31. 知識を制する者
海遊巨獣は何も一体ではない。
同時に二体が陸を目指して進行することもあるだろう。
しかし、眼前の海遊巨獣は海遊巨獣にあらず。
ぶよぶよした体表、びっしりとフジツボの付着した肌、太陽の届かない水中で退化した両の目。
正確にはどこからどう見ても海遊巨獣なのだが、生存本能に従って現れたようには見えないのだ。
何故って? 簡単だ。
そもそも、唐突に出現したこいつは前脚がない。
まるでイルカのように水上から飛び上がってきたのだ。
つまり、上陸するつもりはなかったはず。
それに加えて、海遊巨獣は肉食ではないから、新緑の双剣の食らうはずもない。
何よりも、【運命識士】には一切、情報がなかった。
正しく青天の霹靂というべき闖入者だ。
辛うじて【楽園】を展開できたために、ボクたちは海遊巨獣に呑まれることがなかった。
だが、新緑の双剣たちを引き入れるには間に合わなかった。
ああ、間に合わなかったんだ。
咀嚼音が聞こえないことから、眼前の巨獣が文字通り丸吞みしたのだと分かる。
そして、それは同時にボクたちへと生物としての途方もない差異を如実に知らしめる一端となった。
金色に輝く立方体のもたらす光には退化した瞳が耐え切れずに細めているが。
まるで人間然とした仕草には愛着も湧く。
しかし、敵対する以上はボクとて躊躇する理由にはならない。
「ひ、ゃぁ……!? あ、あああ、っの! これ、って……?」
「ロムルスくんの【権能】よ~。安心していいわぁ。この中なら絶対に安全だからぁ」
「は、はいぃ……っ!」
あまりの衝撃に腰を抜かしたのだろう、へたり込んでしまったアヤメの悲鳴には困惑の色が強い。
寄り添うように彼女の肩を抱くテリアの声色にも、疑問が介在している。
ボクもまた、海遊巨獣の出現には度肝を抜かれた。
本能に従って咄嗟に【楽園】を展開できたために九死に一生を得た心地だ。
とはいえ、いつまでも睨み合いを続けるわけにもいかない。
海遊巨獣が明確な殺意をもって現れたことに変わりはない。
【運命識士】が正常に機能しないパターンは限られている。
ラクシュミーの友人のように【権能】の効力を阻害するような例外は除いて。
例えばドーリアやシロイのように実力の高い強者相手にはノイズが走ったように──いや、どちらかというと乱丁かな──閲覧する情報に整合性がなくなるのだ。
普段ならば脳内に情報が羅列されるにも関わらず、支離滅裂な文脈、未知の単語や文字に化けてしまう。
では、現状が強者相手の場合かと言えば……適合しないように思える。
本来ならば起動しているはずの【運命識士】が、情報をボクへ与える前に経路の途上で断絶してしまっているような。
まさか、何者かの恣意性によって【運命識士】の機能は損なわれているのか?
「────ッ!!」
「ぴ、ぃゃぁあああっ!?」
思考の海に沈んでいたボクの意識は、この世のものとは思えない咆哮と可愛らしい悲鳴によって急速に現実へと立ち戻った。
視線を上げると一面が漆黒に塗りつぶされている。
違うな、これは海遊巨獣の口腔だ…………と思い至ったが束の間。
バキンッ! と【楽園】が海遊巨獣の吶喊を防いだ。
しかし、全長数十メートルにもなる獣の衝突音はまるで大砲の発泡に近しい衝撃波すら生じさせた。
たった一度、奴にとっては僅かな身じろぎに等しい動きで、ボクは自然の脅威というやつを身をもって教えられた。
【楽園】が幾ら強固であろうと、底なしの闇を思わせる大口を何度も見ようものなら寿命が縮んだように思える。
誰が糸を引いていようと、専決事項は不動だ。
眼前の怪物に対処する必要があると。
幸いなことに、先の衝突による反動は見事に海遊巨獣の痛覚を刺激したようで、巨躯を震わせて悶絶するようにのたうち回っている。
それだけで、大地は震えて大気を振動させるには十分だ。
「テリア、アヤメ。【楽園】からは出ないようにね」
「……? ロムルスくん?」
怪訝そうなテリアの表情が容易に想像できる。
それと共に、ボクの行動に合点がいき、戦慄すらしている。
「も、もしかして…………!」
「ああ、ボクがあれを討伐する」
「……っ、ダメですっ! 一人だけじゃ──」
「そうよぉ。幾らロムルスくんだってぇ……!」
「面目ないけど、ボクには何が起こっているのか分からない。だから、万全を期す必要があるんだ」
半ば強引に結論だけを言い捨ててボクは【楽園】を後にする。
謝罪ならば後で幾らでもすればいい。
今は、あの怪物を討伐する方が優先だ。
どうにも、不可解に過ぎる。
【運命識士】が警告を発したと思えば、突然出現したありえるはずのない海遊巨獣ときたものだ。
あれを視界に収めてからというもの、不吉な胸騒ぎに駆り立てられている感覚から抜け出せない。
「出し惜しみはなしだ。早急に討伐しよう」
「────ッ! ──ッ!!」
まさかボクの言葉を認識したわけでもあるまい。
僅かな殺気に反応してちっぽけなボクを睥睨しながら、深淵の穴を思わせる大口を広げる。
それだけで、全身に悪寒が走る。
体格差はもはや論じる必要すらない。
【楽園】は二人を護りきるために解除するわけにはいかない。
故に疑似義手を顕現させることはできず、“天神之技”も使えない。
まだまだ未完成の“天神之技”は両腕があって初めて真価を発揮する。
朱色の右剣一振りと全身に“龍皇裂帛”を纏わせ対峙する。
巨体とはいえ、獣に違いはない。
如何に生物として隔絶していようと、技をもって封殺してみせよう。
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轟音が継続して響いている。
“霊力”の壁一枚隔てた外界では怪物と人外の戦闘が繰り広げられていた。
その巨体に身を任せた海遊巨獣は身動ぎ一つで突風を引き起こすだろう鰭を用いて、縦横無尽に動き回るロムルスくんを圧し潰そうと躍起になっている。
しかして、ロムルスくんは一瞬たりとも追随を許さず右腕一本で斬撃を放っている。
その破壊力たるや朴訥とした彼からは想像もできない程に狂暴だ。
一振りで大地を抉り、空を引き裂き、巨体を突き破り血潮をまき散らす。
あまりにも一方的な蹂躙といっても差し支えない。
大きいだけで鈍間な海遊巨獣では、あたしにすら捉えきれない速度で疾走するロムルスくんを排するなど夢のまた夢だ。
けれど、戦闘は終わらない。
「す、すごい…………! テリアさんっ、すごいですよ……!」
あったりまえじゃなぁ~いと、感激するアヤメちゃんに我が物顔で返答したい。
というか、にっまり笑顔まではプレゼントしちゃってるわぁ。
だけど、彼女を安心させる一言は終ぞ紡げなかった。
とっくのとうに斃れているはずの海遊巨獣はしぶとく生き永らえ、凡そ生物とは思えない絶叫と共に暴れまわっているために。
既に【楽園】の周囲は地獄絵図へと様変わりしている。
木々は根本からへし折れて、降り積もった雪は亜音速を超えるロムルスくんのおかげで蒸発してしまっている。
懸崖なんていつ崩れるか分かったものじゃない。
神話の時代に逆戻りしたかのように思える戦闘痕は、まだ惨状を拡げるだろう。
おかしい。
やっぱり、違和感が拭えない。
今だってロムルスくんの斬撃は確かに一直線に海遊巨獣の身体を裂いた。
切断面からは大量の血が噴き出し、失血死したって不思議じゃない。
だというのに、海遊巨獣は疼痛すら感じていないかのように暴れ続けている。
「何か、なにか絡繰りがあるはずなのよぉ……」
「……? テリアさん?」
ぽつりと零した独白は、小さな【楽園】では存外大きく反響するものだ。
気付いた時には遅く、アヤメちゃんは不安そうな表情で杖をギュッと握っている。
……そうだ、アヤメちゃんだ。
あたしには無理でも、アヤメちゃんなら。
「アヤメちゃん、ロムルスくんをどう思う?」
「え、っと…………凄く強いと思います……」
瞳を輝かせて頷くアヤメちゃんは本当に素直だ。
とって食べちゃいたいくらいだ。
目に入れても痛くないなんて出鱈目だと思っていたけど、アヤメちゃんなら痛くないわね。
違う、違うわよテリア。
今は、あたしにできることを。
「ええ、そうよぉ。本気ならもぉ~と強いわぁ。本当なら、とっくに倒してるはずなのよぉ」
「まさか……!」
「想像通りよぉ。何かがおかしいのよねぇ」
ふわふわとした雰囲気からは分からないけれど、彼女は利発だ。
あたしの言わんとしている所を正確に理解している。
恐らくロムルスくんは異変に気付いているはずだ。
けれど、彼は応戦するだけで手一杯な様子。
海遊巨獣の自重の載った一撃は掠るだけで致命傷になりえる。
あたしじゃ、ロムルスくんの隣には立てない。
援護するどころか、安全圏のためにロムルスくんは【楽園】を解除できずに足を引っ張ているのが現状。
ただ、相性が悪いのだ。
あの巨体が相手ではあたしが幾ら“龍気”で強化したところで大したダメージも与えられないだろう。
アナスタシアちゃんみたいに広範囲殲滅攻撃ができれば別だけど。
「きっと、アヤメちゃんなら聴こえる。だから、力を貸してほしいの」
このままなら、早晩ロムルスくんは潰れてしまう。
幾ら彼が強くとも人間と海遊巨獣では生来持ち得るスタミナは比べるまでもない。
どれだけロムルスくんが強烈な一撃を放とうとも、斃せない以上、限界は存在する。
あたしじゃあ、海遊巨獣を倒す手立ては見つけられないけれど。
「おねがい、ロムルスくんを助けて」
アヤメちゃんになら、きっと聴こえるだろうから。
あたしは、彼女に頼み込むことしかできない。
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新鮮な気持ちだった。
初めて此方は護ってもらえた。
最初は突然ピカピカ光る壁が現れて驚いたけど、状況が次第にはっきりすると絶体絶命だとわかった。
二体目の海遊巨獣は様子がおかしくて、金色の箱から飛び出したロムルスさんも苦戦しているらしい。
らしいっていうのも、テリアさんが言っていた。
此方にしてみれば、肉眼で追えないロムルスさんが押しているとしか思えないから。
今まで能動的に耳を傾けた経験は皆無だ。
ずっと、身に降りかかる火の粉を払うみたいに、向こうからやってくる危険を避け続けていた。
そのためだけに、此方の能力はあるのだと。
「……、やってみます………………っ!」
意気込みを露にして了承したことに、此方が誰よりも驚いた。
けれど、ぱぁぁあっ! と表情の明るくなったテリアさんを見ていると、肩の荷が下りたように気持ちが軽くなった。
思いの外、頼られたことが嬉しかったのだとようやくわかった。
意図的にオトを聴き分けることはなかったけれど、何となくやり方は分かる。
危ないオトは存在だけで刺々しい音源となる。
そう例えば、暴れ回る海遊巨獣とか。
色白な体表だけど、それは視覚に頼った印象だ。
瞼を閉じて聴覚だけに集中すれば──オトの世界に入れば、一変する。
真っ赤な濁流…………うん、そんな感じ。
バキバキと、ガンガンと聞くに堪えない不協和音を、まるで讃美歌の如く声高に唱えるのだ。
だから、聴きやすいし、とっても分かりやすい。
でも、必要なのはこれじゃない。
テリアさんは眼では視えない隠匿された情報を求めてる。
自分には分からないと言い切って、此方を頼ってくれたんだ。
此方は此方にしか視えない世界で役に立たなければ。
「……っ、! テリアさん!」
いま、聴こえた! 確かにある…………!
懸崖で狂乱の限りを尽くす海遊巨獣へと氷に覆われた海から赤いオトが。
もっとだ。
集中しろ、全神経を聴覚へと収束させるんだ。
海遊巨獣は何者かに操られていると、それだけなら、きっとテリアさんも分かってるはず。
此方はもっと深淵だって覗ける。
赤い糸が何本の連なって、重なり合うように海遊巨獣へと伸びている。
…………ダメだ、聴こえない。
一歩届かない自分がもどかしくて、口惜しい。
あと少しだ。
海氷に遮られて詳しく聴き取れない。
「もっと近づかないと…………!」
「わかったわぁ~! 露払いはあたしに任せて、アヤメちゃんは走って~!」
「はい……っ! ありがとうございますっ!」
ロムルスさんは金色の箱から出るなと言ってくれたけど。
それでも、此方は役に立てず燻るよりも…………危険だけど存在意義を果たせる方がいい。
ふうぅ──と肺の中に溜まった空気を吐ききって。
暴威の吹き荒れる危険地帯へと踏み入る覚悟を決める。
一歩でも外に出れば飛び交う木片や砂利にズタズタにされるだろう。
けど、それがなんだ。
ロムルスさんはあんなのを相手に死闘を演じているんだ。
どうして此方が臆すよう。
最初は足が竦むかなとも思っていたけど、そんなことはなかった。
此方の両脚は今までにないほど、速く、強靭に前へ前へと動いてくれた。
だって、着かず離れずの距離でテリアさんが護ってくれるから。
やっぱり、テリアさんも凄かった。
散り散りになった赤い点々を腕の一振りだけで消滅させている。
あれは…………三節棍かな? それに、ロムルスさんをぼうっと包んでるヴェールみたいなのもある。
「ロムルスくん……! ごめんねぇ~!」
「成程、君のことだ。何か策があるのだろう」
何が成程なのか分からないけど、ロムルスさんは頷いて剣を鞘に納めた。
何をするんだろう? と疑問に思ったのも束の間、振りかざした拳で海遊巨獣を空中へ殴り飛ばした。
ぶわっ! と吹き飛ばされそうな衝撃波が全身を打つ。
…………もう、此方は驚かないと決めた。
だってキリがないんだもの。
剣を振るう時も、殴打の瞬間にだってロムルスさんのオトは揺らぎだってしなかった。
まるで呼吸をするかのように、自然に。
きっと、此方の常識はあの人に通じない。
なら、もう深く考えない方がいい。
「あと、もうちょっと──!」
断崖絶壁。
あと一歩でも踏み出せば崖下へ真っ逆さま。
それでも、此方には蠢動する首謀者を察知できずにいた。
ああ、もう……! もどかしい!
ふわっと湿った風がたなびく髪を撫でる。
潮の含まれた生暖かい空気と肌を刺す冷風が同時に頬を叩く。
──此方はフードを取っていた。
ただ聴こえなかったから。
それだけの理由で、此方は村を飛び出して初めて耳を露にしていた。
どれだけ脅されても、ひどい目に遭っても。
ずっとずっと迫害されるって分かっていたから、此方は素顔を見せることはしなかった。
きっと、もう必要ないと思ったからかな。
ロムルスさんは、テリアさんは。
此方の耳を見せても軽蔑しないって、そんなオトだから。
「あれは…………魔獣! 魔獣です、テリアさんっ!」
漠然と、茫然と。
まるで海藻が揺蕩うように、我が物顔で鎮座する真っ赤な気配。
海遊巨獣に伸びている赤い糸は手のひらに収まりそうな小さい魔獣が元凶だ。
魔力だか“霊力”だかしらないけど、海遊巨獣に生命力を注いでいるみたい。
だから、幾ら斬っても最後の最後で倒しきれなかったんだ。
「おっけぇ~いっ! あとはテリアちゃんにまっかせなさぁ~い!」
ガチャンガチャン! と物々しいオトが耳朶を打つ。
重力を感じさせない足取りで駆けたテリアさんは、三節棍を一本の棒へと変化させていた。
そして、羽でもあるのかと思わせる程に軽快に躍り上がる。
「視えたわぁ~……! そこにいたのねぇ~!」
中空でグッと棒──いや、刃が飛び出ているから槍かな?──を投擲する。
へたりと、思わず座り込んでしまった。
此方は達成した。
此方だけの役割を全うできた。
声にならない絶叫が聴こえた後には、螺旋を描いていた赤い糸は綺麗さっぱり消え失せていた。
❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏
驚いた。
アヤメが【楽園】から駆け出したのもそうだが、まさか。
彼女は魔族だ。
末裔などではなく、限りなく純血に近いのではないか。
蘇芳色の長髪に、オオカミ耳を彷彿とさせる大きな両耳。
今もなお聴き分けているのかピクピクと小刻みに動いている。
魔族は“オドラの民”に代表される“龍人”よりも苛烈に差別される。
それがフフェス人よりもエルシニア人への当たりが強い要因になる。
ただでさえ、酷く迫害される魔族の純血ともなれば生存すら疑わしいのが実情だ。
「どうも、今日は驚いてばかりだな」
アヤメもそうだが、まさか獣を操る魔獣が存在するなんてね。
【運命識士】はうんともすんとも言わなかったけれど、事実、アヤメが探し出しテリアが討伐した。
君は再三に渡る警告をした後にだんまりを決め込んだね。
もしや、拗ねているのかい?
一考すらしなかったのは悪いと思う。
けれど、ボクは他の可能性を許容する気は更々なかった。
「さて、目下はこれの排除だろう」
徐々に影の面積が広くなっているな。
二人に近づかせまいとするあまり力加減を間違えてしまった。
おかげで、自由落下に任せるままの海遊巨獣が衝突した際の衝撃は無視できない。
「【楽園】」
失った左腕が突如として生えて、挙句の果てに自在に動かせるのだから【権能】とは不可思議だ。
地上への衝撃を加味すれば、空中で海遊巨獣を消滅させる必要がある。
全長数十メートルの巨体を一撃で消し炭にするには……万全の“天神之技”以外にない。
「君に恨みはないけれど、ボクにとっては二人の方が大切なのでね」
“霊力”と“龍皇裂帛”を混在させる。
上段に朱色の右剣と朱色の左剣を構えれば。
あとは振りかざすだけでいい。
一般論としての“天神之技”と、彼の“天神之技”は似て非なるものだ。
シャープールが剣術を分岐して継承させたせいで誤った口伝が残った。
何も“天神之技”とは定型をもつ訳ではない。
『天神将軍』シャープールの一挙手一投足が、そのまま“天神之技”なのだ。
故に。
故にだ。
ボクが無造作に双剣を振るうと、それこそ“天神之技”だ。




