29. エピローグ
降り積もる雪をザクザクと踏みしめて倒れていた大木を椅子の代わりに腰掛ける。
爆ぜる焚火を眺めながら、ふっと息を吐くと空気に溶ける様子が視認できた。
周囲を見渡しても景色は大して変わらない。
アデラ・ジェーン山脈からリヴァチェスター領の雪原に踏み入れただけだ。
強いて差異を述べるのであれば、出くわす獣の肉がアデラのそれと比べ物にならない程に肉厚で、広葉樹林から針葉樹林の樹海に変化した程度。
ああ、だが、一面真っ白の雪景色だけはアデラと最も異なる点だろう。
やや蒸し暑かったアデラから防寒着が必須である雪原では消費する体力や気力も大きく違う。
その代わりに、己にしてみればいい気分転換にはなる。
二週間弱に渡ってアデラの山中を駆け巡って、ようやく、やっとの思いでリヴァチェスター領まで辿り着いたのだから。
昨日までの話をしよう。
夜明けと共に己はホロウとラクシュミー、オスマンとビザンツたちと奇襲をかける手筈だった。
少なくともラクシュミーの友人が内部で奴隷解放及びそれに付随する作戦を実行しているため、介入は最小限で、且つ効果的な一手にする必要があったのだ。
だが、現実はどうにも己の想定を遥かに上回る速度で展開してようで、既に彼女の友人主導で脱出が完了していた。
それも…………猛スピードで正門から堂々の脱走という形で。
しかし、ここで問題が生じた。
【運命識士】が馬車にアナスタシアとテリアの二人は乗っていないと掲示してきたのだ。
本来ならば、彼女の友人と共に脱出しているはずなのに、だ。
不審に思ったさ、勿論。
またも誤作動を起こしたのではないか? と疑念にも感じた。
だが、待ったをかけたのはホロウだった。
「あの馬車にはいない。テリアとアナスタシアはいない」
断言口調で、間違いなど犯そうはずもないと堂々とした口振りだった。
己はホロウを信じることにした。
「まあ、結果としてはホロウと【権能】は正しかった訳だけれど」
あの状況はあまりにも危機的だった。
到着があと数分でも遅ければ二人の命は加速度的に危険に晒されていたであろう。
仔細については疑問ばかりであるし、疑念を潰すために【権能】を閲覧してもよかった。
だが、結局己は“未来”を視なかった。
引き換えに、【楽園】を用いた。
あの外壁が邪魔で、迅速な行動が必要な場面にあの重く閉ざされた正門を開く心理的余裕もなかったのだ。
【楽園の道標】と己はそう名付けた。
二つの【楽園】を展開して光の道で繋ぐ。
そして、一方ともう一方を簡易的に運搬できる仕様だ。
あの時は偶然にも両者の狭間に着弾し、流れに身を任せて戦闘へと移行できたが…………次運用する時は転移先の状況も頭に入れておかなければならないな。
転移先が不明瞭なままで移動して岩盤などに突っ込んでしまっては笑いものだ。
「それにしても、余程激動だったのだろうね。アナスタシアだけではなく、テリアも眠ったままだなんて」
百を超える敵陣であろうとも、己たちはかすり傷一つ負うことなく勝利を手にできた。
それも偏に、“龍気”をまるで生まれた時から扱ってきたように自然と使いこなしたホロウと、縦横無尽に絶妙なコンビネーションで翻弄しながら持ち前の牙や爪で死体の山を築いたオスマンとビザンツのおかげだ。
【権能】を使用して影が走るように姿を見せることなくダガーを振るって颯爽と戦場を駆けていたホロウの動きは、【楽園】で投影したどの暗殺者よりも洗礼された動作だった。
惚れ惚れする一挙手一投足からは学べる点が多いけれど……己ではどう足掻いても彼女の足元にも及ばないのだなと思わされた。
勿論、己だって呆けていた訳ではない。
仕事はした。
【楽園】鍛錬で一対多の戦況には慣れていたつもりだった。
だが、いざ現実にしてみればシミュレーション通りにはいかない。
もっと効率的で、もっと破壊的な一手があったはずなのに有効打を打てずに好機を逃してしまった。
まあ、次への課題だけど……できれば血みどろの戦闘はこれっきりにしたいものだ。
どこまでいっても、所詮、己は温室育ちの高校生に違いはないのだから。
驚いたのは、向かってくる敵勢を一人残らず潰した後だった。
まるで安心しきったように、それも示し合わせたように、アナスタシアとテリアの二人は睡魔に襲われたのだ。
あのまま駐在するわけにもいかないかった己たちは、略奪された馬車と物資──後者に関しては迷惑料だとして防寒着を始めとしたあらゆる物を積めるだけ分捕った──を確保して早々と立ち去った。
行先ははっきりと決まってはいなかったが、一先ずは人里に降りて整理する必要があると決まり、リヴァチェスター領の首都目指して雪原を進んだのだ。
そして、今に至る。
半日以上眠っている二人に関しては幾度か心配で様子を伺ったが、特に発熱や怪我などはない模様だった。
「…………怒涛の数日だった。学ぶべきことも多かった……まだまだだね」
「──随分と殊勝な態度ですね。同一人物とは思えなくらいに」
ははっと、自然と笑みが漏れてしまった。
漆黒の外套を羽織り、漆黒のドレスをそよ風に揺らしてキリリとした眼光を携えて、数日前と何も変わらないアナスタシアが、そこにいた。
いつからいたのか、いつ目を覚ましたのか、浮かんでは消える疑問を押し込んで。
己の腰掛ける倒木の、隣へと彼女を誘った。
てっきり拒絶されるものかと思っていたが、アナスタシアは躊躇いもなく腰を下ろした。
……正直に、その変化に面食らった。
何を語るべきか、第一声をどんな言葉にしようか、ぐるぐると纏まることのない思考が酷く煩わしい。
アナスタシアもまた焚火へと視線を投げたっきり口を開く様子はない。
…………いつまで二人して沈黙に身を任せていたか分からない。
だが、ふとした瞬間に、きつく縫い縛られていた口が軽くなって言葉を紡ぎだせた。
「アナスタシア、すまない」
まったく、救いようがない。
ようやく絞り出せた言葉がありふれた謝罪だなんて。
パチパチと爆ぜる火種に混じって、すぐ隣からため息が聞こえた気がした。
気がしただけだ。
本当にアナスタシアが呆れてため息しか付けないのであれば、既にボロ雑巾のような己のメンタルは持ちこたえられないだろう。
「……貴方の謝罪は受け取らない」
「………………そうか」
予想はできていた。
己は彼女の信頼を無下にして秘密主義を貫いた。
その結果が、人攫いに拉致された顛末なのだから、失望の一つだってするだろう。
「勘違いしないでほしいのだけれど、わたくしは何も貴方を責めている訳ではないの」
……? とても婉曲で、把握の難しい訂正だ。
己の疑問が表情に出ていたのだろう、まるで覚悟を決めるように息を吸ったアナスタシアは、居住まいを正して再び口を開いた。
「今回の経験で、わたくしは力不足を痛感したわ。単純な武力だけじゃなくて、見通しの甘さも、一歩を踏み出せない弱さも全部」
「待ってくれ、アナスタシア。ボクはそういうことがいいたいんじゃない」
否定しなければならないと思った。
今回の落ち度は全てボクにある。
アナスタシアが自分を責めることは、ないはずだ。
けれども、彼女は先の発言を撤回するどころか、より鋭利になった視線を己へと向ける。
「いいえ。貴方にだって、わたくしは踏み込めなかった…………貴方が何をしているのか、わかっていながら」
「は……?」
ああ、もう。
口惜しい。
アナスタシアの言わんとしている所に、予測もつけられない己が鬱陶しい。
つまりは、彼女は己の【楽園】について既知であったとでもいうのか。
「“オドラの邑”で見せた別人のような力。詳細は計り知れないけれど、きっと毎晩一人で頑張っていたのだとは、推測できたわ」
…………流石はアナスタシアだ。
極小の点と点を繋げて、結論を導き出した。
彼女に言うべき言葉も、言わなければならない言葉も。
釈明を一つでもするべきだと思っていても、動揺してしまった己は勢い逸して言葉にできない。
己自身が狼狽するなんて機能が残っていることに驚いてしまっている。
「わたくしは貴方に大切にされていると分かっていながら、それでも貴方を信じ切れなかった。だから…………」
あんなことになった。
皆まで口にしなくとも己には理解できた。
アナスタシアもまた己と同じなのだ。
それを、彼女は自身の責任だとして抱え込んでしまっている。
なんて強い人なのだろうか。
人攫いに拉致されて、今までに経験したことのない不安を感じただろうに。
だからといって、『悪人』を責めるのではなく客観的に思考できる。
…………己は、そんな彼女の信頼を裏切ったのだ。
「君の推測通りだ。【運命識士】の第二段階【楽園】を使った訓練さ」
言葉にしてみると噓のようにスラスラと紡ぐことができた。
【楽園】の効力から、幾度となく復活して尋常ならざる経験を積んで己を強化していたことまで。
そして、ホロウに語った己の身の上までも。
アデラの山中で目を覚ましてから継続してきた道程は改めて表象させた始めて滑稽に思えた。
何も口を噤む必要などなかったことに。
何も彼女の得も知らない所で行う必要がなかったことに。
そうだ、そうだったのか。
ようやく、理解できた。
己は恐かったのだ。
初めて【権能】を二人の前で発現させた際に向けられた視線が、感情の濁流が。
もし、死を超越して自分自身を殺し続けるような真似をしてまでも、力を欲しているのだと思われてしまえば。
きっと、未知を前にしたような、恐怖に近しい感情を己へとぶつけることだろうと、自分勝手に解釈して恐れていた。
アナスタシアも、ホロウだって、その程度で己を嫌厭するような人ではないと分かっていたのに。
「まったく、とことんまでボクは愚かだ。打ち明けるべきだった。一から十まで」
「…………わたくしは、別に貴方の悔悟を聞きたい訳ではないのだけれど」
「そうだね。けれど、大目に見てほしい。想像の千倍近く…………言葉にするには勇気がいるんだ」
「貴方らしいわ。改めて帰ってきたと思えるものね」
ふふっと静かに、それでいて穏やかに笑みを浮かべる姿は、やはり絵になる優美が内包されていた。
黒一色の空に一面の雪化粧を背景にして、アナスタシアの周囲だけが祝福されたように輝いている。
陶磁器のような滑らかな肌に、触れれば手折れてしまいそうな儚さと万物を虜にしてしまう艶やかさを纏って、それでも他の追随を許さない圧倒的な信念がある。
自然と、肩の力が抜けていた。
「キミが無事でよかった。それと……、何て言ったらいいんだろうか。畏まって言うとおかしいと思うけれど、もう一度問いたい──ボクに、キミの理想を叶える手助けをさせてくれないだろうか」
己の言葉が夜の戸張の降りた空間に溶ける。
何時ぞやの誓いのような、自信に満ち溢れた己ではない。
一度は指針を失って、けれども一人の少女に叱咤されて叩き直してもらった。
後悔をして、行き場のない私怨を抱いて、己に心底幻滅した。
それでも、立ち止まる訳にはいかなかった。
己の願いはたった一つに収束される。
これまでも、これからも。
アナスタシアの声を聞いて、言葉を交わして、その躍動を記憶に刻みたいと。
❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐
思いの丈を口に出してみた。
軽々しく聞こえるが、わたくしにとって──彼の言葉を借りるではないが──相当の勇気が必要だった。
ホロウに捜索を頼んで、みすみす危険を冒す決断もできずにその身を状況に流していたあの夜から抱いていた幾重にも絡み合う胸の内を曝け出すには。
それにしても、見間違える程に態度が変化している。
最後に見た時よりも丸くなったように感じる…………けれども、違和感には感じられない。
人間味が増したというべきだろうか。
無感情に、鈍感に、振舞おうとしていた彼よりも好感が持てる。
きっと、ホロウが変えてくれたのだろう。
記憶にある彼は、知り合って数日の部外者の影響を受けるような人物でもない。
あたふたと狼狽する様子はとても新鮮で、彼の言葉の真摯さにはわたくしが動揺してしまう程に。
謙虚になったというべきか。
以前までの彼ならば、わたくしの意見を聞いていると姿勢ばかりは立派で、それでいて聞き入れないような強情さがあった。
けれど、眼前で強張った微笑を浮かべている彼は、誰よりも真剣に言葉を選んでいるように見える。
正直に心中を吐露してしまえば、皆に黙って一人だけ地獄を経験したことに酷い憤りを感じているのだ。
わたくしは別に、彼の秘密主義に異を唱えている訳ではない。
究極の所、彼はわたくしたちのことを想って【権能】を秘匿していたのだろう。
ああ、だとしても…………どうして、一人で背負おうなどと決めてしまったのだろうか。
もし、話してくれたら。
わたくしは、決してその道を赦しはしなかった。
とはいえ、彼はきっと猛省している。
今まで頑なに話そうとしなかった彼の人生まで詳らかにしたのだから。
…………まあ、辺境も辺境、そんな田舎が存在するくだりは信じられないが。
それでも、もう秘密主義は撤回したことだろう。
だから、もうわたくしはそこについて言及はしない。
彼を今度こそ、信じよう。
わたくしの懸念は、もう皆無だ。
けれど──
「……何があっても黙っていなくならない。これだけは、誓って」
改まって問う必要すらない。
既にわたくしは、彼と、ホロウと、テリアと。
四人で他愛のない話に興じたり、如何なる困難に遭っても最後には笑い合えるような…………そんな、無二の仲間のように思っている。
誰一人たりとも欠けるなど有り得ない。
だが、あの問いは彼なりのケジメなのだろう。
だから、わたくしは当然のことだとして返答しよう。
その代わりといっては何だけれど、わたくしはもう…………バラバラになってしまうことに、耐えられない。
虚を突かれたような彼はゆっくりとわたくしの言葉を咀嚼して、最後には今までの人生で見たことのない程に透き通った笑みで頷いた。
賢明な彼のことだ。
わたくしの言葉の裏を執拗に演算したのだろう。
わたくしは、此度の騒動で多くを学んだ。
彼に語った通り、実力が足りていなかった。
これでは、ハギンズに裏切られなくとも、きっとどこかで挫折していた。
そして…………その時はわたくしは立ち直ることができないだろう。
何故って? たらればの話、空想の絵空事ではあるけれど、わたくしは一人だから。
驚く程純粋で年不相応の貫禄をもった少女も、見かけよりもずっと堅物な少女も、わたくしを心から思ってくれる男も、そこにはいないだろうから。
…………いいや、彼ではない。
わたくしのいない間に、ホロウとの間に何があったか知らないけれど。
やはり、もっともっと、好感のもてる人間になった。
──ボクはオリバー=ロムルス。“声なき者”を開放する、“自由の象徴”さ。
十中八九、本名ではないだろう。
商人としてではなく、彼を見続けてきた者としての直感だ。
だが、オドアケルや、『悪人』などとは比べ物にならないくらいに……彼を表していた。
「お願いするわ、オリバー=ロムルスさん。貴方にわたくしの全てを委ねましょう」
偽らざる本心だ。
わたくしはロムルスに全てをかける。
今の彼にはそう思わせる迫力がある。
絶望的な孤軍奮闘の、四面楚歌の戦場にあって彼がホロウと伴って駆けつけてくれた時からだろう。
わたくしは彼を………………いいや、やめておこう。
これは表象してはいけない、少なくとも今は。
願わくば──全てが、何もかもが理想通りになった時に、伝えられることを願って
本話をもって、第一章が終幕致しました。
『悪人』、基いロムルスがかけがえのない仲間と出会い、互いに成長を促し合って理想を共に目指す。
アナスタシアとホロウは、ロムルスとの出会いで見過ごしていた何かに気が付く。
テリアは、まだ知り合って日が浅いために、ロムルスに猜疑を抱いている…………やもしれません。
四人は四人のまま、されども一回りも二回りも大きく成長してーーその結末は二章以降のお楽しみです。
ここまでご愛読してくださいました、読者の皆様。
どうぞ、二章以降もお楽しみください。




