2.銀狼を穿つ
その昔、ケンタウロスは広大な国を治めていた。平等ではなかったかもしれないが、多くの人種が共に暮らしていた、それなりに平和な国だった。
天上より地上を支配していた「天使」が、その実、私達となんら変わりない「人」であると露呈した日より、地上は混沌に呑まれた。それまで揃いも揃って「天使」を崇めていた連中は、互いに剣を取り、覇を争いあった。大陸中で、大小様々な国が生まれては滅び、滅んでは生まれた。
まさに群雄割拠の時代だった。
ケンタウロスの始祖王は、そんな時代に生まれた英傑だ。かつて「天使」と呼ばれた有翼人が失墜して以後、初めて、大陸を統一し、地上に秩序を取り戻した人物だ。ちなみに、彼が生まれたとされる地が「聖郷」と呼ばれている。
王が代変わりしていっても、安定した統治は続いたという。しかしながら、大陸の覇者はうつろいゆく。地続きの世に安らぎはない。
自慢の脚で平野を駆け、各地を平定していったケンタウロスにもまた、凋落の時が訪れる。
彼らに襲いかかったのは、外部からの侵略でも、民による反乱でもなかった。これぞまさに、星の導きとしか言いようがない、自然の猛威の数々。
嵐が七日七晩居座り、溢れた川の水がすべてを流し去った。恵みを超えた雨は、作物を水の底に沈め、腐らせる。立て続けに起こった地震は大地に割れ目を作り、ケンタウロスの栄華にも亀裂を走らせた。
自慢の脚も、天災の前では無力だった。
この天変地異により、ケンタウロスの時代に幕が下ろされたのなら、まだ納得もできよう。しかし、そうではなかった。こちらが斜陽になったとみた途端、牙を剥いた畜生どもがいた。
獣人だ。
奴らは都を乗っ取り、これまでケンタウロスが治めていた領土を奪い去るようにして、国を転覆させた。死にそうになってもがいている者がいれば、首を食いちぎってとどめを刺す。これが獣のやり方だ。
奴らは、獅子の魂だとか、狼の気高さだとか、声高に叫ぶが、その底にある本性は皆ハイエナにほかならない。
今日まで続く戦乱の大本は、この時に作られた。
*****
母がさらわれたのは十年前。
私は八歳で、父にせがんで、聖郷の祭りに連れて行ってもらった帰りの日のことだった。
村で留守番をする母に、祭りのおみやげを早く見せてあげようと、私の足ははずんでいた。母の喜ぶ顔と、おかえりと迎えてくれる声を期待していた私は、無残な光景に裏切られることになる。
村は無茶苦茶に荒らされ、空虚ながらんどうになっていた。
扉は打ち破られ、窓は割られ、家具は引き倒され。ところどころに血痕が飛び散り、あちこちにふわふわと埃のような毛が転がっていた。
父がもつれそうな足を動かして、母の名を叫びながら、家の方へと走っていく。
その間に、村のほかの住民が戻ってくる。聖郷の祭りに出かけていたのは、私達父娘だけではなかった。村の大半が数日家を空けていて、残っていたのは本当に幼い子供と、少しの大人だけだった。その人達が、まるごと姿を消していた。
「クソっ、獣人の仕業だ!」
今しがた帰ってきたおじさんが吐き捨て、自分の家に駆け込んでいく。
若い男が苛立たしげに地を蹴った。
「人攫いだな。祭りで人が少なくなることを見越して来やがったか」
「今すぐ捜索隊を出そう。まだ近くにいるかもしれない」
「……いや、だめだ」
青い顔をした父が戻ってきて、うめくような声を出した。
「見たところ、二、三日は経っている。無駄だろう」
周りから鋭く睨まれ、父は力なく言う。
「諦めろと言ってるんじゃない。氏族長に知らせに行くべきだ。奴隷商人どもがどの程度の規模かも分からない。ほかにも襲われた村があるかもしれない。氏族全体で解決すべき問題だ」
父の意見に一理あると思ったのか、大人達はばたばたとまた旅支度を始める。
「ね、ねえ、わたしも」
何かできないか、と声を上げる。父は私の肩に優しく手を置いた。
「マティルダ、おまえはまだ幼いからね。母さんの心配をしてくれるだけで充分だ」
その時、なんだか仲間はずれにされたような気がした。私だって何か手伝いたいのに。まるで足手まといのように言われた。
母さんをさらった獣人に、怒りを抱いているのは一緒のはずなのに。
それから一時期、怒りの発散の仕方が分からなくて、野の獣を獣人に見立てて狩りまくっていた。弓矢は父から教えてもらったが、その頃にはもう、父も度肝を抜いていた。
弓の腕を見込んだ氏族長が、私を戦士にしたのは、私が十三歳の時だった。
*****
父が戦死したのは一年前。
もう何度目か分からない獣人との会戦での出来事だった。
私は部隊長として、弓矢隊を率いていた。といっても、隊の指揮は例のごとく副官に任せきりだった。私は無我夢中に弓を射ることしか能がない。そして、部下達は私の動きについてこられない。
味方が矢を一本放つ間に、私は十本の矢を放っている。はじかれたことはあれど、外したことはなかった。
前に一度、速さは置いておいて、その正確な技術だけでも教えてもらえないか、と部下に懇願されたことがある。その時、私は私なりに頑張った。これ以上ないくらい精一杯にやった。
「まず狙いをつける」
居並ぶ部下達が頷く。
「それから、矢を射る。標的に届く。敵は死ぬ」
そうしたら一斉に、盛大なため息をつかれた。副官は苦笑いしていた。
「こう——こう、ぐっと狙いをつけたらビュンってなってバシュっとなる感じ——分かるよね?」
「分かんないっすよ」
「音だけで表現されたら余計に意味不明です」
「相手の急所は目立って見えるよね? あとは狙うだけ。矢の方から急所に吸い込まれていく」
「その感覚がすでに天才にしか分からないものなんですよねー」
結局、部下には微塵も伝わらなかった。副官は腹を押さえて、必死に笑いをこらえていた。
だから、今はこう言う。
「下手に狙いをつけるな。矢は降らせるものだ」
的が一つしかない狩猟とは違う。戦場では、的が敷き詰められているようなものだ。そもそも、狙いをつける手間をかける必要がなかった。
高台で隊列を組んで、兵士達は規則的に矢を降らせる。発射の合図は副官が下す。開けた原で、隠れ場所もない。敵の獣人たちは一斉射撃のたびに足並みを崩す。たとえ一撃で仕留められなくても、手足のどこかに刺されば充分。それだけで戦意を喪失する輩はそれなりにいる。
弓矢隊の役目はあくまで突撃隊の援護。自分達だけで勝負を決める必要はない。
戦闘が本格的に始まると、牽制のための弓は出番がなくなる。敵味方が入り乱れるから、というのもあるが、もう一つ。
実に性格の悪い「騎馬兵」が出てくるからだ。
「出てきやがりましたね。毎度毎度、胸糞が悪い」
副官が近くに寄ってきて、歯ぎしりする。私は無言で同意した。
眼下で、腕を拘束されたケンタウロスに乗る獣人兵が、下卑た笑いを浮かべていた。「騎馬」に使われているのは、ベスティニア皇国で奴隷として働かされるケンタウロス達だ。怯えた表情を浮かべ、今にも逃げ出しそうだが、手綱を握る獣人がそれを許さない。機動力はもちろんない。
彼らは実のところ「馬」ですらなく、「盾」に過ぎなかった。
馬ならば、鎧を着けさせてもらえるだろう。彼らにはそれすらない。
同族をこれ見よがしに前面に出して、こちらの攻撃の手を緩めさせようというのだ。勇猛でも気高くもない、卑怯な戦法を堂々と使う。これで勝ったとしても、奴らは誇らしげな雄叫びを上げるだろう。私なら、恥ずかしくて勝ち鬨なんて上げられない。
もちろん、勝たせる気もないが。
「騎馬兵」を睨み、弓を引き絞る。周りの兵士達の、期待と不安が入り混じった視線を感じる。
——放つ。届く前に分かる。周りが歓声を上げる。
私の射った矢は、「騎馬兵」の獣人の首根に当たり、そのまま、奴隷ケンタウロスの背から吹き飛ばしていた。
急に背が軽くなり、そのケンタウロスは驚いたようだ。一瞬、本物の馬のように後ろ足で立ち上がりかけて、思い直したのか、すぐにまっすぐ走り出した。背後から怒声と槍が投げられる。それでも立ち止まらず、振り返らず、走り続ける。
味方の陣営に辿りついた彼は、喜びの声で迎えられる。拘束を解かれ、涙を流す姿を確認してから、私は敵に目を戻す。
牽制の弓の出番はない。あとは、確実に殺すための弓の出番だ。
戦場に奴隷を連れてくる獣人は腹立たしいが、これはチャンスでもあった。上手くやれば、同胞を取り戻すことができる。
淡い期待を込めて、私は戦のたびに母の姿を探していた。
「隊長! 上を!」
下にばかり目を向けていた私の注意を、部下が悲鳴に近い声で引き上げる。
「——ッ!!」
対象を目視する前に、矢をつがえていた。
視界に入れた時にはもう、そいつは射られた箇所から血を飛び散らせている。弓矢隊を上空から襲おうとした怪鳥——いや、怪獣というべきか。とにかく獣人陣営の秘密兵器は、私に続いた部下達の猛攻を受けて、地上に墜落する。もみ合っていたケンタウロスと獣人の双方の兵が、その巨体に押しつぶされる。
「グリフォン騎兵だ……」
誰かが恐れおののいた様子で呟く。
「黙れ。射れば死ぬものを怖がる必要はない」
一喝すると、伝染しかかっていた臆病風のざわめきが、一応は収まった。
ベスティニア皇国軍の、正真正銘の「騎兵」が戦場に登場していた。グリフォン騎兵隊——賢獣グリフォンに乗る獣人の空飛ぶ精鋭部隊だ。
耳の立った鷲の頭と、鉤爪の生えた前足、そして巨大な翼は猛禽そのもので、後ろ足と尻尾は獅子のような猛獣を彷彿とさせる。威風堂々としたグリフォンの姿は、確かに戦場で目を引く。しかし、それは恐れる理由にならない。
ただの獣ではない、賢獣と呼ばれる種族であったとしても、だ。
賢獣は人の言葉を解し、話す。しかし、意思の疎通を図れることが、必ずしも相互理解につながるとは限らない。独自の価値観と倫理観を持つ彼らは、人から見れば気難しい存在だ。
それでも、真に心を通わせられる人物と出会えれば、賢獣はその地力を何倍にも引き上げるという。
文字通りの、一騎当千を体現する。
「こっちだって、そう褒めそやされてるんだ。簡単に負けるか」
縦横無尽に飛びまわるグリフォン騎兵に、狙いを定める。獣人陣営の上空に来たのを見計らって、射落とす。
私が淡々と処理していく様に、部下も奮い立ったらしい。弓矢を再び構え始める。
「——サンダリオだ!」
兵士達が口々に叫ぶ方向を見やると、一際目立つグリフォン騎兵がいた。
陽の光を受け、グリフォンの体は黄金色に輝き、その背に乗っている狼の獣人も白銀の毛並みを煌めかせていた。敵の総大将、ベスティニア皇国元帥サンダリオだった。
離れた場所からでもよく見えた。
低く滑空したグリフォンの背から飛び降りたサンダリオが、周囲のケンタウロスを斬りつける様子が。その中に、私の父もいた。
一太刀浴びせることもできず、無念に崩れ落ちる父の姿があった。
精悍な顔つきをした狼は、次の瞬間には視線を外している。奴にとっては、今しがた斬り伏せたモノなど、有象無象でしかなかった。
血しぶきを鬱陶しそうに避けて、サンダリオは舞い戻ってきたグリフォンに回収される。
——耳の横で、歯ぎしりのような音を聞いた。それが、実際に私の歯が立てた音か、限界まで引き絞られた弦の悲鳴だったか。定かではない。
私はただ、血と土埃にまみれた父との対比が、許せなかった。奴の毛を乱し、赤い染みを作ってやりたい。その一心だった。
矢が、飛び出す。
同時に、私も走り出す。高台から戦場の中心へと。
見上げると、空中で、サンダリオの体が衝撃に揺れた。狙いは今回も外さなかった。一瞬硬直した狼獣人の影は、次の瞬間には力をなくし、グリフォンの背から滑り落ちる。
「サンダリオ様!」
叫んだのは上空のグリフォンだったか、地上の獣人だったか。その甲高い悲鳴を皮切りに、獣人兵士達が動揺し、わめき始める。
反応の遅れたグリフォンが、サンダリオの体を前脚で掴もうとする。しかし、鋭い鉤爪は鎧にかちりと音を立てて当たっただけ。今一度、と伸ばした前脚はむなしく、宙をかく。
サンダリオの体が、ボロ毛布のように、どさりと地面に落ちる。
「ハハ、アハハハハ!」
なんて、胸がすく光景だろう!
戦果に駆け寄り、期待通り、血と土埃にまみれた死体を抱え上げる。触れた毛の感触に、笑みがこぼれる。よれた毛が、雨に濡れたみじめな犬と同じだったからだ。
周囲の反応はよく覚えていない。
敵も味方も、呆然としていたように思う。獣人の方は、私を気にする余裕すらなかったかもしれない。
死体をさらうように背負い、私は早々に、戦闘を離脱した。
本来なら問題ある勝手な行動も、この時は咎められなかった。敵の総大将が死んだ時点で、戦闘は終わったも同然だった。群れのリーダーをなくした獣達は、その瞬間に瓦解し、尻尾を巻いて逃げ帰っていった。
幕舎の裏側で、短剣を片手に、サンダリオの死体を前にする。
鎧を剥いてしまえば、横たわる死体は動物と変わらなかった。昼間、あれだけ輝いて見えた毛皮も、今はくすんで見える。
照明が悪いのか、とかがり火を振り返る。するとそこに、かたい顔をした私の副官がいた。
「隊長……、サンダリオを討ったのはあなたの功績です。それは誰にも否定することができない。……ですから、そのようなことをする意味は……ない、と思うのですが」
文章のつながりがよく分からなかった。だから、返答に困った。
野営地に死体を持ち帰ると、皆に奇人を見るような目で見られた。遠慮がちに話しかけられるのは、今に始まった話ではない。
彼の言葉の意味を考える間、短剣をもてあそぶ。副官の表情がますます強張る。
「ああ、わかった」
「わ……分かってくれましたか」
「うん」
副官がほっと息を吐き出す。
「手柄を見せびらかすために、毛皮を剥ぐ。皆はそう思っている。違う?」
「え? あ、ああ、はい。そんなことをしなくても、あなたが弓の名手だということは、皆が知っています」
「私も知ってる」
副官が困っている。
そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。また返答を間違えた。人との会話は、本当に難しい。どんな応え方をすれば正解なのか、さっぱり分からない。
会話が詰まってしまったので、死体と向き合う。私にも、気まずいと感じる心ぐらいはある。
短剣を構え直し、前かがみになったところで、副官が慌てたように言った。
「こんなことはやめてください。死者の尊厳を踏みにじるものではありません。それがたとえ、獣人であろうと」
「狩った獣の皮は剥ぐでしょう?」
「射殺した人の皮は剥ぎません、普通は」
「剥いだら変?」
「猟奇的です」
「…………」
どうやら、私の頭はおかしいらしい。
皆の視線の意味が、やっと分かった。一つ理解を深めたところで、作業に戻る。
今度は副官が止める間を与えない。素早く、短剣を死体に差し込み、すべらせる。下腹から首まで、一直線に掻っさばく。動物を解体するのと同じように。
一皮剥けば、人も獣も変わらない。赤黒い内臓が詰まった中身を見たら、なおさらそう思う。
手を動かしながら、副官に話しかける。
「獣人が人だなんて、面白い冗談だね」
言葉は返ってこなかった。勇気を出して自分から話しかけた時は、いつもこうなる。
父も母も、獣人に奪われた。でも、母はまだ取り返せる位置にいる。
狼の獣人の毛皮を被るようになったあの日から、決意はより強くなった。
私の視界に入った獣人は、すべて私の獲物だ。私の弓から、逃れることはできない。出会ったが最後、射殺してやる。




