30. 解氷
頬を撫でつける身の凍るような突風は天の気まぐれを表すかのように、不規則に吹き付けている。
右に左に、上から下から。
生暖かい時もあれば、飛ばされてしまいそうになる強風だって襲い来る。
曇天の空模様は余計に心のささくれを刺激し、寂寞と無聊の増幅を肌で感じられる。
水平線までもが分厚い氷に覆われ、金切り音だけが耳朶を打つ殺風景な空間。
断崖絶壁を前にして、ボクたちは来たるべき瞬間に備えてキャンプを設営し終えた。
“クァラクの天海”。
潮の香りだって、漣の音だって、カモメ一匹たりとも存在しない風と静寂の世界。
年中海氷域として名の知れる“クァラクの天海”では時折訪れる人間以外は、影も形もない。
まあ、厳密には氷の下には多様な海洋生物が独特の生態系を築いているのだが。
そもそも、“クァラクの天海”を覆う氷は水面に薄氷が張り、その上に降り積もった雪が凍り氷床となったものである。
とはいえ、八メートルにも及ぶ氷の天蓋は最早大陸といって差し支えない。
そのために、未だに“クァラクの天海”の生態調査は行き詰っている…………というか、遅々として進んでいない。
一体、如何なる生物が悠々自適に暮らしているのか、その表層すら解き明かせていないのだ。
一応の見解として、ところにより十メートルはあるだろう氷を突き破って海面へ現れる生物はいないだろうと表明はされているが。
もし、一匹たりとも姿を見せないのであれば、そもそも冒険者が“クァラクの天海”に足を運ぶ理由もない。
そんな人間の立ち入らざる禁則地に、冒険者諸君、それも“金”級以上に限定されたパーティが臨む理由。
海獣海遊巨獣の討伐だ。
平均的な全長は二十メートルに匹敵する巨大な海洋生物で、見た目はただの鯨だ。
無論、三階建ての建物程度の縦尺に大きく開いた口と、夢にでも出てくれば即座に悪夢と分かる海獣だが。
主食は水中の“霊力”であり、肉食ではない。
では、どうして、ボクたちは規格外の生物を討伐しに行くのか。
その疑問を解消するためには、海遊巨獣の生態を多少把握する必要がある。
先ず、短水プールにすっぽり収まるであろう巨獣も、生物である。
そして、生物である以上、繫殖期というものが存在する。
大抵の生物が繫殖期になれば狂暴化する例にもれず、海遊巨獣もまた普段の温厚な性格を一変させる。
なんと、繫殖期に限り陸上生物へと変貌するのだと。
エラの代わりに肺が、鰭の代わりに屈強な脚が、出現するらしい。
巨体は相変わらずのままに我が物顔で上陸して、地上の“霊力”を貪り食らう。
それだけで、リヴァチェスター領の領民は“霊壊病”──霊力が急激に下がり、最悪の場合死に直結する病──の初期症状を発症してしまう。
故に、早急に駆除する必要があるのだ。
とはいえ、【運命識士】を閲覧した時はボクも驚いたよね。
なにせ数万年の進化の課程を一個体で再現できるんだから……怖ろしいたりゃありゃしない。
この世界の学者は懸念事項にすら列挙していないが、進化の片鱗を宿した生物が存在している事実は、ひどく危険だ。
加えて、生態系の何も不明瞭な“クァラクの天海”の海中ときたものだ。
いつ知能を獲得したっておかしくない。
いや、やもすると既に独自の言語体系を形成している可能性だってある。
閑話休題。
温暖な海域に生息する黒刃逆叉とは違う脅威を誇る海遊巨獣の討伐はリヴァチェスター領を拠点にしている冒険者や、立ち寄った腕利きの使命とも言える。
彼らが上陸する兆候は至って簡単だ。
なにせ、最大級の巨躯を用いて強引に氷を割りながら大地へ上陸するのだから。
今だって、ほら。
耳を傾けなければ聞こえない程度ではあるが、小さくメキメキと軋むような音が聞こえている。
人一倍聴力のいいテリアなんて不快な不協和音に眉をひそめている。
それに……常人離れした気配感知能力を有するアヤメもまた、刻一刻と接近する巨体の存在を克明に感じてしまい怖気づいてしまっている。
閲覧する限り、新緑の双剣は海遊巨獣の討伐は初めてらしい。
エリオットは執拗に陣形を確認して、他のメンバーもまるで鼓舞するように応じている。
相変わらず、バンドは喋らないけれど、あれで意思疎通ができているのか…………? 甚だ疑問だ。
【運命識士】曰く、海遊巨獣の出現は二時間後。
それまでに、ボクは二者択一への解答を導かなければならない。
頭上を見上げると鈍色の空がボクたちを睥睨している。
さて、祝福しているのか、はたまた苛烈に非難しているのか。
天が何を望もうと、ボクには預り知れないが…………ボクはボクのすべきことをしよう。
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雪が降り出した。
ぼつりと額に沁みる水滴は一滴で此方の心に重い鉛を蓄積させる。
海遊巨獣の上陸地点と目される断崖絶壁で待機して数時間、遂にその時が来たんだと思った。
バキバキと氷に亀裂の入る音は、まるで海が断末魔を叫んでいるなんて馬鹿な錯覚をしてしまう。
世界が崩れる時にはこんな音がするんだろうなあ、と現実逃避してしまう此方を許してほしい。
ずきりと頭痛が激しさを増した。
此方は人より感覚が機敏だ。
感覚というよりは、オトに敏感なんだ。
特に殺気とか、悪意とか、憎悪とか、此方に害を及ぼすであろう存在が近くにある時には、浮足立つような言いようのない焦燥に感情を支配されてしまう。
弾かれたように掴まれてはいけないと、逃げなきゃいけないって。
そう、まるで、視界を真っ黒に塗りつぶされたような感覚。
振り切っても、駆け出しても、逃げ切れない。
ゆっくりと生殺しにされるように、窮地に追いやられている恐怖には太刀打ちできない。
でも、此方は何度だって本能に助けられてきた。
冒険者になってからも、ずっと昔に村を焼かれた時だって、此方はオトを聴いて本能に従ったから一人生き永らえられた。
だから、今だって回れ右をして逃げるべきなんだ。
とっても大きくて、想像を絶する生命力の塊が一直線に向かってきている。
此方なんて鼻息だけで消し飛ばされそうな化け物が踏みつぶさん勢いで近づいている。
でも、みんなは逃げない。
それどころか、撃退しようとしている。
新緑の双剣のみんなにはお世話になった。
傍から見ていると此方は虐げられているようにも見えるだろう…………いや、事実、酷い言いがかりで殴られるんだからその通りだ。
けれど、それだけ。
殴られるけど、無能だと罵られるけど、戦闘には参加できないけど。
一度だって、フードを取れなんて言われなかった。
きっと、興味がないんだ。
此方の顔や、造形に。
求められているのは此方の唯一無二の能力で、それ以外は不要なんだ。
…………でも、それが普通なんだ。
命からがら村から逃げた後、色んなパーティを転々として新緑の双剣に拾われるまでに此方は汚れすぎた。
見たくもないものを見てきた。
やりたくないけどやらなきゃいけなかった。
大婆様が言っていた……魂が穢れると、生物も汚れるのだと。
だから、此方は汚れてる。
だから、誰も、此方と接したくない。
「よし、皆、そろそろだ。気を引き締めよう」
「おう! とっとと終わらせて酒盛りといこうぜ!」
「さんっせーい。報酬でたっかいのかちゃおう」
だから──此方は独りなんだ。
けど、仕方ない。
いつだったか、此方は部品だと言われた。
うん、その通りだ。
此方はみんなを危険から遠ざけるための部品だ。
部品に情は要らない。
戦友でも、仲間でも、ペットでもない此方には、それでいい。
此方も、それでいい。
此方には教えてもらえないけど、ずっと見てきたから初期位置だけでどんな戦法を取るか検討がつく。
先ずは大地を動かせる干渉系の【権能】をもつバンドさんが上陸しようと脚を伸ばした海遊巨獣を空中に固定する。
そのまま、エリオットさんとエラさんが直接攻撃して体力を削る。
要のバンドさんの体力や気力を計算しても、二人は短期決戦を想定している。
きっと、数十分だってかからず仕留めてしまうだろう。
初めての大きな依頼だけど、ドミンゴさんが前線へ赴く前に討伐は終わるはずだ。
「ふわぁぁ~、ロムルスくん。あたし眠くなっちゃたぁ~」
緊張感のない間の抜けた声が、張り詰めた空気を弛緩させた。
声の主はテリアさんだ。
むくりとハンモックから半身を起こしたテリアさんは、羨ましい程に大きな胸元の逸らして伸びをしている。
そのまま、緩慢な動きで立ち上がり、再び大きな欠伸をする。
とっても吞気で、思わず啞然としてしまう。
「当然じゃないか。たった二時間の仮眠で全快とはいかないだろう」
周囲の雪と同化してしまいそうな純白の軍服に身を包んだロムルスさんは、小言のようにテリアさんにくぎを刺す。
「もう一回横になろうかしらぁ~」
それは……やめたほうがいいんじゃないかな?
「よすんだ。眠りこけた君を運ぶのはボクの役目になってしまう」
チッと、ドミンゴさんの舌打ちが聞こえた。
他のみんなも場違いに吞気な二人の様子に不機嫌さを隠せていない。
それもそのはず、今から死闘が始まるというのに緊張感の欠片もない二人に苛立ちを募らせているのだろう。
エラさんが文句を言いに行こうとしているのを、エリオットさんが止めている。
普段表情一つ動かないバンドさんも眉をひそめてるんだから、余程、二人のことが許せないんだろうな。
それにしても…………初めて会った時からロムルスさんとテリアさんのオトはつかみどころがない。
いいや、違う。
人間のそれとは思えないんだ。
テリアさんは“龍人”だって言ったけど、そんなことギルドで庇ってもらった時には気が付いていた。
芯のあるオトだと思った。
穢れを知らない純粋で、気高いオトだと。
それは、昨晩言葉を交わして一段と強くなった。
問題は、ロムルスさんだ。
まるで、朴念仁、唐変木のような。
凪いでいるといってもいい。
誰にだってオトはある。
生物に限らず、そこらの雪にすら小さなオトがあるんだ。
だけど、ロムルスさんにはない。
それが、此方にとっては却って怖ろしい。
人間の皮を被った得体の知れない何かのように思えてしまって。
「おや、始まるね。テリア、一応気は張っていてくれないかい?」
「えぇ……でもぉ、何とかなるんじゃなぁ~い?」
「それで何とかなった試しがあるかい?」
「…………ないわねぇ~」
……? なんの話をしているんだろう? と。
そう、思ってしまう前に、ガリリリリッ! と轟音が聴こえた。
オトではなく、正真正銘、音だ。
氷が完全に割れたんだ…………! と、此方には何もできないけど、思わず身構えてしまう。
ドシンッ! と大地が揺れると共に絶壁を登る情景が想像できる。
一歩一歩を確実に、されども危うげなく。
海遊巨獣が上陸しつつある。
「……ッ、バンド、今だッ!」
「【地動】……ッ!」
「よし、行くぞ、エラッ!」
「まかせなっ!」
まるで重力を感じさせない動きだ。
フワッと躊躇いもなく崖から飛び降りた二人。
すると、崖下から生命の断末魔が木霊した。
「……ッ、!?」
脳髄へ直接響くような聲に耐え切れず、耳を塞いで蹲ってしまう。
生き物が死に行く最期のオトは、一際大きな破裂音を響かすものだ。
それが、巨躯になればなるほどに、此方の聴こえてしまうオトは大音声となる。
絶え間なく響き続けるオトには慣れることもなく、ただ耐えるしかない。
吐き気が収まらない。
涙がにじむ。
辛くて、痛くて、逃げ出してしまいそうになる。
けれど、此方は直面しなくちゃいけない。
みんなには聴こえないから、ちゃんと聴こえる此方が聴き届けなきゃいけないんだ。
それが、手向けになる。
手前勝手な理由で命を刈り取る最低限の贖罪になる。
「やっぱりぃ、アヤメちゃんは優しいんだねぇ~」
ふっと、肩の力が抜ける。
いや、それどころか身体の不調がまるっきり綺麗さっぱり消え去っている。
でも、軋むようなオトは顕在だ。
「安心して~、アヤメちゃん。貴女の覚悟まで無碍にはしないわぁ」
胸の中心から暖かさが全身へ行き渡っている。
テリアさんは自分のことを“龍人”だと言った。
絶滅したと伝えられる“龍人”が生きているはずもないと猜疑心が首をもたげたけれど、オトが否定した。
それに、大婆様も世界のどこかでひっそり暮らしてるって教えてくれた。
だから、きっと、これはテリアさんの応援なんだ。
此方だけが視えていた景色に、初めて誰かが立ち入った。
けれど、不快感はなかった。
むしろずっと居てほしいと願ってしまう。
此方は、傲慢なのかな? 欲張りなのかな?
誰に問うまでもなく、此方の問いは海遊巨獣の絶叫が鎮まるまで延々と廻り続けていた。
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海遊巨獣は討伐された。
見事な手腕と言えるだろう。
作戦は勿論のこと、足場の不安定な反り立つ崖で巨体を相手に持久戦を許さずあっという間に決着を付けた。
彼らの精神性はともかくとして、冒険者としての実力は本物だ。
また、彼らのみならず、アヤメもまた規格外だな。
テリアでさえ眉をひそめる断末魔を、直に受けて発狂せずに健全な精神を保ったのだから。
忍耐力でどうにかなる次元を逸脱している。
【運命識士】曰く、ただの村娘らしいが…………そこには一抹の疑問を覚える。
例え、如何なる境遇であれど生物のメンタルというものは一定程度の限界がある。
幼少期から奴隷として虐げられてきたカレンが、ある年で知能の発達に歯止めがかかったように。
けれど、それは正しい機能だ。
正常な精神状態を維持するためには、致し方のない防衛機能なのだ。
しかし、アヤメは何の衒いもなく受け続けてきた。
数多の断末魔を、悪意と混沌のオトを、持続して聴いてタガが外れていない。
最早、異常の域だ。
「あの……っ、エリオットさん…………!」
どうやら、思考に耽り過ぎたらしい。
勇気を振り絞ったようなアヤメの大声に、ボクの意識は現実へと引き戻された。
さて、どうなっている。
新緑の双剣たちは円を描くように談笑していて、そこにアヤメが割って入った形になるのか。
そもそも、彼女とてパーティメンバーのはずが。
まるで部外者が話しかける様に見える。
テリアは……アヤメの半歩後ろで成り行きを見守っているようだ。
「あ゛ぁ? おい、近付くなよドブネズミ。這いつくばってただけの手前に分け前があると思うなよ。それと、お前らもだぞッ! 大して働いてねえくせによ」
それは君もだろう? 役職上、【権能】を用いて足止め役の僧侶よりも役に立っていなかったよ。
とはいえ、彼には届かないだろう。
届ける気も、更々ないしね。
「こ、此方は……っ! エリオットさんに、お話がありますっ!」
「……ッ、んだと……!? お前…………!」
「いいんだ、ドミンゴ。聞こうか」
まさか彼女が言い返すなんて思わなかったのだろう、面食らったドミンゴが拳を振り上げる。
なんて元気なんだ…………いや、彼は働いていなかったな。
とはいえ、頑強な拳が振り下ろされる前に、誰もが認める好青年エリオット君が静止した。
ボクにも彼みたいに爽やかなイケメンだったら、円滑なコミュニケーションが望めるのか?
やめよう。
何が面白くて自ら惨めにならなくてはならない。
「あの……っ! こ、なた……は、感謝してますっ、ここまで──」
≪警告≫
何だって? 君は? 誰だ?
まるで魂に直接響く無機質な声に勢い余って周囲を見回してしまう。
「御託はいい。この依頼で新緑の双剣は“白金”級へ王手をかけた」
≪警告≫
何を訓戒しているんだい?
「……っ? あの…………っ!」
≪警告≫
成程。キミか。
ボクは選んだ。
ボクは何もしないと。
テリアに万事を任せると。
その結果として、アヤメが新緑の双剣から脱退する。
テリアを止めることもできたし、アヤメを思いとどまらせることもできた。
キミが示してくれた通りの“未来”を閲覧して、ボクは選ばなかっただろう。
どれも、アヤメを切り捨てる“未来”だったからね。
「受け取る報酬も跳ね上がる。一人分の分け前が空くとなると、俺たちだって助かる。どこへなりとも行くがいい」
≪警告≫
何を今更、ボクに語ろうというのか。
キミは何を、何に恐れているんだい?
「~~~~っ、はい。あの……ありがとうございました…………っ!」
≪警告≫
≪警告≫
≪警告≫
≪“未来”の枝が抜錨されました≫
「……、? ねえ、ロムルスくん。どうしたのぉ?」
目の前にテリアの疑問顔があった。
いつの間に接近して……違う、ボクが歩いたのか。
端正な顔立ちに、柔和な雰囲気、他でもないテリアだ。
傍にはズビズビと鼻を鳴らして涙を流すアヤメの姿があった。
フードを目深に被る彼女の素顔を、未だに垣間見てすらいない。
何やら言い合っている新緑の双剣たちの姿もある。
なあ、君たちはどこにいるんだい? まさか、懸崖なんて言わないよね?
【運命識士】、キミは──
ボクに何を視せた?
「──【楽園】」
「へ……? ロムルスくん?」
悪いが狼狽しているテリアに構う時間はない。
金色の立方体がボクを中心に、テリアとアヤメまでを領域内へと引き込むのと。
漆黒の穴が新緑の双剣を呑み込むのは同時だった。




