十八 『妖怪の死』
苛烈する炎は確かな熱を持って結界の内側に放出される。自分以外の生命が淘汰されたこの空間で死んでしまうのは己だけ。だが、愛撫するように頬に触れているこの熱は──命を奪うことのない優しい炎だった。
火中の中心で立ち上がることさえできずに片膝をついていた結希はゆるりと結界を解き、依檻の魂が宿った炎をこの世界に解放する。燃え盛る紅蓮の鞭は、真っ先に阿狐頼がいた大地を抉って快活に笑った。
「いっ、依檻様ぁぁああ! ご無事で何よりでございます! 本当に……本当に……!」
「……覚醒、した? どうして、どうしてユーが、太古の禁術を知ってるの……?」
体内に流し込まれた陰陽師の力が、形を持たない炎の細部にまで行き渡る。それが一箇所に収束し、刹那に弾き飛ばされた火の粉の中央に立っていたのは──内側で唇を噛んで微妙にはにかむ、百妖依檻だった。
「依檻さん」
自分を見下ろしている依檻は普段から見ている依檻ではない。駆け出して、再び幻術をかける頼に〝光〟を差し向ける彼女は初めて見る風姿をしている。
肩よりも上に切られた髪の鮮やかなオレンジ色は、暖炉のようだと今までずっと思っていた。だが、朝が来ない暗闇の中で見るそれはやがて来るはずの黄昏時の色をしている。朝でもなく夜でもないそれは死を連想させるが、彼女のそれは命の輝きで満ちている。愛らしい旋毛から生えた一房の白髪は眩く、真っ赤に淵を彩られた瞳は普段よりも目元を大きく見せて彼女の意志の強さを強調している。
丈が異様に短い白き着物からすらりと覗いている足は、誰よりも健康的な色をしていて人々の視線を惹きつけていた。オレンジ色だとも茶色だとも解釈できるもう一枚の着物は肩を大胆に露出しており、着崩しているせいで強調された豊満な胸は彼女特有の母性を象徴しているようにしか見えない。
血なんて、繋がってないのに。一滴も、同じ血なんて流れてないのに。
両腕を大きく広げて大量の魂を陽陰町の大地から吸い上げる依檻の後ろ姿の美しさは、他の姉妹たちのそれと同等の美しさを醸し出していた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
幻術を壊す九字を切って合図を出す。
実際には五秒にも満たなかったと思うが、依檻に魅せられた時間はあまりにも長く、強く、結希の瞳に焼きつけられていた。
「行きます!」
過剰に張り切るスザクの刃が頼を掠めることはない。無言のオウリュウの剣戟に続いて頼の退路を断つだけだ。
だが、今はそれでいい。百鬼夜行を引き起こすことしか頭にない、今までの行いが失敗していても動じない阿狐頼がここで簡単に死んでくれるとは思えない。自分たちを殺す為に使う妖力よりも、自分の身を守る為に使う妖力の方が多いはずだ。何がなんでも生き抜いて、頼は〝その日〟を待つ。〝その日〟になった瞬間に起こした百鬼夜行で人々が死に絶える様を見ないようなニンゲンであるはずがない。
予想通り軽々と避ける阿狐頼の進行方向に一線を描いた。この手はもうやり尽くしている。気づかれないような策略が必要とされている。
だが、結希にそんな頭脳はない。頭脳だけが結希にはない。依檻のように噛み締める唇はなかった。いつまでもいつまでも詠唱を続け、簡易結界まで張らなければならなかった。
「結希」
「ッ」
振り向いた依檻の微笑が刺さる。実年齢よりも若そうに見える覚醒後の半妖姿のせいか、義姉でも母親でもない普通の女性のように映る彼女から一度も目が離せない。
そんな依檻の厚い唇が動いた。少し前までの自分だったら確実に見逃していた動きだった。
『大丈夫。〝お姉ちゃん〟の力を信じなさい』
読唇術で読み取った言葉は、今までで何度も聞いたことのある言葉だった。
忘れられず、ずっと耳の奥で残り続けるこの言葉に一体どんな魔法がかけられているのだろう。結希は唾を飲み込んで、僅かに顎を引いた。
「────」
祈るように、依檻が両腕を真上に上げた。手と手を合わせ、神々に感謝を告げる巫女のように心を込めて人々の魂の眩き光を天空に集結させる。
先刻まで星々が消えていた暗黒の夜空を照らし続けていたのは依檻の炎だった。だが、魂がそれに代わるように輝いている。星々のように見えたそれは月のようで、太陽のようで、最終的にぼんやりと見えたのは朝日だった。だが、たった一つの強烈な光から離れて浮いている魂もある。
そんな魂の軌道は結希に一つの道を示した。自然と動く指先はそれをなぞり、見えない壁が荒れ果てた荒野に出現する。その壁の位置を眺めているだけで我に返った。
退路を絶たれた阿狐頼が、結界の檻の中に閉じ込められている。それでも余裕そうに見えるのだから彼女からは底知れぬ恐怖を感じる。
「信じてくれてありがとう、さすが私の弟兼教え子ね」
刹那、蕾が開花するように両腕を広げた。本当に蕾が開いたかのようなしなやかさだった。
「ありがとうもなにも、あんたは俺の姉さんで──」
それができる綺麗な背中に向かって声をかける。六年前の自分も見ていたかもしれないその背中。六年前もこうして守ってくれていたかもしれない人に向かって──
「──〝恩師〟だから」
──そう、言葉を続けた。
聞こえていたかどうかはわからない。花火のように爆散した魂が唯一の〝穴〟である上空から阿狐頼に向かって降り注ぐ。
二度と燃えないわけではないのか、指先に炎を灯した依檻は瞬時に業火をその手に宿した。油を撒き散らしたわけでもないのに、結界を取り囲む火の海は今まで以上に炎上している。
「はぅぅ〜! 眩しくて目がチカチカいたします〜!」
「……強い、力。だから、禁術になった……」
炎から逃れたスザクとオウリュウが戻ってきた。依檻は戻ることなく結界の中を凝視しており、結希は思わず息を止める。
「結希!」
通常の人間よりも早い速度で駆けつけてきた亜紅里は、結希の傍で速度を落として辺りを見回した。
「なぁ、ママとポチ子はどうしたんだ。なかなか戻ってこないんだが?」
視線を移すと、眉間に皺を寄せた亜紅里が当然のように視界に入った。人懐っこそうで幼さまで感じるような顔つきなのに、本当の彼女は今結希に見せているように淡白だ。
それが本当の意味で曇る様を思い浮かべて、結希は息を止めたまま答えることを一瞬躊躇う。
「ま、ママは……」
もう、彼女が知るママの残骸はどこにもない。時間が経つと、妖怪はその身を大地に染み込ませる。まるで、帰るべき場所がどこだか心得ているような──。
『アグリ』
「ママ」
振り返ると、そこには何故かママがいた。最期に見た時と寸分の狂いもないママが悠然と歩いて亜紅里に擦り寄る。
「心配しただろ、ママ。阿狐頼に構っていたのか?」
『スマヌ』
「ま、ママ? どうして……」
『シンダトオモッタカ。ヨウカイニ〝シ〟ナンテソンザイシナイノニ』
クツクツと、阿狐頼のように笑うママはやはり狐の妖怪だ。結希は呆然とママを捉え、ママの発言を反芻させる。
「〝死〟なんて、存在しない……?」
そんな馬鹿な。目を背ける。そこには収束した炎と蛻けの殻と化した結界があった。
「逃げられたわね」
呟き、結希の視線に気づいたのか地面をつま先で軽く啄く。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」
念の為に九字を切った。結界の中だった空間は歪み、本当の姿を全員の前で暴かれる。
栄養という栄養を根こそぎ奪われて空虚となった戦場の土地には、無残な穴が空いていた。それは、阿狐頼が逃げた形跡だった。
「あっちゃん、そっちは全部倒したの?」
「あぁ。結界が張られたのと、《カラス隊》の到着でなんとかなっただけだがな」
「それでも凌げたんだから立派なものよ」
「風丸は? 小倉さんたちはどうなった?」
亜紅里は結希を一瞥した。それだけで何も言わなかったことに不安を覚え、「来てみればわかる」と口角を上げた亜紅里を小突く。
「もったいぶるな」
「安心安全、無事だって捉えてほしかったがな」
「そんなの俺には無理だからな」
二人で歩き、振り返る。スザクとオウリュウは当然のようについてきたが、依檻は荒れ果てた土地を不快感を顕にさせながら見つめていた。




