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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第二章【自由の象徴】──第二部【北の花園】
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25. 望まれぬ者の慟哭

 香りがいい。

 ティーカップに注がれた液体は毒々しい色とは裏腹に、甘い香りに滑らかな口どけと非常に甘露だった。

 茶葉がほしいのだが、うん。

 そんなふざけた要望を口にできる雰囲気ではないね。

 偉いぞ、ボク。場を弁えた。

 …………まあ、一口飲んで目を輝かせたボクを見たホロウが、馬鹿をしでかさないように睨んでくれるおかげだがね。


 さて、二日連続となる応接間ではボクとホロウが昨日と変わらない位置に座り、マルタ、オルメカが対面している。

 相違点としては、二人の隣にティナが所在なさげに小さくなっているところか。


 コロとかいう男はオルメカの到着と共に逃げるように帰っていった。

 余程、彼女を嫌っているのだろう、目を合わせることなく脱兎の如く走り去ったのだ。

 さあ、これで一件落着とはいかない。

 不機嫌そうな色を隠そうともしないオルメカはボクたちを応接間に読んだのだ。


「……事情はわかった。ロムルス、お前には借りができたみたいだ」


「不要な貸し借りはしない性分でね。ボクはボクのしたいように振舞った。ただ、それだけさ」


()()()()()()に救われちゃ世話ないな」


 あの場では、誰一人としてティナへ向かう刃を止められる者はいなかった。

 マルタは言うに及ばず、ホロウだって第二刃を警戒して動けなかった。

 ああ、見過ごしてもよかった。

 実利がないと、厄介事は御免だと見て見ぬふりだってできたさ。

 けれど、それではボクはアナスタシアの隣に立てはしない。


 ボクの自己満足さ。

 コロとオルメカの因縁も、ティナの本心も、本来ボクの介入すべき領域ではない。

 それに無理くりにでも干渉したのだから、自分勝手に過ぎるよね。

 謝礼など不要だ。


「マルタも、あたしの不在によく対応してくれたな」


「シスター、わたしはすべきことをしたまでです。あなたも……」


「ああ、そのつもりだ」


 すっと、オルメカの雰囲気と色が変化した。

 成程な。

 あのマルタでさえ深入りはしない、オルメカの態度。

 資金提供援助者(スポンサー)では立ち入れない領域にオルメカは当然存在しているからだ。


「ティナ」


「……っ、」


 びくりと、彼女は俯いたまま小さな肩を震わせた。

 オルメカの声色は恐ろしく低く、顔を合わせずとも怒っているのだと分かる。

 ティナを同席させた理由にも合点がいく。


「お前、自分の行動に責任が取れるのか?」


「………………、」


「あいつの言葉にカッとなったのは分かる。仕方ないよな、お前にも思うところはあるんだから」


「はい…………」


 まるで不貞腐れたように黙りこくるティナ。

 オルメカは彼女に視線を向けたまま言葉を紡ぐ。

 まるで母親のように、いいや、母親なのだ。

 オルメカは修道女(シスター)としては落伍者に近しいのだろう。

 けれど、彼女は己に課された役割を全うする気はない。

 なぜなら、オルメカはシスターである前に、第二孤児院の母親なのだから。


「あの時、ロムルスが止めてなきゃお前は死んでいた。当たり所がよかろうと悪かろうとな」


「……………………はい」


 厳しくも突き放したように感じない所以は、彼女に“愛”がある故だろう。

 ……ボクに、“愛”は分からない。

 感情よりも、ずっと、ずっと理解できない代物だ。

 しかし、()()()のだ。

 ただそこに“愛”があるのだと、知覚できる。

 …………ならば、ボクにも分かって然るべきだとは思うけれど。

 閑話休題(それは一度置いといて)


 絞りだしたようなティナの応答には無機質さが滲んでいる。

 冷静になって初めて生命の危機に瀕していた実感に打ちひしがれているのか、それとも年相応の反抗心か。

 どちらにせよ、俯いたままの彼女からは得られる情報は少ない。

 オルメカとティナが口を閉ざしてしまうと、空間を支配するのは沈黙だ。


「なあ、ティナ。あたしは何もお前の行動を咎めてる訳じゃないんだ」


「……ぇ?」


「悪いのはあいつだ。お前じゃない。いきなり来て、言いたいことだけ吐き捨てるあいつが許せなかったんだろう?」


「はい…………それが、嫌で」


「気持ちはわかる。エムスたちはまだ物心ついていなかったから仕方ないが、お前は覚えるもんな」


 そう言ったオルメカは立ち上がってポンとティナの頭に手を置く。

 そして膝を折り、彼女と視線を合わせるように屈んだ。

 オルメカの行動を視界の隅で捉えていたのだろう、目尻に涙を堪えたティナは小さく震えていた。


運命識士(リードスペクター)】ならば一連の因縁や事情について仔細まで認識できる。

 だが、それはあまりにも無粋だ。

 誰にだって踏み込まれたくのない領域は存在するのだから。


「怖かったな、ティナ」


 腕を伸ばして小さく震える身体を抱きしめる。

 声を押し殺して嗚咽を漏らすティナの様子は、まるで母親に寄りかかる少女を彷彿とさせた。


 ふと、()()()を思い出した。

 ボクの記憶では姉は、片時たりとも泣いた姿を、その素振りだって見たことはなかった。

 家族や肉親のみならず、親戚一同余すことなく嫌悪を向けられていたあの人が辛くないわけがない。

 疎外感も、寂寞感も、やるせない不安だって、あったろう。

 けれど、彼女は弱さを見せなかった。

 それはひとえに。


 それは、認めなくはないけれど。


 認知するには身を引き裂くような痛みが伴うけれど。


 ボクはあの人の、姉の、()()()()()()にはなれなかったのだ。


「なあ、ティナ。お前の気持ちは分かる。蓋をしろなんて言いたくない。けどな──」


「……ッ、じゃあ、オルメカさんは……! 黙ってろって、言うんですかッ!」


 悲痛な叫びが、木霊した。

 髪を振り乱して糾弾するティナ。

 彼女の慟哭を受け止めるオルメカの表情から、何を思い考えているかは計り知れない。

 変わらない聖母が如き微笑が、あるだけだ。


「違う。お前たちは小娘に守られてた。だから、マルタも憂いなく相対できた」


「だからってッ! 黙ってられないですッ!」


「ああ、その想いは正しい。じゃあ、聞くがティナ。お前には自分を守れる力があるのか?」


 ──マルタにはある。だから、意見を通せたのだと。


 オルメカは覆しようもない残酷な事実を、ありのまま突き付けた。

 コロは人一人を殺害するのに躊躇はなく、マルタはそんな男を相手にして自衛するだけの力を保有している。

 だけれど、ティナにはないと。

 煙に巻いて、口八丁で丸め込むことは簡単だ。

 ティナの自尊心を守る代わりに、彼女の安全を放棄させるが。

 オルメカは優しく、厳しい。

 ティナにとって、第二孤児院の子どもたちにとって、彼女は真正の母親なのだ。


「………………ごめんなさい。頭に、血が上って」


「違う、違うんだ、ティナ」


「……? だって、オルメカさんは…………」


「さっきも言っただろう? あたしはティナの行動を責めてる訳じゃないって」


「じゃあ、何を…………?」


 ティナの疑問は正当だろう。

 一体何に対してオルメカは言及しているのか。

 それは、まるで間違い探しのような暗中模索の問答に等しい。

 かく言うボクだって意図を計り損ねている。

 ちらと隣を垣間見るとホロウもまた「何言ってるんだ? この年増は」と言いたげな様子だ…………穿ち過ぎたかな?

 けれども、マルタは思い至ったようで起こり得る状況に理解が及んでいる。


「お前は声を上げた。その結果、お前は殺されかけた。お前は、()()命を救ってもらったんだ?」


「……ッ、」


「ティナ。おれは、命を救ってもらってだんまり決め込むような奴に、育てた覚えはねえぞ」


「………………いや、です」


 語気を強めたオルメカに、まるで反発するようにティナは拒絶を表した。

 そして、ボクを一瞥してから荒い歩調のままに応接間から飛び出して行った。


 彼女が退出すると同時に部屋全体の空気が弛緩したように感じる。

 長い溜息を吐いてオルメカがどかりと座る様子からは途方もない徒労の色が見える。


「悪いな、ロムルス。見苦しいものを見せたな」


「いや、構わないよ。必要なことだったのだろう? 手を貸す程度、吝かでもないさ」


「単純な善意なのか、それとも必要に迫られた合理からか。どちらにしても、あたしには渡りに船か」


「それでいい。それで、彼女はいいのかい?」


「ああも面と向かって不満を口にする子じゃないんだけど…………」


「なに、そういう年頃だ。扱いづらいったらありゃしない」


 ごそごそと懐から新しい葉巻を取り出したオルメカは、小ぶりなナイフを取り出して滑らかな動作で火をつける。

 この時ばかりはマルタにも静止する余裕がないのか、憂慮を張り付けたまま固まっている。


「ところで、あの男と君たちはどういう関係なのかな?」


「………………コロはここの孤児だった」


「……っ、シスター…………!」


「いいさ。どうせ、こいつは勘付いてるよ」


 ご名答。

運命識士(リードスペクター)】を使わずともある程度の関係性は窺い知れる。

 だが、当事者から直接聞かない限りはただの邪推だ。


「昔から手の付けられないガキで、誰彼構わず当たり散らして多分に嫌われていたよ」


「………………ここは十八まで居れるけど、コロは十五で飛び出して行っちゃたの」


「あたしも口うるさく叱って、それでも特に自分より小さな相手に対しては苛烈だった」


「だけど、いつもティナちゃんが率先してコロを止めようとして…………よく怪我してた」


 無感情なオルメカと悲痛に表情を歪めるマルタ。

 両者の様相は異なれど、コロという男に対しては通り一辺倒の険悪さでは収まらない。

 先のティナの怒気より、かつての関係性にも察しが付く。


「嗜虐心を満たすだけの暴力に、一端の体格ときたら一人前だと自称するのも頷ける。奔走してからは裏稼業に傾倒したのだろうね」


「…………なあ、お前本当に話す必要があったか?」


「あるさ。君たちだって、整理は付けたいだろう」


 余計なお世話だと言わんばかりに鼻を鳴らすオルメカ。

 マルタに至っては細剣(レイピア)の柄に手をかけている…………少し短気すぎやしないかい?

 とはいえ、早々ふざけてもいられない。


 二人はコロの来訪に気を揉んでいるようだが、ボクにはまた別の懸念があった。

 あの男は目的を土地の徴収、それも領主の勅令だと語った。

 ことの真偽は定かではないが、もし真実であればリヴァチェスター領における絶対の判断を下されたこととなる。

 如何に帝国が中央集権国家とはいえ、西側領土にあっては領主の支配権が根強い。


 さて、領主といえばだ。

 丁度、アナスタシアとテリアが会合を行っている時間帯。

 如何なる理由があって孤児院の土地を徴収するつもりなのかは知らない。

 やむにやまれぬ事情があるのかもしれない。

 しかして、使者にはそぐわない人物をよこし、あまつさえ正式な書状すら用意していないときた。

 まるで業突張りの粗忽者のように思えるのは錯覚ではあるまい。

 なに、あくまでも個人の感想や意見に過ぎない。

 利権の前では塵芥に等しい感情論だ。


 ボクはリヴァチェスター領領主が気に食わない。


「シスター・オルメカ、そろそろ」


「ああ、ティナを探しに行くか…………なんて声をかけていいものか、まだ分からんが」


「それには及ばないよ、オルメカ」


「……? 昼間とはいえ女一人だぞ? あの分じゃ孤児院飛び出してるぞ」


 怪訝な表情で「こいつ正気か?」と言わんばかりに眉をひそめるオルメカ。

 マルタもあからさまとはいかないが、疑念を挟みたいとひしひしと伝わってくる。


 ただし、二人の懸念は杞憂に終わる。


「まあ、正確には女二人だけどね」


「……………………ロムルスくん。ホロウちゃんはどこに行ったのかな?」


「さてね。けれど、彼女は追いかけて行ったよ。何か、思うところがあるのかもしれないね」


 衝撃に固まった二人の表情はお手本のように綺麗なものだった。

 ボクにだって音もなく気配すら遮断して消えるホロウを捕捉するのは骨が折れた。

楽園(エデン)鍛錬(トレーニング)を経たホロウの暗殺者としての技量は磨きがかかり、正しく影の如く姿を眩ますのだ。


 とはいえ、少なからず意外な感は否めない。


 あのホロウが何をもってティナを追ったのか。

 けれど、信じよう。

 だけど、任せよう。


 ホロウならば問題ないと。

 差し当たってはそわそわしだした保護者二名に言葉を尽くすところから始めよう。







 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐






 気がつけば吾は後を追っていた。

 強く抗いがたい衝撃に突き動かされて、小さな背中を気配を殺して追いかけている。

 第二孤児院を飛び出したティナはそのまま工業区の路地を縦横無尽に駆け巡り、槌や蒸気の吹き上げる音の聞こえない郊外へと走り抜いた。

 存外、体力があるのだなと関心したのも束の間。

 歩を緩めたティナが矢庭に立ち止まった。


 視線を巡らせると、何の変哲もない平地だった。

 降り積もった雪と断崖絶壁の崖以外人気のない中で、ぽつりと木製のベンチだけが点在している。

 ひやりと頬を撫でる北風から、凍り付いた“クァラクの天海”が近いのだと分かる。

 彼女はそのままゆっくりと漣一つ立てない“クァラクの天海”を眺めながら、雪を払ってベンチへと座った。

 その背中は吾と変わらない上背であれど、いやに小さく見せる。

 そのまま消え失せてしまいそうに思える程には、意気消沈としている。


「………………オルメカさんのばか」


 悪態を吐くも風に攫われて十分な言葉を成せずに、白い息と共に霧中に溶けていった。

 その後もぽつりぽつりと独白を繰り返しているようだが、吹き荒ぶ北風と無闇に接近できないためにまともな音一つ拾えない。


 なんと声を掛けたらいいものか…………考えもなしに飛び出してきた弊害がここで現れるとは。

 そもそも、どうして吾は彼女を追いかけたのか。

 放っておけばいい。

 なぜなら、吾とは関係がないから。

 マルタが、痴女(オルメカ)が、エムスが、孤児院のシスターが、あのいけ好かない子どもたちが。

 吾でなくともいい。

 だのに、吾はなりふり構わず追い縋った。


 思わず立ち上がった時の()()()の表情ときたら。

 まるで吾の本心を見透かしたように微笑んだのだ。

 貴様に吾の何がわかるんだと叫びたい程には腹がたった。


「ありがとうなんて…………だって、わたしは頼んでないし」


 今度の悪罵はよく聞こえた。

 そうだ、どうして吾が飛び出したのか。

 どうして、()()()の顔を思い出したのか。


「頼んでなくとも、貴様の命は助かっただろう?」


「ぴゃんっ!?」


 可愛らしい悲鳴と共に吾へと振り向くティナ。

 目尻に堪えた涙と赤く腫れた目元。

 彼女なりに苦悩して、それでも吞み込めなかったのだろう。

 声をかけたはいいが、さてどう切り出すべきかと思考が硬直してしまう。


「ホロウさん、ですよね?」


「ああ。吾はホロウだ」


「な、なんでここに……?」


「貴様を追いかけたからに決まっている」


「え、えぇ…………だって、足音はなかったのに……」


「貴様、吾を誰だと心得ているんだ。足音、気配一つ消せずして暗殺者の資格はない」


「あん…………あんさつしゃっ!?」


「……? ああ。言ってなかったか。まあいい。そうだ、吾は殺しを生業として…………いた。今は違うが」


 想定とは大きくかけ離れてしまったが、何とか会話の端緒を得ることに成功した。

 ぱくぱくと酸素を貪るように身を固めているティナには悪いが、吾としては一言目さえ交わせたらいい。

 後は、きっとどうとにでもなる。


「吾のことはいい。貴様に聞きたいことがある」


「……っ、何ですか。わたしの態度が気に入らなかったんですか?」


 挑発するように言葉を返すティナ。

 吾が暗殺者であると信じているにもかかわらず、恐怖を押し殺して向き合っている。

 感服する程の胆力だ。

 吾だって、無表情の自分の顔が万人に受け入れられるとは思っていない。

 だが、彼女は持ち前の反骨精神だけで吾を敵に回すつもりだ。


 ならば、()()は要らないな。


「違う。あいつに礼を言いたくない気持ちは共感できるからな」


「へ……? じ、じゃあ、ホロウさんは何を…………?」


 怪訝そうに眉をひそめるティナは年相応の仕草で疑問を身体で現している。

 今から行う吾の躾は、荒療治なのだろう。

 真っ当な教育とはお世辞にも言えない代物だ。

 けれど、吾にしかできない。

 彼女が吾を暗殺者と、人殺しと信じてくれたのは僥倖だ。


「そうだ、な──」


 ふっと、吾は息を()()

 同時に吾の全身から溢れる“霊力”や生命力といった全てのオーラを断絶する。


 “空絶(くうぜつ)”と、吾はそう名付けた。

 スラムで金品を簒奪するためには、一も二もなく自分という存在を()()()()()へ追いやる必要がある。

 そのために、吾は吾から迸る全てのエネルギーを人為的に消す。

不可視(インヴィジブル)透影(・タルタロス)】を無意識的に応用しているのだと、【楽園(エデン)】で初めて気が付いたのだが。

 …………一時的、限定的に吾は自死をしている感覚だな。

 ロムルスやテリアが手放しで称賛してくれる吾の気配遮断は、先の手順で行っているのだ。


「ホ、ホロウさん…………?」


「動くなよ、下手に藻搔くとその刃は躊躇いなく貴様の命を刈り取るぞ」


 目と鼻の先には怯え切ったティナの顔がある。

 互いの吐息が触れ合う距離では、彼女が如何に吾へと恐怖を感じているのか手に取るようにわかる。

 今までも、先のように気配を断絶して標的(ターゲット)に覆いかぶさり喉元を搔っ捌いてきた。

楽園(エデン)】のおかげでより一層速度も、精度も向上したと実感する…………いやに悔しいけど。

【権能】から抜刀したダガーはティナの細い首に沿って今にも生き血を啜らんと、吾の決断を今か今かと心待ちにしている。


「ぁ、……っ、どう、? な、っんで…………?」


「静かに、口を閉じろ」


「ひ……っ!」


 悲鳴を押し殺した姿を間近で見ると些か心が痛むな。

 普段通りに、支配権を吾が握っていると実感させるために、左手で相手の口を覆う。

 けれど、どうしてだろう。

 相手の恐怖が伝わる瞬間、命を吾が握っている感覚、柔肌を裂くようにそっと刃を突き立てる動作、重力に従って血の滴る様子──不思議と、落ち着く。

 人生の大半を殺しに費やしてきたからか、生殺与奪の権利を掌握している状態は居心地がいい。


「娘、これが()だ。貴様の無謀が生むはずだった結果だ。わかるか? わかるなら頷け」


「……っ、!」


「貴様が奴を嫌おうが構わない。あいつは人に好かれるような奴じゃない。だが、奴は貴様の命を、()から遠ざけた。結果は違わない」


 吾だって気に入らなかったよ。

『悪人』然としていたロムルスは人を喰ったように嗤い、まるで自分の掌で万物を動かしているように気取っていた。

 彼は吾やアナスタシア、テリアを仲間として、やっと心を開いてくれたが…………それでも、初対面の相手には()()()()()()()()()()を隠さない。

 わかるさ、ティナ。

 あんな得体の知れない奴に感謝を告げる、それは屈辱だろう。

 痴女(オルメカ)のようにバッサリと感情と合理を切り離せるのならば、まだしも。

 貴様はまだ、子どもだ。


 だから、こうやって教えるしかできない吾を許してくれ。


「貴様が()を享受するのであれば、それでいい。吾が貴様に()を与えてやろう」


「~~~~っ!?」


 もう一息、吾は刃を押し当てる。

 既に肌は切れているために、ぷつりぷつりと繊維を切断される痛みを受けることとなる。

 くぐもった悲鳴は振動する左手を通じて、がくがくと震える身体の恐怖は肉体越しに、吾へと伝わる。


「貴様は子どもだ。だが、貴様の行動一つでもたらされるであろう結果まで目を背けていい理由にはならない。貴様は、独りじゃ…………ないだろう?」


 ぴたりと、震えが止まった。

 何が彼女の胸を叩いたのか、吾には分からない。

 吾にだって、明確な理由をもって彼女に言葉をかけたのか分かっていないのだから。


 けれど、()()だけは伝えておかねばならない。

 彼女を救った者と、彼女を想う者の存在を。

 孤軍奮闘、四面楚歌ではないとティナは知るべきだから。

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