行かせてください。ちゃんとこの目で見ないと、安心できそうにありませんから」
山に目を向けたまま、彼女は硬い声で言った。
香ばしさのない、不快になるだけの焦げ臭さが蔓延していた。火が収束しても煙はしつこく残り、焦げた倒木から灰色のすじが昇っている。
死体を見かけるようになったのは山の中腹あたりからだ。
焼け死んだアラクネを直接目にしたヴァージニアは、山を登る前のように、焼き肉だと軽口を叩くことはなかった。その目で見ても安心するどころか、ますます不安そうな顔になる。倒れ伏したアラクネが動き出すことを、恐れているようだった。
山の奥まった場所に差しかかると、ぬちゃり、ぬちゃり、と水気を含んだ奇妙な音が聞こえ始める。
唇をきゅっと引き締め、全神経を張り詰めさせていたヴァージニアは、その音の正体を確かめた途端、へなへなとへたり込んだ。
「な、なんてことを……」
そびえ立つ黒々とした影は、これまで見てきたアラクネよりも、ひと回り大きい。こちらに背を向け、それは何かを貪り食らっていた。
最初、垂れた腕しか見えなかったから、人間が食われているのかと思った。ヴァージニアの声に振り返ったアラクネの口周りは、汚らしく血で汚れていて、食事の作法も忘れてしまった獣のようだった。
そして、その腕に抱えられていたのは人間ではなく、アラクネの娘だった。
火傷が全身を覆い、皮膚がただれているから、その娘は山火事で息絶えたと見ていい。だが、どういうわけか、心臓のあたりが破られて、拳ほどの穴が空いていた。
「こ、これほどまでに、おぞましいとは思いませんでした。人喰いだけでなく、共喰いまでしていたなんて……! しかも、自分の娘を!」
ヴァージニアが非難がましく、か細い悲鳴を上げる。
実の子を食らっていたアラクネ——マザー・ヴェールピナスは、八つの目をにぶく光らせ、首を傾げた。
「我が子らを死に至らしめたオマエ達が、ワタクシが我が子らを食らうことを、非難しようというのですか?」
真正面から見据えられると、ヴァージニアは首を絞められたみたいに言葉が出なくなる。
マザーは抱きかかえていた我が子の亡骸をそっと地面に寝かせると、こちらと向かい合った。
俺より頭三個分、背が高い。背だけではなく、全体的に大きい。人間とそう変わらない姿の上半身は、ほっそり、というより、ごつごつと細く、腕や手が筋張っている。食べた栄養はすべて、下半身の、クモに似た部分に詰まっているかのようだった。
言われてみれば、こちらが怒る道理はないかもしれない。だが、マザーの所業には、体の底から生理的な嫌悪がわいて出てくる。
死んでしまえば、たとえ娘といえど食料だと言わんばかりの行動ではないか。
こちらの無言の抗議を受け止めたマザーは、嘆かわしそうにため息をついた。
「人が魂の在り処を忘れて久しく、オマエ達は常に孤独に生きている。理解が及ばないのではなく、理解を忘れたのですよ、オマエ達は。我が子を汚いグールに奪われるより先に、母の身に入れたいと思うのは、自然なことです」
「グールに食われるぐらいなら、自分が食べるって? 発想が狂ってる。普通は埋葬とか……火葬でも水葬でも、なんでもいいけど、そういう弔い方をするはずだ」
「ふん、人間ごときに理解は求めませんよ。……ああ、二本足の劣等種どもには、弔い合戦というものがあるのでしたか。あれなら、やってもいいですね」
娘を食らう奇行はともかく、マザーは娘を亡くした母として、ごく普通に悲しんでおり、母として娘を殺した相手に、ごく普通に怒りを向けてきた。
娘の仇討ちのため、マザーが襲いかかってくる。
手に武器はなく、あたりに糸をかけられそうな木は残っていない。だが、六本の脚を器用に動かし、飛ぶように走ってくる速さは脅威だった。
どうせ死ぬことはないからと、真正面から剣を振るったら、腕を盾にされ、反対の手で襟首をつかまれる。痛さなど微塵も感じていないように、マザーは表情一つ変えず、そのまま腕で剣を押し返した。
つかまれた襟首を持ち上げられたと思ったら、ばたつく暇もなく、想像もつかない怪力で後方に投げられる。
宙を飛んだのは初めてだった。浮遊感に胃の内容物がひっくり返る。受け身は取れたが、落下の衝撃に息がもれた。柔らかな土の上だったのは幸いだったし、自分が剣を手放さなかったことも褒めてやりたい。
だが、驚異的な速さで迫ってくるマザーと向き合うだけの強靭な膝は、持ち合わせていなかった。倒れたまま、立ち上がれない。この状況を覆す未来が見えず、死を覚悟する。
自分の予知魔法が外れることもあるのだと、こんな状況で知りたくなかった。
直前でマザーが動きを止めたおかげで、予知魔法は間違えないし、運命は変わらず俺を睨んでいると、思い知らされたが。
斬られても顔色一つ変えなかったマザーが、鬼の形相で背後を振り返る。見ると、腰が抜けたままのヴァージニアが、必死に魔法の詠唱をつぶやいていた。
「我が子らを焼き殺したのは、この女か」
マザーの口から怨嗟がもれ、標的がヴァージニアへと移る。
立ち上がることのできないヴァージニアは、詠唱の完了に専念していた。しかし、彼女の顔の横で形成されつつあった炎は、蝋燭の火が燃え尽きる瞬間のように、一瞬明るさを増した後、姿を消した。
ヴァージニアの首を、マザーが絞るように掴み上げていた。
俺の時のように放る真似はせず、片手だけで首をつかんで持ち上げて、絞め殺そうとしていた。
ヴァージニアの顔が苦しげに歪む。マザーの手首をひっかいて抵抗するが、到底かないそうにない。俺は怯む自分の体に鞭打って、彼女に向かって駆けた。
マザーの背に飛びついて、剣を立てる。里で相手にしたアラクネよりも、クモの胴体が固い。刃が滑る。糸を吐き出す突起に足をかけ、なんとか背によじのぼる。柔い上半身を目指して飛躍し、白いうなじ目掛け——剣を振り下ろした。
マザー・ヴェールピナスの首が飛ぶ。
指の力が遅れて弱まり、ヴァージニアはマザーの首と同時に地面に落ちる。俺は、首から上をなくした胴体と一緒に、地面に倒れた。
咳き込む彼女の喉には、赤い指の跡が付いている。マザーが唯一残せたそれも、数日と経たず消えるだろう。
持ち帰ったマザー・ヴェールピナスの生首を見せると、蔵から出されたばかりの年配の方々は、そろって卒倒しそうになった。くずおれて泣き出す者までいる始末で、若者たちは唖然とする。
それが、やっとアラクネの呪縛から解き放たれた喜びの涙ではなく、マザーの死を惜しむ声だったからだ。
「お前達はなんということをっ、なんということをしてくれたのだ! こんな妙な男の言うことを聞いて、里を滅ぼすつもりか! こいつは我らに災いをもたらす者だ!」
指差され、糾弾され、正しいと思ってやったことがことごとく否定される。小指一本分ぐらいは誇らしく思っていた気持ちもかき消え、怒りを向けてくる里の人間と、目を合わせることすらできない。
やはり、余計なことをするべきじゃなかった。少しやる気を出したらこれだ。
自分は何もせず、大人しくしたまま、お情けで見逃してもらっている雑草ぐらいの存在であればよかったのだ。
策通りに、アラクネが山火事でやすやすと死んで、親玉のマザーさえもあっさりと討ち倒されてくれるものだから、勘違いしてしまった。
これは自分の力ではなく、偶然でもなく、最初から決まっていた運命だということを、忘れていた。
張り切らなくても、いつかは流されてここに至り、同じ結果を得ていた。その時は、自分が望んでやったことではないからと、里の人間の罵倒も平然と聞いていられただろうに。責任をすべて運命に押し付けて。
根暗な内面が絶好調になっていると、急に強く腕をつかまれた。
「こんな里、滅びればよいのです。元凶がいなくなってなお、馬鹿なことを言う人しかいない里なんて!」
里の人間から離すように、ヴァージニアが俺の腕を引く。若者たちは睨みを利かせ、俺と年配の方々の間に入る。
ヴァージニアは俺の手から、むんずと生首を奪い取った。そして、それを放り投げるような仕草をしてみせた。マザーを崇めてきた人間たちは情けない声を上げ、畏れ多さに膝をついて許しを乞う。
ヴァージニアは吹っ切れたように笑う。
「この首は祭壇に置いていってあげます。どうぞ、崇めるなり鎮めるなり、お好きにしてください。私たちはこの人と一緒に里を出て行きますので」
「えっ」
驚いたのはこっちだ。呆然としていると、前面にずらりと並んだ若者たちが、よろしくお願いします、と礼儀正しく頭を下げた。
「私たちの命はあなたに救われたものです。だから、あなたのために使わせてください。きっと役に立ってみせます」
俺は期せずして総勢二十名の仲間を得た。それは、俺を頼り、俺が頼ることのできる初めての人間だった。
門の外に立ち、若者たちを待っている間、ヴァージニアが問いかけてきた。
なぜ、助けてくれたのか、と。
「昔、幼馴染の女の子を見捨てて逃げてしまったことがあるんだ。そこで遊んじゃいけないって言われていたのに、俺もその子も悪い子だったから、大人の言いつけを守らなくてね。昔話の教訓のように、本当に、怖い獣人に出くわしてしまった」
大人たちは、その場所には人喰い獣人が出ると言っていた。
嘘か本当かは分からない。これまで自分は、人攫いの脚色を強めた言い方だろうと思っていたけど、アラクネのような人種もいると知ってしまったから。
「二人で逃げようとしたんだけど、幼馴染の方が転んでしまって。俺は助けに戻ろうとした。でも、迫ってくる獣人を見たら怖くなって……一人で逃げた。それっきり、彼女は帰ってこなかった」
今でも夢に見る。普段は未来の光景を流すばかりのくせに、この夢の時だけは、過去の景色が蘇る。
転んだ彼女が、俺に向かって手を伸ばしている。その後ろには、毛むくじゃらの黒いシルエットがある。必死な目が、何度だって俺を責める。
「集落の大人に知らせても、彼女を助けるなんて意見は出なかったよ。むしろ、万が一、彼女が戻ってくるようなことがあったら、集落の場所を獣人に嗅ぎ付けられることになる。それが嫌で、大人たちは集落ごと引き払うことを決めた」
もともと集落の人間には好かれていなかったが、その時以来、一層風当たりが強くなった。
幼馴染の女の子も変わり者ではあったけど、彼女は人好きする天真爛漫な性格だったから。大人に可愛がられていた。それでも集落の人間が見捨てざるを得なかったのは、人間は弱い自覚があるからだ。獣人に逆らうなんて、とんでもないからだ。
彼女の代わりにお前が死ねばよかったのに。
陰口でも言われたし、面と向かっても言われた。まったくその通りだ、としか思えなかった。置いて行かれたのが俺であれば、大人たちも、あそこまで心を痛めずに済んだに違いない。
彼女は唯一、俺と友達になろうとしてくれた子だった。
集落にはほかに歳の近い子供がいなかった、というのもあるかもしれないけど。その子は毎日、俺と遊んでくれた。不相応にも恋心を抱いた。きっと人生で、一番楽しかった時期だ。それが子供時代だというのも、悲しい話だが。
そんなふうに好いていた女の子を、置いて逃げたのだから、俺は最低の男だ。
子供だったから、なんて言い訳にならない。助けられないのなら、彼女と運命を共にすべきだった。
「別の誰かを助けて、それで償いができるとは思わない。けど、もう見捨てるのは嫌なんだ。知ってしまってから、聞かなかったふりをするなんて、したくない。……きみたちは、俺の役に立ってみせると言ったね。それはたぶん、人の役に立つ、っていうのと同義だよ」
「人助けの旅ですね、望むところです」
白装束を脱ぎ捨てたヴァージニアは、まぶしそうに空を見上げ、晴れやかに笑った。
里の中から、支度を終えた若者たちが駆けてくる。彼らのためにも、これからの旅が、彼女の言うような清々しいものであってほしいと、心の底から願った。




