25. 商人と龍人と星詠
ガタンッ! と一際大きく音を立てた車輪の衝撃に微睡の彼方にいた意識が急激に引き戻される。
視線を巡らせると荷台で眠っていた少女たちもまた何事かと狼狽しているようだ。
閉め切られている荷台からでは外界の情景を認識することはできず、またも魔法少女ダークプリズムのような闖入者の襲撃でも起きたのかと邪推してしまう。
「テリア……外の状況は分かるかしら?」
「ぅん~? ぇっとね~、お城みたいなとこ~」
「…………どうやら、到着したようですね。彼らの本拠地に」
眠気眼をこすりながら答えるテリアは今尚身体中が悲鳴をあげるあの悪路であっても熟睡できたというのか?
いや、違う。疑問に思うべきは“龍人”の身体機能ではない。
アリーが耳打ちする通りでは、いつの間にかリヴァチェスター領の隠れ家に到着しているようだ。
北部に位置するリヴァチェスター領では剣山を思わせる杭のような木々が鬱蒼と続く土地が七割だと聞く。
人々の生活は専らアデラ・ジェーン山脈とは隣接していない西側の土地だ。
故に、温暖な風が吹き過ごしやすい帝国東領とは異なり、防寒さえしてしまえば身を隠す空間に恵まれたロンディーンの山岳は──俗に“見放された無法地帯”と呼ばれているのだ。
まあ、一言で表すなら獣と野盗と人攫いがうじゃうじゃする寒いだけの森だ。
アリーから行き先を聞いた時は納得半分、恐怖半分だった。
なにせ、アナスタシアは帝国の西側領土に踏み入れた回数などたかが知れている上に、商会代表権限を利用して護衛をもとりなしていた。
しかし、今となっては、帝国西側領土の中でも最も危険と言われる森に丸腰で、しかも奴隷という商品で輸送されてきたのだ。
心細くないと、不安などないと気丈に振る舞うには……現実はあまりにも酷過ぎる。
「おい、着いたぞ。とっとと出ろ」
「……っ、寒い…………!」
思わず口を吐いて零してしまうほど、外の冷気は信じ難いほどであった。
人攫いの男が無造作に開けた扉から忍び込む寒冷地の洗礼は、漆黒のドレスとアリーにもらった毛皮のマフラーのみであるアナスタシアの身体を蝕む。
早くも指先の感覚が消え、無意識に震える身体は既に限界を迎えようとしていた。
「…………アナスタシアさん、これを」
「ぁ、ありが──」
極力目立たないように荷台から降りる動作に紛れて、アリーが羽織っていた外套を渡してくれる。
それではアリーの体温が下がってしまうのではないかと思うも、既に彼女は脱いでしまっている。
このままでは彼らに奪取されてしまう。
有難く、自身もまた男に悟られぬように受け取ろうと手を伸ばした刹那。
「おい、何してる?」
がさりと無慈悲にも荷台を開放した男とは別の人攫いに見咎められ、取り上げられてしまった。
「そんなに寒いなら、俺たちが温めてやろうか? もちろん、こんな風情のない場所じゃなく、暖炉のある屋内でだがな?」
そもそもここまでに寒い場所へ連れてきた人間がなにを言っているのだとか、下卑た笑みが吐き気を催す程に不愉快だとか、こいつのような男に身体を許す訳がないだとか。
言ってやりたいことは無尽蔵に浮かんだし、今すぐにでも息の根を止めたいとも思った。
だが、それではアリーの作戦が水泡に帰してしまう。
ここで暴れてしまえば既に捕まっている奴隷たちの開放も、人攫いの一団を壊滅させることさえできない。
「……結構よ」
今の自分にできるのは、気を抜けば蹲ってしまいそうになる寒さに耐えて、弱みを気取られないだけ。
忍耐力ならば誰にも負けない自信があるし、心の機微の制御だって人並み以上にできる。
オラウダが理不尽に蹂躙された時からずっと、いいや生まれてからの人生全て、耐え続けてきたのだから。
たかが極寒。
たかが醜悪な肉欲。
作戦が成功に終われば、耐える必要のない恥辱ならば……易しいものだ。
扉の先には今よりも遥かに酷い寒さが待っていることだろう。
だが、二の足を踏んではいられない。
白亜の世界が広がる大地に、アナスタシアは久しく足を動かしたのであった。
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無機質で、合理的。
それが、収容された牢の感想だ。
薄暗い室内にはわたくしの他にも、アリーやテリアと他数十人の少女たちが押し込められた。
記憶にある牢屋とはもう少し暖かみがあった気が……いや、そう頻繫に投獄されるようなことはしていない。
最後に入った牢………………ダメだ、記憶が混濁している。
石畳の牢屋は鉄格子から吹き込む風が体温をじわじわと削る。
だが、わたくしにはもはや想像でしか語れない。
なにせ、既に体温は肉体が活動をできる最低値まで下がりきっているから。
石畳の床に直接座っても、伝わってくるのはただ無機質な椅子に座っているようにすら感じない。
あの後、人攫いたちは荷台にいた者を並べ、所狭しと並ぶ牢屋のある同じく石造りの前線基地の風格を思わせる拠点まで連れたてた。
膝丈まで降り積もった雪に、時折吹き荒れる寒冷な風、極めつけは嫌がらせなのだろう……人攫いたちは敢えて歩調を緩めて先導したのだ。
今思い返してみると、少女たちの体力を削って容易に反抗できないようにする目的もあったのだろう。
けれど、拠点の扉を目前にして休憩と言って、数十分も立ち止まった時など発狂しそうになった。
今すぐにでも暖を取りたくて気が狂いそうになって、意識は歩いていた時から朦朧としていて、それでも、決して折れなかった。
折れる訳には、いかなかったのだ。
「アナスタシアさん、早くこれを着てください……!」
「ぁりがとう、アリー。けれど、それでは貴女まで満足に行動できなくなるわ。わたくしは、もう大丈夫」
「でも…………!」
「…………アリーちゃん。業腹だけど、アナスタシアちゃんの言う通りよ~。アリーちゃんまで動けなくなっちゃたら~、どうするつもり~?」
「テリアさんまで……!」
まるで抗議するように口調を強めて食い下がる彼女は、やはり驚くほどにお人好しで、羨ましくなるほどに純粋だ。
外套が取り上げられて、もう一枚と差し出すアリーだが、震える身体を無理に抑え込んでいるのが丸わかりだ。
牢に入るまで監視の目があって渡したくとも渡せない状況で、心優しいアリーにとっては身悶えするような時間だったのだろう。
「あのね、アリーちゃん。アナスタシアちゃんはずっと作戦のために我慢してきたのよ~? あたしだって~、すぐにでもアナスタシアちゃんに抱きついてあげたいな~とか~、あいつらくびり殺したいな~とかごっくんしてたんだからね~?」
「……、そう。テリアがわたくしを心配してたなんて……貴女にとってのわたくしはホロウのおまけみたいなものだと思っていたけれど」
「…………、」
皮肉などではなく軽口のつもりで口に出したが……テリアは困ったように眉を八の字に曲げて口ごもってしまった。
「アナスタシアちゃんは~、もうちょっと人の好意とか信用とか……もっと素直に受け取ってもいいと思うよ~」
「そうですっ! アナスタシアさんは一人で闘っている訳ではありませんっ!」
どうやら、愚昧なのはわたくしみたいだ。
まるで聞き分けのない子どもを諭すような物言いではあるが、決して馬鹿にするような口調ではなくて。
だから、心から信頼できない自分が許せなくて。
違う。
弱っているだけだ。
慣れない寒さに、立て続けに起こった不運に、窮屈な旅路に。
しっかりしろ、アナスタシア=メアリ。
ここで自分を失っては──
「ねえ、アナスタシアちゃん。皆がみんな~、敵とは限らないんじゃなぁい?」
敵、とは限らない。
つまり、味方もいるということ。
誰に? わたくしに? 味方が?
遠くなる意識の中で、拙く自分に問いかける。
──君を、知りたいと思った。教えてはくれないか?
──アナスタシア、とそう呼ばせてもらっても構わないか
──強いて言えるのならば、私は君の信念に惹かれただけだ
…………どうして? どんな思考を経過すれば、彼が……?
「……? アナスタシアさん?」
くすりと、気が付けば笑っていた。
怪訝そうに眉をひそめるアリーに返答する余裕なんてない。
全身を突き刺すような寒さに蝕まれて、命の瀬戸際まで追い込まれて。
どれだけ理不尽な扱いを受けようともその存在を思い描くだけで、何者にも負けない気がした。
ああ、誰が言ったのだろうか…………死人に口なし。
辛くて、死にそうで、泣きそうで。
そんな時に無性に甘えたい相手が、オラウダではなくて、数週間程度の付き合いしかない彼で。
けれど、あの白髪の偽善を塗りたくったような男に、心惹かれている。
彼の声を、彼の仕草を、彼の瞳を。
ああ、会いたい。
会って言葉を交わしたい。
そうだ、彼が夜な夜な何をしているのか聞かなくては。
彼だけではない。
ホロウにもきっと苦労をかけてしまっている。
彼と二人きりなど、到底受け入れられないだろう。
いいや、もしかすると存外上手くいっているかもしれない。
夢想すると胸の裡からそっと暖かくなって。
都合よく寒さが綺麗さっぱり消えてなくなるなんて、そんな奇跡は起きないけれど。
「こん……な、ところで──止まってはいられないわね」
けれど、全身を縛っていた不安は噓のように解けていた。
アリーの驚いている顔が、テリアの見透かしたような微笑みが照れ臭い。
空虚な牢獄で、敵だらけの絶望的な状況でも、下を向いてなんていられない。
わたくしは彼に会いたい。
それが偽らざる本音だ。
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なんてかっこいい人なんだろう。
思わず声に出して、言葉にしてしまいそうになってとても焦った。
理不尽に屈さず、不条理を跳ね除けて、窮地なんて早々に打破してやろうなんて気概があって。
今だって、極限の寒さに耐えて、自分なんかを信じて前に進もうとしている。
やっぱり、声をかけてよかった。
あんな狭くて、ちっぽけな荷台の中でも、あの人は一際輝いていた。
住んでいる世界が違うんだな…………と漠然と勝手に思い描いて。
きっとどこかのお貴族様の令嬢で、一緒にいる女の子は腕利きの護衛なんだと解釈していた。
それが、どうして自分たちなんかと同じ空間にいて、取り乱したりしないんだろうとも。
瞠目して考えている横顔も、動作一つとってみても惚れ惚れする所作で、言葉遣いだって別世界の気品を纏っていて。
それとなく聞くと、元商会代表を生業にしていただって…………見栄を張って噓を吐いているようには到底思えない気迫には頷くしかない。
自然と人を惹きつける魅力が、アナスタシアさんにはあるのだ。
そして、実力をも兼ね備えている。
「さて、聞いた通りね。随分と厄介な相手が後ろ盾にいるようだけれど、わたくしたちが首謀者だと気づかれなければ大した問題ではないわ」
「……ねえ~、アナスタシアちゃん。何だか口調変わった~?」
「ええ。もう、飾る必要はないと判断したからよ。わたくしはわたくし。商会代表ではなく、一人のアナスタシア=メアリとして、闘っていくと決めたの」
凛とした声色が耳朶を打つと、黒を白だといっても「ああ、真っ白だ」と認識してしまいそうになる。
アナスタシアさんの言葉を聞いて、テリアさんも満足そうに笑ってる。
「救出人数は六十三人。全員が年端もいかない少女。敵は人攫いグループ総勢八十九人」
「こっそり連れ出すのは~?」
「不可能に近いわ。“未来予知”ができるなら可能でしょうけど、わたくしたちはそんな馬鹿げた芸当できない」
「なんだか棘のある言い方ねぇ~」
仔細に作戦を詰めているアナスタシアさんとテリアさんの足元には看守の男の人が倒れている。
その手際は鮮やかすぎて未だに脳裏に張り付いて離れない。
アナスタシアさんの【権能】で思考を読んだらしいけど……普通、人の意思に干渉する【権能】は相当の体力を使うはず。
けど、アナスタシアさんは自然に、まるで呼吸するように【権能】を行使して全ての情報を聞き出してしまった。
憧憬と呼べる感情が輪郭を伴って健在したのはこの瞬間だろう。
敵は“渓谷からの呼び声”の下部組織で、九十名弱の構成員が完全武装。
対して、助けなければならない少女たちは六十三人もいる上に、実働できるのはあたしたち三人だけ。
改めて、あたしがやろうとしていることが現実離れした夢物語だって気づかされる。
それでも、如何に絶望的な状況でも、アナスタシアさんは成功させようとしてる。
「…………頭を抑えましょう」
「頭ってリーダーってこと~?」
「そうよ。それに、お誂え向きのタイミングもある」
なるほど。
流石はアナスタシアさんだ。
言わんとしていることが理解できて、またも突飛だが堅実な発想ができるアナスタシアさんに敬意を払わずにはいられない。
看守の話では──看守が自主的に話したのではなく、アナスタシアさんが思考を読み取って話してくれたのだが──今夜、人攫いが各地より集めた少女たちを“渓谷からの呼び声”幹部がこの拠点を訪れるのだという。
そして、幹部を迎えるために人攫いたちのリーダーが一堂に会するらしい。
アナスタシアさんはその会議に乱入して制圧、その後、構成員たちに武装解除をさせるつもりなのだ。
最小限の動きで、最大限の結果を出す。
合理的で、効率もいい。
そんな作戦を瞬きの間に思い浮かぶのだから末恐ろしい。
「さあ、再確認よ。まず、リーダーは八人。同時に戦闘不能若しくは、戦意喪失までもっていく必要がある。テリア、お願いできるかしら?」
「もっちろんだよ~。ようやくテリアちゃんの出番ってわけね~!」
「ええ、任せたわよ。後は、どうやって見つからず接近するかだけれど…………」
「あ、あの……っ! その役目、あたしにお願いできませんか?」
「構わないけれど……見つからない確信があるの?」
「いえ、断言はできません。ですが、あたしの【権能】はあたしに無自覚に最適解を選ばせるんです」
──【星辰導希】
あたしが今まで生き残ってこれた理由だ。
自分で選んだ道も、そうではない時も…………流れに身を任せている時ですら自然と最適に行き着いてしまう。
奴隷として買われた時も、逃亡中に彼女に会った時も、アナスタシアさんに声をかけた時だって。
いつだって、【権能】の導くままに選択してきた。
故に、八人のリーダーが集まっている場所まで最適に辿り着けるだろう。
「……そう。なら、アリー。道筋は貴女に任せるわ」
舞い上がりそうだった。
ようやく、存在意義を示すことができた。
アナスタシアさんとテリアさんの二人がいれば自分の出る幕などないとさえ思っていた。
最優先事項は作戦の成功、とどのつまり、奴隷たちの救出にある。
そのためには、二人の尽力が必要不可欠であって、その過程であたしなど微力程度の助力もできないと。
だが、あのアナスタシアさんが、あたしに任せたのだ。
それは戦略的思考からなのかもしれない。
作戦成功にはうってつけの【権能】を保有するアリーという存在を効率よく使っているだけなのかもしれない。
しかし、それでも、嬉しいものは嬉しいのだ。
これで、あたしも、必死に生きていた彼のようになれただろうか。
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柄にもなく緊張しているのが自分でも分かる。
“オドラの邑”で閉鎖的、排他的な小さな共同体で生きてきた自分には分不相応とすら思える、申し分のない大役だ。
自分の働きには六十三人の命がかかっているのだと。
失敗は即ち死だ。
そして、それはあたしではない。
“龍人”である肉体はそう簡単に刃を通さないし、“霊力”だって熟練者でなければあたしの“龍気”を貫通することはできない。
伊達に邑でお山の大将を演じてきた訳ではないのだ。
彼らが慕うのには理由があって、それがただ単純にあたしが頭一つ抜きん出て器用だっただけ。
同世代では『龍人の希望』などともてはやされたテリアちゃんに肉薄すらできなかった。
たった一人、ふらりと外界から訪れたホロウを除いて。
彼女は“龍気”の存在一つ知らずに、持ち前の身体能力だけで“龍人”に挑んだ…………とはいえ、お遊びの球技だったが。
あらゆる面でホロウは子どもたちには勝てなかった。
技術、膂力、チームワーク。
ただ一点、テリアにすら勝てないと思わせた領域があった。
速度だ。
まるで閃光。
瞬きの刹那にホロウはまるで想像のつかない場所まで移動するのだ。
きっと、彼女の潜在的な才覚もあるのだろう。
だが、磨き上げたのは彼女の経験値に他ならない。
そうだ。
ホロウは努力したのだ。
生き残るために。
それに引き換え、自分はどうだ?
“龍人”の誇りなんて取るに足らないなどと斜に構えて、小さな世界で煽てられて世の理の全てを知った風につけあがって。
あたしだってのほほんと間抜けに生きてきた訳ではない。
訳ではないが…………どうしても、ホロウの道程を知れば知るほどちっぽけに思えてしまう。
恵まれていた空間で、納得できる成果を叩き出せたかと問われると否だ。
速度でホロウに遅れを取ったのが何よりの証拠だ。
“龍気”を極めればホロウにだって追いつけはせずとも、いい勝負にはなっただろう。
怠慢だ。
惰弱だ。
そのツケが今に巡ってきているのだ。
正直に、自信はない。
そこらの木端に負けることはないだろう。
だが、強者に勝利を収められることもない。
この世界の強者とは、即ち想像を絶する力を保有する怪物だ。
オンのようにただ“龍気”と経験値に基づいた存在では、強者とは言えない。
不安定な“龍気”を完全に扱えるようになったホロウや、あの得体の知れない実力を誇る『悪人』のような…………つまるところ、勝利のイメージを明確にできない者を指す。
アナスタシアが看守から聞き出した情報では注意すべきは“銀”級冒険者崩れの傭兵が数人だと言う。
テリアには“銀”級冒険者がどの程度の実力者か判断はできないが、オンの足元にも及ばない程度だとアナスタシアは語ってくれた。
ならば一安心だと胸をなでおろせる楽観主義者であればどれだけよかったか。
もし、オンを超える者が──アナスタシア曰く、オンは“金”級冒険者の上位──待ち構えていたら……そう悪い想像ばかりが頭を占める。
「こちらです。このまま直進したら、倉庫につきます」
「そう。そこで、臨時会議をしようってことね」
「はい……遠回りにはなってしまいましたが…………」
「いえ、問題ないわ。どこかで見つかっていればそれ以前の問題だもの」
アナスタシアとアリーの会話が思考を現実まで引き戻す。
気が付けば、薄暗く肌寒い廊下が一つの扉まで繋がる場所までたどり着いていた。
話を聞く限り、作戦が始まるらしい。
もう? いいや、夜も更けているから思いの外監視の目を避けながらの移動では時間をかけたのか?
まさか、警戒すべき自分が物思いに耽って疎かにしていたのか?
そんな軽率なあたしが、武力制圧なんて大役が務まるのだろうか?
鼓動が五月蠅い。
一拍ごとに“龍気”を全身へ巡らせているために体温の急上昇が著しい。
確か、急激に“龍気”を纏うと意識が朦朧とすると聞いた覚えがある。
対処法は…………何だったか。
オンの話をもっと真剣に聞いておくべきだった。
まさか、自分が“龍気”を最大開放する場面に遭遇するなんて考えてもいなかったし、そもそも全力を出さずとも収められると高を括っていた。
重圧だ。
六十三人の命だけではない。
こんな驕りに満ちた怠惰な自分を信じてくれた二人の命を、あたしは最後まで守れるのだろうか。
「…………もしかして、テリア。貴女、緊張しているの?」
「……っ!? 緊張なんて~、あたし知らな~いけど?」
気取られないように必死に取り繕いおどける姿は、きっと惨めに映るだろう。
だが、そうでもしないと二人の信頼を裏切ることとなる。
こと武力においてはアナスタシアも、アリーもまたテリアに全幅の信頼を置いている。
それは作戦の要にも影響を及ぼしてしまっている。
テリアならば、八人の腕利きがいても蹴散らしてくれる、と。
武装蜂起をさせるためには相応の戦力が必要で、ただ打倒するだけでは不十分なのだ。
完膚なきまでに、覆しようのない実力を周知のものとさせなければならない。
「テリア、貴女は強いわ。といっても、わたくしは武に精通している訳ではないから、説得力なんてないわよね」
「……っ! ア、アナスタシアさん……っ?」
アリーが息を吞む音が聞こえる。
あたしも、驚いた。
「素人目で見たらきっと強いのだから、きっと相手が誰でも勝てるよ」と何の保証もないのに口八丁で騙しているようなものだ。
「けれどね、テリア。これでもわたくしはゼロから商会を立ち上げたのよ? 目利きに間違いはないわ」
なるほど、確かに。
“オドラの邑”を出立してから直接聞いたが、スウィツァー商会という新進気鋭の商会を創設したと…………?
「待って。登用した人に裏切られたんじゃ~?」
「そうよ。副代表だった男に利権も、名誉も、商会そのものを奪われたわ」
「え゛……!? とんだ節穴じゃないですか…………っ!?」
まったくその通りだと思う。
ハギンズとかいう右腕同然の男に商会を乗っ取られて、その結果、命を狙われて逃亡生活を強いられた。
それでも、アナスタシアは再起した。
ここで辣腕を振るっているのが何よりの証拠だ。
なんて克己心だ。
不屈で、頑強。
眩いまでの精神だ。
「ええ、疑問に思うでしょうね。けれどね、テリア、アリー。二人が頷ける証拠をわたくしはもっているわ」
豊満な胸をドレスが張り裂けんばかりに押し上げて、自信満々に口を開くアナスタシア。
その証拠は、その根拠は、馬鹿馬鹿しくなるまでの詭弁で、暴論ですらかわいく見える論外の評だった。
だが、テリアにはこの世界のどんな言葉よりも説得力のある答えだと思った。
気が付けば重くのしかかっていた不安は霧散し、強張っていた全身は気持ちが良い程に軽くなっていた。
まるで『女神』だなと錯覚してしまう。
──わたくしはアナスタシア=メアリよ。貴女たちはわたくしと共にいる。それだけで十分じゃない。
意味が分からないと叫びだしたかった。
理由になっていないのではないかと反論したかった。
きっと、アリーも気持ちは同じだっただろう。
だが、二人とも結局はくすりと笑みを浮かべるにとどまった。
だって、事実、十分だと思ったから。
あたしはアナスタシア=メアリと共にいるのだ。
だから、大丈夫。
だから、問題はない。
アナスタシアの【権能】がはたらいた結果なのだろうか、それとも彼女生来のカリスマが成せる業なのか。
判別はつかない。
しかし、結果は明瞭だ。
あたしはできる。
壮大で、分不相応な役割だとしても、だからなんだとやりきれる自信しかなかったから。
因みに、アナスタシアは生来より極度の寒がりです。
なぜ、本人は知り得ないのか? 答えは非常に単純です。
アナスタシアは一度たりとも寒冷地に赴いたことがありません。
帝国東側領土は年中温暖な風が吹き、西側領土と比べても肌寒いと感じることはあれど、滅多に寒いと思う時期はありません。
経験していないことを苦手だとは分からないのと同じで、アナスタシア本人はまさか自分が寒さに弱いとは思ってもみませんでした。




