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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第二章【自由の象徴】──第二部【北の花園】
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26. リヴァチェスター領領主

 使用人に案内された応接間はラインと会談を行った部屋よりも一層広かった。

 所狭しと並べられた調度品、骨董品、絵画の数々は芸術に造形が深いとは思えない程に下品だ。

 目に付いた美しい芸術品を見栄のために並べている印象を受ける者は、きっとわたくしだけではないだろう。

 足音を吸収するような絨毯や部屋全体から受ける清潔さを見事に中和してしまっている。

 もしかすると、わたくしがリヴァチェスター領の領主へ良いイメージを持っていないから、受け付けないだけなのだろうか。

 ちらと隣に座ったテリアを垣間見ると、まだ冷めていない紅茶に四苦八苦していた。

 桃色のミニドレスに身を包んだテリアは童顔も相まって、いやに煌びやかな応接間にはミスマッチだ。

 幾ら護衛といえど、普段着で公的な会合に参加するわけにもいかずアウグリュニーで仕立てたドレスだが、少女にしては発育のよいプロポーションをこれでもかと見せつけている。

 ホロウが恨みがましい視線を向ける訳だ。

 今となってはわたくしだって自分の身体を武器にできるが、テリアにも十分潜在的な力がある。

 閑話休題(それは一度置いといて)

 彼女には、応接間へと意識を向ける余裕はないようだ。

 ……“龍人”は猫舌なのか、それともテリアが熱いものを苦手としているのか。

 今度聞いてみよう。


「お待たせしましたな、使者殿」


 がちゃりと、観音開きの扉を開けて三人の男が入室し、逸れていたわたくしの意識は急速に現実へと引き戻される。

 人当たりのいい柔和な笑みを張り付けた男が紳士然とした風体で着席する。

 しかして、連れ立った二人の男はまるで乱暴にどかりと腰を下ろした。

 さて、既にわたくしの心中には憂鬱な暗雲が立ち込め始めたが…………気を引き締めなければならない。

 わたくしはこれから一世一代の会合に臨むのだから。







 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐








 リヴァチェスター領の当代領主に対する領民の評価は、口にすることが憚られる程に酷いものだった。

 フェイラー=ノヴゴロド。

 それがわたくしの眼前でにたにたと気味の悪い微笑を携えている男の名だ。

 ベージュのプールポワンに、こげ茶色のホーズ、煌びやかな暖色のマントを羽織り、くすんだ金髪を背中で結っている。

 本人はれっきとした紳士のつもりで慇懃に接しているのだろうが、薄い面の皮にはわたくしに政策ではなく女を求めているのがバレバレだ。

 純白のマーメイドドレスを選択したわたくしは、身体の起伏が顕著に表れている。

 そのせいか、不躾な視線が一点に注がれていると肌を通してよくわかるのだ。

 女癖の悪さに加えて、フェイラーの打ち出した政策はどれもかれも潮流に逆らう悪手であり、毎夜のように絢爛なパーティーを開いて度々財政難に喘いでいる。

 その度に、重税を課すので無能だと散々叩かれるのにも頷ける。


「はじめましてかな、アナスタシア=メアリ殿。私はフェイラー=()()()=ノヴゴロド。リヴァチェスターの領主をしているものだ」


「ご丁寧にありがとうございますわ。此度はフォルド領領主ライン=フォン=フィリアの代理として参りました。提案書には目をお通しになられましたか?」


「ええ、ええ。非常に見やすく、要点の理解しやすい書類だったよ。あのメルヘンチックな箱入り娘がまさかあんなに簡潔な書状を書けるはずもない。アナスタシア殿の入れ知恵でしょうが、おかげであなたの思慮深さがよくわかった」


 わたくしはあなたの不調法に嫌気が指したわ。

 性別の違いはあろうとも、ラインは領主の一人だ。

 それをメルヘンチックな箱入り娘と領主代理の眼前で、しかも公に準ずる場で揶揄するなんて。

 あまりの至らなさに頭を抱えたくなる。

 加えて、ノヴゴロド家に貴族位はない。

 つまりは、“フォン”を名に使用することは私的な場であれ、あまりにも礼節に欠ける。

 この男を上手く懐柔できるか、不安に駆られてしまう。

 だが、心中を表へ出すなんて初歩的なミスはしない。

 ぴくりとも動かすことのない微笑を、意識的に貼り付けるイメージだ。


「リヴァチェスター領の工業は前代未聞の先進的な技術と、わたくしは思いましたの。ですので、フォルド領の交易ルートを基盤として帝国全土へ普及させ、より一層の発展と利益の享受を──」


「いや、結構。一から説明されなくとも分かっている。つまり、私たちは工業技術を、君たちは得意先を提供する。双方得られる利益は莫大。あの小娘は商売の上手い商人を手籠めにしたわけだ」


「フェイラー様、ライン様はわたくしの雇い主でありフォルド領の領主です。お言葉ですが」


「お言葉だが、なんだ。皇帝の権威の名の下で領主の地位を得たにも関わらず奴隷解放などとほざく学のない小娘。それがフォルド領の領主だ。事実を事実のままに口にして何が悪い」


 悪いに決まっているだろう。

 教養がないのは一体どちらだ。

 彼の瞳には相手を軽視する、侮蔑の色が混じっている。

 酷く濁った瞳にはわたくしの胸元しか映っておらず、思考が下半身に支配されているのだとわざわざ伝えてくれる。


 今までにフェイラーのような相手に交渉を行ったことは多々ある。

 想像を絶する程に卑しく、下品で、下卑た考えが脳内を占めている種別の人間だ。

 正直に会話をするだけで吐き気がしてくる。

 そして、そういった手合に限って、自分が本気で好意を抱かれていると錯覚してしまうのだ。

 正に鳥肌もの。


「して、アナスタシア殿。先の書簡には緻密な計画は記されていたのだが、結論が不明確だった」


「はい、フェイラー様。わたくしは結論をお伝えするべく参りました」


「では早速話したまえ」


 横柄な態度が一層滲みだしている。

 まだ顔を合わせて数分だぞ? 多少は取り繕う素振りだけでも見せてほしいものだ。

 フェイラーの様子からも、彼の人となりよくがわかる。

 高圧的で傲慢、女性のことを欲望のはけ口としか思っていない言動の数々。

 だからといって、交渉を切り止めるわけにもいかない。


「詰まる所、フェイラー様。わたくしはラヴェンナ商会を西側領土の交易を一手に担う商会へと拡大させます。ですから、ライン様はわたくしに力を貸してくださいました。フェイラー様には我々の同志の一人として──」


「結構、結構だ。アナスタシア殿。悪いが、私は仲良しこよしの学芸団に加入するつもりはないのだよ」


 嘲笑の混じった吐息をついたフェイラーは緩慢な動作でティーカップを手に取り口をつける。

 その様子を見て、わたくしは()()()()のだと痛感した。

 彼の瞳、視線の方向、動作の一つ一つからわたくしへの、延いては交渉事への興味が薄れていくのがわかる。

 それは、彼の脇を固めるように横柄に座った二人も同様だ。


 さっと血の気の引く感覚がわたくしの全身を縫い付けた。

 そう、失敗したのだ。

 想像していなかった、まさか予想すらしていなかった。

 いや、それは言い訳にはならない。

 フェイラーが稚拙で、目先の利益に囚われる男だと分かっていて…………わたくしは手管の選択を誤ったのだ。


「勘違いしないでほしいのだが、何も世間知らずの小娘と同列に語られたくないなんて子供じみた理由じゃない」


 何を言い出すかと思えば。

 まさか、フェイラーは勘付いているかのか? 計画の全貌に?

 西側領土をまとめてスウィツァー商会を始めとした商業インフラ──ロムルスが呟いていた──を簒奪する計画に。


 冷や汗が背を伝うのがわかる。

 表情を崩したつもりはないが、もしかするとひきつっているかもしれない。

 待て、落ち着け。

 一瞬たりとも気を抜くな、平静を取り戻せ。

 フェイラーの内心は把握しかねるが、彼は口を開いたのだ。

 まだ、まだ逆転の一手は講じられるはず。


「先の書簡にもあったがね、工業技術の先進に、出資、輸出の斡旋…………どれもこれも魅力的な提案だ。引き換えに、君たちの仲間になれと。名義だけでも貸してやりたいところだが、それも不可能だ」


「…………理由をお聞きしても?」


「リヴァチェスター領は今後一切、工業を推進するつもりはないからだ。領地運営は全て林業に舵を切る」


 …………絶句とはこのことか。

 今更林業だと?

 十中八九、リヴァチェスター領西部の樹林帯を指しているのだろうが……わたくしにはフェイラーが正気かどうか疑わしくなった。

 やもすると、西側領土を掌握するために東側領土から送られてきた破壊工作員としか思えない言動だ。

 いや、わかる。

 わたくしが如何に荒唐無稽な妄想をしているのか。

 だが、もし、彼が本気で林業を推し進めるつもりなら到底、わたくしでは御しえない粗忽者だ。


 リヴァチェスター領の工業技術は未発達とはいえ、帝国では唯一無二の領域。

 なにせ、蒸気機関の中核たる石炭がリヴァチェスター領でしか採掘できないからだ。

 地質学者によると、石炭は帝国全土に埋没していると言うが、現状リヴァチェスター領でしか発見されていない。

 ならば、他の追随を許さないうちに独占しようとするのが通常ではないか?

 わたくしの計画書に目を通したのなら、ロムルスの改良案にも触れているはずだ。

 仔細は不明だが、彼曰く数倍の能率を叩き出せるらしい。

 だが、言うに欠いて林業だと?

 とち狂っているとしか思えない。


「お分かりかな。私には貸せる手はない。けれど、私とて君のような令嬢をあしらう冷徹漢ではない。君が私に従属するのであれば……考えなくもないがね」


「……ッ! ち、父上ッ!  ならば、そこの娘は私がもらい受けてもいいだろうかッ! 一目見た時から悲鳴を聞きたいと思っていたんだッ!」


「まあ、待てバルムス。それでは風情がない。じっくりと屈服させなくては」


 二の言の告げられないわたくしを尻目に、フェイラーとバルムスと呼ばれた二人は聞くに堪えない話に興じている。

 バルムス=ノヴゴロドはフェイラーの息子であり、家督を継ぐべき嫡男。

 しかし、その所業は父フェイラーですら可愛く見える。

 年頃の町娘を強引に愛人として悪辣の限りを尽くし、飽きると二束三文で奴隷商に売りつけると。

 正直に言って、今すぐにでもはっ倒したい。

 聞いているだけで辟易する悪行に加えて、あの男はテリアをこともあろうに奴隷として手籠めにすると言ったのだ。

 そもそも、どうして当事者を前にしてふざけたことを口にできるのか?


 フェイラーとバルムスは絶えず、さも当然のように論じ合っている。

 頭に血が上る経験はあるが、呆れ果て言葉の紡げなくなる経験は初めてだ。

 先までも交渉もそうだが、こいつらは…………救いようのないクズだ。

 一体如何なる手をもって領地を運営してきたのか疑問でしかない。


 相手は領主だと、わたくしは領主代理だと。

 そう言い聞かせても。

 自制心を再建させようと必死に渦巻く悪感情に蓋を、しようとしても。


 無駄だった。


 わたくしは何を言われようと、構わない。

 今までだって売女だとか、何とか、侮辱され続けてきた。

 けれど、テリアに恥辱を向けられるのだけは、許せなかった。


 ──気が付くと、わたくしはテリアの腕を掴んで応接間を飛び出していた。







 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐






 交渉は失敗した。


 あたしはアナスタシアちゃんに連れられながら、そう思った。

 煌びやかな部屋での会話にあたしは口を挟んでいない。

 ラインちゃんと初めて会った時みたいに、見渡す限り目がちかちかする部屋で殺気とは違う不快な気配に視線に晒される気分は最悪だ。

 まるで全身を舐めまわされるような感覚にはいつまで経っても慣れない。

 “オドラの邑”から人里に降りて初めて困惑したのは、あたしに注がれる視線の奇怪さだった。

 ちくちくと茨が肌を刺すような殺気でもなく、水晶を壊れないように抱き上げる慈愛でもない。

 そう、動物的な本能を除外した魔獣に見つめられているような感覚というべきか。

 ともかく、機敏なあたしの肌は不快感を拭えない気配をありありと感じ取っていた。


 それが、あの部屋の中ではより顕著だった。

 特にアナスタシアちゃんとはお喋りしていない方の雄。

 ずっとあたしの胸を見続けて、飽きないのかな。

 ホットミルクをちびちび飲んで気を晴らしていたけれど、それも限界に近しかった。

 正直、あの気持ちの悪い気配を浴び続けると気が狂ってしまいそうで、すぐにでも気配の許を断とうとしたかも。

 けど、あたしは必死に堪えてた。

 お話し合いは邪魔しちゃダメだって知ってるから。

 あのおじさんを仲間にしないと、機械産業──ロムルスくんの言葉は時々聞きなれない──を自由にできないらしい。


 あたしはアナスタシアちゃんとロムルスくんのやってること、やろうとしていることを理解できていないと思う。

 二人はとても賢くて、遥かに遠い“未来”だって見透かしてるんじゃないかって思わされる力がある。

 だから、あたしは従うんだ。

 盲信じゃない。

 あたしはあたしの意思で二人に付き従う。

 それに…………アナスタシアちゃんには、成功させてほしいから。

 心の底から、本音で、彼女には笑ってほしいから。

 だから、あたしは何があってもアナスタシアちゃんを護って、手助けする。


 そう思ってんだけどなあ…………。


「アナスタシアちゃん、だいじょうぶ?」


 大丈夫な訳がないと、あたしには分かる。

 お屋敷を飛び出したアナスタシアちゃんは、そのままあたしの腕を引っ張って拠点へ戻ってきた。

 別行動中のロムルスくんとホロウちゃんはまだ戻っていないのか、閑散としたお屋敷でアナスタシアちゃんの息遣いは“龍人”でなくとも聞こえただろう。

 あの時、あたしが声をかけられたら、何か違ったのかな? でも、咄嗟に言葉は出てこなかった。

 どろどろと渦巻き、蜷局を巻く感情の坩堝に包まれた本心を、あたしでは見抜けなかったから。


「……ごめんね、アナスタシアちゃん。あたし何もできなかった」


「いいえ、テリア。貴女は何も悪くないのよ」


 じゃあ、一体何が悪かったのかな? アナスタシアちゃんは最後まで諦めずに言葉を尽くしていた。

 あの計画書だって、ロムルスくんと何度も話し合って一枚一枚丁寧に作っていた。

 あたしは知ってる。

 どれだけ、アナスタシアちゃんが頑張ったのか。

 でも、現実は思い通りにはならなくて。


「まだ、手は残っているはずよ。業腹だけれど、彼に頼ろうかしら」


 ふっと口角を緩めて微笑を浮かべるアナスタシアちゃんは、諦めてなどいなかった。

 その姿に、あたしは思わず呆気に取られてしまった。

 だって、さっきまで消沈していたのに。

 アナスタシアちゃんの呼吸は普段と変わらず、凛としたオーラは乱れることなく彼女を象徴している。

 日が落ちて暗闇に包まれる前に、アナスタシアちゃんは暖炉の火をつけた。

 爆ぜる光に照らされた横顔に、諦観の色は皆無。

 失敗はした。

 決裂して、破綻したはずだ。

 しかし、それでも。


 アナスタシアちゃんは決して折れない。


 あの不埒な領主と息子を懐柔するための作戦を、加速した思考をもって練り上げている。

 見誤っていた。

 あたしは、見くびっていたのだ。

 アナスタシア=メアリという女性を。

 散々、隣で見てきたはずなのに。

 人攫いに拉致された時だって、アナスタシアちゃんは一時たりとも屈さなかった。


 ロムルスくんが惚れ込む理由が、あたしにも分かった。


 アナスタシアちゃんは眩しすぎる。

 如何なる逆境であろうとも、彼女だけは膝を折らない。


 誰よりも交渉決裂に衝撃を受けているはずのアナスタシアちゃんが、諦めていないんだ。

 あたしが勝手に諦めてどうするんだ。

 同じ歩調でなくてもいい。

 遅くてもいいのだから。


 あたしは──彼女に並び立てるように一歩進んだ。

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