34. 落日…………だとでも思ったかい?
陽光が心地いい。
ざくざくと降り積もった雪を踏みしめる感覚は幾分か高揚感を覚え、幼少の冒険心を刺激するようで鼻歌すら刻めよう。
物々しい、ともすれば質素な様相を誇る工業区から一転、市街地の活気は曇天の空を晴れ渡らせる無体の力があった。
どちらも、わたしの好きなリヴァチェスターの景色であって、無情に眺める視線の高さや熱が変わっただけ。
それに、立場も。
今のわたしは母様の娘としてではなく、マルタ=ノヴゴロドであり、この景色のある種責任者といえよう。
領民の幸福、領地の運営、母様が命を賭して護った土地を存続させる責務。
ただ屋敷に籠って書類作業に従事しておけばいい訳じゃない。
わたしの眼で、わたしの体感で、リヴァチェスター領のすべてを理解しなくちゃだめなんだ。
活発な声の木霊する露店の間を器用に通り抜けて裏路地に向かうと、閑散とした寂しさが去来する。
この先には馴染みの第二孤児院が鎮座しているのだが、かの地を避けるような立地には部外者だと無言の内に糾弾されているようで落ち着かない。
なんとなく、忘れ去られた気がして無性にそわそわとしてしまう。
「……! マルタさん……!」
「久しぶりね、ティナ」
ぱぁあ! と満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくれるティナ。
清掃中だったのだろう、手には箒が握られている。
裏路地の深奥に位置していながら不潔とは思わないのは、ティナのように毎日誰かが清掃を行っているからだ。
孤児院周辺に限らず、院内だって子どもたちが役割を決めてこまめに清潔を保っている。
誰かが指導した訳ではない。
自然と誰かが箒を手に取り掃除を始めた。
すると、誰かが手を貸すようになった。
調和の輪は次第に大きく円環を成し始めて、今では子どもたちが自主的に分担を行っている。
「オルメカさんなら礼拝堂です」
「うん、ありがとう。でも今日はシスターに会いに来たわけじゃないんだ」
「……? もしかして、エムスですか?」
「う~ん、当たらずとも遠からずかな」
わたしは君に会いに来たんだよ、ティナ。
こてんと首を傾げるティナの仕草はとても愛らしい。
年相応の魅力は子どもと大人の間で揺れ動く不安定なもので、思わず守ってあげたくなるような庇護欲を増幅させる。
とはいえ、そっくりそのまま伝えるのは憚られる。
なにせ、ティナ本人は誰かの手を借りることを頑として許さない……いや、許せない子だから。
まだまだ世界の右も左もわからない年齢で、絶対の防壁であるはずの両親が死去し、たった一人で弟を護らなくてはならない境遇。
それは、年端もいかない彼女を大人にするには十分だった。
瞳の奥に光る決意は、却って悲痛とも言える。
「そうだ、ティナちゃん。これ、昔わたしが使ってたものなんだけど……」
「……! だめです、マルタさん。こんな高価なもの……!」
懐から、さも思い出したように花を模った髪飾りを取り出す。
いまわたしの頭上に煌めいている髪飾りとは異なり、可愛らしさを額面へと押し出したものだ。
彼女との会話を始めるための口実に奥底から探し出した品だけど、やっぱりティナちゃんはぶんぶんと頭を振って拒絶を示す。
「いいの。わたしじゃあ、もう似合わないしね」
「……………………わかりました。預かっておきます。だから、わたしが似合わなくなったらマルタさんにお返しします」
強情だな…………けど、きっとあれ以前なら頑としてでも受け取ろうとはいなかっただろう。
ティナちゃんを変えてくれたのは、子どもとは思えないほど無表情で冷たい眼をしていた少女だ。
あの時、孤児院を飛び出したティナちゃんを連れて戻ったあの子とは、結局満足のいく会話ができなかったけど。
二人が何を話したのか、ティナちゃんの変化した態度からよくわかった。
何が、どうのように…………なんて、明確には示せないけど。
確かに変わったんだ。
たった一人で何もかもをしょい込もうとしていた角が取れて、柔軟に自分を見れているのだと思う。
あの女の子、ホロウちゃんの与えた影響はとても大きい。
以前のティナは何か切羽詰まっているようにも感じられた。
安全であるはずの孤児院にいて、それでも何かに怯えているようだ。
だからいつだって気を張っていたし、言動には刺々しい攻撃性が内在していた。
けど、今は落ち着いている。
他の誰でもない、自分だけの存在意義を見つけたような。
──猜疑心は武器だよ、マルタ
ふと、脳裏によみがえったのは皮肉屋然とした彼の横顔だった。
世界の全てを侮っているようで、しかして、決して軽視することのない自制心。
彼の語る猜疑心はただ疑り深いだけではないのだろう。
万物へと疑問を持ち、思考を止めずに自分で結論を導き出すこと。
停滞を許さない厳俊な響きだけが、そこにはあった。
「………どう、ですか? 変じゃないですか?」
思考に沈んでいたわたしの意識は、ぎこちなさに固まったティナの声色によって引き戻された。
きらりと光を反射して一際目立つ髪飾りは、上目遣いでもじもじとわたしの感想を待つ彼女の魅力を引き出していた。
淡い水色の髪に輝く桃色の髪飾りは、まるで水辺に咲く一輪の花を彷彿とさせる。
これは……想像よりも似合っている。
きっと数多の男の子がティナへと思いを寄せることだろう。
返答がないことに不安を覚えたのか、いじいじと髪をいじり始める動作なんていちころだ。
「変じゃないよ、ティナちゃん」
くすりと笑って賛辞を口にすると、頬を朱に染めてはにかむティナ。
きっと、ありふれた不幸さえなければ、ティナは今でも家族とこうやって笑い合っていたはずだ。
他愛ない話に相槌を打ち、食卓を囲えば無尽蔵に言葉を交わして。
奪われてしまった幸福が回帰することはない。
そして、所詮は他人であるわたしの介在できる余地は更に皆無といえる。
けれど、わたしは諦めたくない。
ティナだけではなく、第二孤児院のみんなが。
リヴァチェスターで生きる皆が、健やかに、希望を見失わずに生きていける日常を。
それこそ、わたしが心血を注いで護るべき宝物だから。
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すっかり日も暮れてしまった。
ティナと談笑した後、子どもたちに囲まれて夕飯を共にした。
随分と久しぶりに満たされた気がして、長居してしまった。
生気のない、ともすれば味気のない屋敷に帰ってきた時には月夜がわたしを睥睨していた。
違和感を覚えたのは、屋敷の門扉をくぐった時。
見覚えのない門兵が物々しい装備で警備を行っている。
奇妙な感覚は彼らだけでとどまらず、屋敷の中でも見慣れないメイドが闊歩しているようで。
とても自分の家に帰ってきた気がしない。
内心首を傾げながら自室へと向かっていると、まるでわたしの進路を妨害するように廊下の中心で一人のメイドに止められた。
「マルタ様ですね。フェイラー様がお呼びです」
疑問には思わなかった。
夜分であろうと、父様はわたしの都合など考えずに呼び出すことが往々にしてある。
だから、きっとわたしは油断していた。
父様の自室ではなく、応接間に案内されて。
フェイラー父様だけではなく、バルムス兄様と、重武装の兵士が二人の視線が突き刺さって。
家族にではなく、まるで罪人へと向ける眼差しに思わず全身が射貫かれた心持ちになる。
案内を終えたメイドが退出した瞬間、バタンと閉ざされた扉を守るように二人の兵士がわたしの背後へと移動した。
わたしの退路を断つような行動に、無意識に眉をひそめてしまう。
けれど、大きく頷いて発した父様の言葉に、わたしは自分が如何に愚鈍であったかをわからされた。
「罪状、不出の技術を流用しリヴァチェスター領の利益を大きく損するものとし、著しい背徳行為とする。もって、須らく財産を没し、ノヴゴロドの家督を排するとする」
それが、開口一番わたしに父様が言い渡した、罪らしい。
見慣れた応接間が異界のように感じる。
きつく縛られた両手首の痛みも、首筋へとあてがわれた刃による恐怖も。
何もかもが途方へと失せた。
ただ、ひたすらに意味が分からない。
「以上だ。マルタ、貴様は私の定めた規律を乱したばかりか、背任行為にすら手を染めた。温情を図る必要すらない。二度とノヴゴロドを名乗ることなく、明朝までにエディンから出て行け」
「……っ、待ってください、父様! わたしは、そんな──」
思わず父様へ向かって一歩踏み込もうとした。
その刹那、完全に意識の外にあった二人の兵士にわたしは羽交い絞めにされた。
完全武装の男二人を振り払える筋力は、わたしにはない。
唯々諾々と従うように、組み伏せられたわたしを一瞥した父様の目線は蠅を見るよりも冷たかった。
「もはや貴様の父ではない」
ぴしゃりと言葉をきった父様の眼は、一切の油断がない。
そして、それがわたしに事の重大さを教え込む。
「往生際が悪いぞ、お前。証拠ならここにある。命を取らないだけ幸運だと思え」
ばしゃりと目の前に投げ捨てられた書類の束。
詳しくは不明だが、一枚目の紙に踊っている文字は間違いなく視界に収まった。
工業会ニコラウスと共謀してファルガー領へと技術を流用させようと企み、手中に収めた利益を横領しようと画策した旨が。
そこで、ようやく。
わたしは嵌められたことに気が付いた。
「とうさ──ッ!」
「黙れといっているだろう!」
反抗は許されなかった。
わたしの頬を思いのままに殴打した父様の表情、にたにたと嘲るバルムス兄様。
全てが遅かった。
ニコラウスさんへの根回しも、妨害工作への対策すら。
既に、二人はわたしを追放するための算段を立てていた。
丁寧に偽の告発書まで用意して、長女の反逆という形で処罰するために。
それは、わたしが二人を追及するために用意した手段と同じで、ただわたしは機を逃しただけで。
「安心しろ、マルタ。お前の残した財産は俺たちが有効に使ってやるよ。特に、ガキどもには価値がある」
「……っ、! まって──!」
「そうだな、女は俺の奴隷だ。他はうっぱらえばいい。手先の器用なガキだもんな。いい値が付くぜ?」
「だめ……っ! それだけは、やめてっ!」
必死に懇願しても、聞き入れてはもらえないだろう。
それでも、叫ぶことしか、できない。
武器もなく、ただ一発の平手打ちで地に這いつくばるしかないわたしの言葉では。
なにも……、できない。
「感謝するぜ、マルタ。お前の尽力のおかげで愛玩動物と労働力がタダで手に入ったんだ。心置きなく消えろ」
目の前の男が、本当に同じ人間なのか信じたくない。
同じ血が流れているなんて、吐き気がする。
子どもたちは、こんな男に利用されるためだけに生きている訳じゃない。
みんな、“未来”があって、そのために毎日を必死に生きているんだ。
なんとしても、わたしが、止めないといけない。
どうして、どうしてわたしは…………! はやく、はやく何とかしないと…………!
「衛兵、反逆者が抵抗を試みている。潰せ」
身構えた時には、もう遅かった。
脇腹に、四肢に、顔に。
拳が、蹴りが突き刺さって。
ぐぇだの、ぶふだのと、無様に呻くしかできなくて。
まともな反撃なんて夢のまた夢で。
ただ亀のようにうずくまって身体を丸めるしかなくて。
「生温い。鎮圧とは、こうするんだ」
「……ッ!? ぐッ、ぁあぁあ゛ああ゛ああッ!?」
涙の滲む視界の隅で、本来曲がるはずのない方向へ捻じれた右脚が写った。
途端、激痛が頭を真っ白にした。
焼けつくような、とてもじゃないけど耐えられない痛みが全身を縛っているみたいで。
「静かになったな。郊外まで捨ててこい。運が良ければ獣の食糧になれるだろう。悪ければ……通りすがりの奴隷商人に拾われるだろうな」
ぐいッ! と引きずられる度に右脚に激痛が走って言葉がでない。
嫌だと、どうしてだと、そう思っていても。
わたしは、ただ唇を嚙み締めるだけで。
何も言えなかった。
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降り積もった雪がゆっくりと体温を奪っているのがわかる。
もはや大怪我を負った右脚どころか全身に感覚はなく、唯一藻搔くたびに擦り切れて血の滴る両手首だけが生暖かい。
二人は偶然を装ってわたしを奴隷商人に拾わせるつもりだろうが、それ以前に、凍死してしまう。
嫌がらせだろう、わざわざ父様……いや、フェイラーはわたしを運び込む馬車まで足を運んで衣類の全てを剥いだ。
薄い下着だけで積雪の中に放り込まれてしまえば、数時間もせずにこと切れるのは自明。
ああ、月明かりが鬱陶しい。
まるで、無様に転がるだけのわたしを強調しているみたいで。
余計に惨めになる。
…………一体、どこで間違えた? 秘密裏に工業を推し進めた時? ラヴェンナ商会と手を取り合った時? 領主補佐になった時? それとも、わたしは。
命ある時点で、間違えているの?
「かあさま…………わたしは、わたしは…………」
もはや、涙も零れない。
ただ自分の命が尽きる様を、身体中あざだらけ傷だらけで見捨てられた無様を。
哀れむことさえ、できない。
「お、あったぞ。ボロボロだが二束三文でなら売れるだろ」
「ガキなら腐るほど仕入れたんだしさ。どうせこのざまじゃこいつすぐ死ぬよ。俺たちであそんで捨てようぜ。邪魔になる」
がさがさと野卑な声が複数聞こえてきた。
会話の内容は凄惨で、想像したくもない。
それは全て、わたしをどうやって壊すか算段を付けているようで。
首を絞めながら犯すだとか、皮膚を削ぎながら挿れるだとか、最後は生きたまま馬に食わせようとか。
何であろうと、わたしは殺される。
今よりもずっと酷く、痛い思いをするんだろう。
「ぃ、ゃあ……っ」
「おい、逃げるぞ。抑えとけ」
「~~~~ッ!?」
「はは、みろよ。魚みてえにはねてら」
「うっわ……この脚反対に折れてるよ。いたそ」
「はははは、おい。誰がその脚引っ張ってるんだよ」
「ちがいねえ」
いやだ。
もう、いたいのは。
わたしはがんばった。
がんばったのに…………だれよりも、がんばったのに。
どうして、さむいの? かあさま。
ねえ、かあさま。
わたし、がんばったのに。
「おい、寒いしとっととやって帰ろうぜ」
ひたりと、ごつごつとした掌が下腹部へと触れたのがわかった。
もはや、いやだと身動ぎ一つできず、掠れる視界にはこの世のものとは思えない恐怖が点在していて。
救いはなく、手を差し伸べてくれる英雄はいない。
わたしを待つのは苦痛と避けようのない死だけだと──
「その意見には賛成だ。ボクも予定が詰まっていてね」
どさりと、いくつも何かが倒れた音がした。
気味の悪い生暖かさが、消えた。
ぐりぐりわたしの脚を掴んでいた力が、急になくなった。
生命の息遣いが、消滅した。
「君には大変な思いをさせてしまったね。大丈夫、もう君が泣く必要はない」
真っ白な人だ。
暗闇の中でも雪をは同化しない、真正の白だ。
「後は、ボクたちに任せたまえ」
わたしは知っている。
この人を、よく知ってる。
上辺だけの気味悪い軽薄な微笑みを貼り付けて、のらりくらりと人を喰ったような。
名前は確か──
「君はずっと努力を続けてきた。本当に、よく頑張ったね」
ふっと身体が軽くなった。
痛みも、寒さも、寂しさだって消えた。
ただ人の温もりだけが、肌を通じて感じられる。
抗い難い睡魔は、静かにわたしの意識を奪って。
最後にロムルスさんが頭を撫でてくれたことだけ、わかった。
とっても、優しくて、安心できる声で言ってくれた。
もう、大丈夫だと




